『春にして君を離れ』学習会報告

日時  :2021年8月1日(日曜)13:00~15:00
テキスト:アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』(ハヤカワ文庫 2004年)

 

アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』をテキストに、8/1にオンライン学習会を行いました。

クリスティーと言えば推理小説ですが、この作品では殺人事件は起きません。
主に家庭での出来事や、家族の関係が描かれています。
ところが、なんとも恐いのです。
誤魔化して生きていくことの恐さでしょうか。
主人公のように生きているつもりはないものの、どこまで誤魔化さずに生きることができているのかということになると、他人ごととは思えません。

 

学習会の参加者からも同様の声があり、自分にも思いあたってグサグサ来たという方もありました。

他方、主人公たちが哀れだという感想や、この小説はリアルではなく、いかにも作り話だという声もありました。

読む人によって評価が大きく分かれる作品のようです。

 

さて、以下私(田中)の感想と、運営委員の山元さん感想を掲載します。

 

 1.ジョーンの気付き

第二次世界大戦、開戦間近、イギリスの田舎町の中流家庭が舞台だ。
主人公のジョーンは48歳の主婦、夫は弁護士である。

一男二女の子どもたちの思春期以降、夫婦や子どもたちに様々な問題が現れていく。

しかし、ジョーンは、たとえば、彼女が蔑んでいる女性への、夫の熱い想いに、気づきたくない。
また、妻のある年配の男性との長女の熱愛に苦慮しながらも、たんに「汚らしい」関係だとしか解さない。
彼女にとっては、すべては偶然おかしなことが降ってわいただけである。
だから、問題はさらさらと流れ去って行き、「すばらしかったわ、わたしたちの人生は」と言う彼女の容姿は、歳不相応に若い。
夫との会話は常にかみ合わず、子どもからの辛辣な批判も、難しい年頃の彼らの問題だとしか考えない。
むしろ、自分の才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負している。
経済的に豊かな階層に暮らしていることに満足し切っているようだ。

ところが、バグダッドで暮らす末娘を見舞った帰り道、悪天候のため砂漠の駅で足止めになった数日間に、彼女は回想を繰り返すことになり、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに徐々に気付いていく。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
末娘に自殺未遂があったらしきことにも、ようやく思い至る。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、クリスティーは小説の最後の最後までをかけて見事に描き切っている。

 2.夫、ロドニーの欺瞞

ジョーンは、早く家に帰って夫に会い、自分の悔いる思いを話したいと、はやる気持ちで汽車に乗る。
生き直そうと。

ところが、いざ帰宅したジョーンは、結局すべてを無かったことにする。

そのとき、夫、ロドニーも、無かったことにすることに、それとなく手を貸す。
妻が留守中の、心休まる「休暇」が終わったことを、残念に、また煩わしくさえ思いながらも。
また、妻がどこかいつもと違うと感じながらも。

その日、二人の会話がふとかみ合う。
夫の何気ないからかいに、彼女が表情をゆがめた。
やっとかみ合った、そのとき、ロドニーは驚きを隠して、話題を変える。

それまでも、彼は、ジョーンが他人の境遇を「かわいそうな人」と憐れむことを嫌っていながら、彼自身も、妻との話がかみ合わないとき、彼女を見やって微笑み、「かわいそうなリトル・ジョーン」とからかってきた。
妻のものの見方が表面的だからだ。
たしかに、ロドニーは、妻に比べればはるかに見識が高い。
しかし、二人の生き方に、どれほどの違いがあるだろう。

そして、小説の最後の場面でも「かわいそうなリトル・ジョーン」、「ひとりぼっちのリトル・ジョーン」。
否、私にはあなたがいるわと言って駆け寄るジョーンに、「そう、ぼくがいる」と彼は応える。
しかし、彼の独白は、「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように」。

一見優し気で頼りになる夫の裏の顔にぞっとさせられるのは、それが彼の精一杯の愛情であり、また彼がどこにでもいそうな男だからである。
この二人のように、結局のところ夫婦が真剣に対立することも、高め合うこともなく、バラバラに生きているケースは少なくないように思われる。

たしかに、日常生活を生きる夫婦が互いに向き合うのは面倒なこと業であり、また、ロドニーは、子どもの問題の要所、要所では妻とかみ合わずとも話し合い、父親としての役割を果たしてきたと言える。
だから、ジョーンは薄々問題に気づいていた。
しかし、ロドニーに彼自身を超えていく気はなく、妻の気付きの芽を二人して摘み取ってしまう。
そもそも、ジョーンが何食わぬ顔で問題に蓋をしてきたのは、夫も共犯であり、彼の人間としての覚悟に欠ける弱い面を、彼は妻に託して生きさせて、彼自身の問題にはしない。

 3.「自分本位」とは

ジョーンは「自分本位」ではなく、夫のことを第一に、また「子ども本位」に考えてきたのだと自画自賛する。
しかし、果たして「自分本位」がよくないことであり、「子ども本位」がよいことなのか。

その後、彼女は砂漠の駅で、自分が夫第一でも子ども第一でもなく、また、彼女自身のことも置き去りにして、向き合えないできたことに気付く。
つまり、「自分本位」でも「子ども本位」でもなかったのだ。

また、彼女は、夫が働いてきたから子どもたちに「最高」の生活や教育を与えることができたのであり、「お父さまはあなたたちのために犠牲になってくださったのよ」と子どもたちに説いてきた。
それが親の義務であり、どこの親もそういう苦労をしているのだと。

この考え方は、子育ての目標を何だと考えてのことなのか。
本来の親の使命は、子どもを、今の社会を超えていけるような、自立した一個人をして育て上げ、社会に送り出すことだ。
そのためには、親は誰かの「犠牲」になるのではなく、この社会を超えていこうとする、自立した一個人として生きるしかない。

ロドニーが、第一子が生まれた頃に農場経営への転職を思い留まったのは、子どもの「犠牲」になったのだろうか。
妻の反対が理由だろうか。
彼は後々、その時の妻の反対を持ち出しては、冗談めかしてなじっているが、彼に本気で農場経営をする覚悟などあっただろうか。

彼には国の農業政策に問題があるという認識があり、弁護士の知識まで持っているにもかかわらず、問題を多少とも解決して、農業を成り立たせていこうという覚悟は無かった。
だから、生活も成り立たないような農業は選べなかったという彼自身の問題だ。
妻と同様の価値観で、代々の弁護士業という階層に留まる方を選んだだけだ。

なのに、彼が子どもや妻の「犠牲」になったと考えるなら、それは二重、三重の嘘である。
クリスティーは、そういうごく普通の人の、どこにでもある嘘やごまかしを浮かび上がらせている。

「自分本位」とは、たとえば、農業経営に憧れるから選ぶというようなことではなく、その農業経営が成り立つような社会をつくるという自分のテーマ、その闘いを生きることなのではないか。

 

運営委員、山元さんの感想

山元比呂子

自分だけだったら、まずこの本は読まないし、読んだとしても1回読んだだけで打ち捨てていたと思う。
読書会で取り上げられたために、2回目を読んで、参加者の皆様とお話ができて、結果、新たな発見があった。
1回目はジョーンの描写を中心に読み進んだ。

「最後まで自分の作り上げた虚構を信じたまま死ねればよかったのにね。なまじ途中で気がつくことはなかったんじゃない? 周りの人もジョーンにあれこれ言うのは余計なお世話でしょ。」というだけの感想だった。
で、大して感銘は受けなかった。

でも、2回目を読んでみてジョーンズ以外の脇役のブランチ、レスリー、サーシャ、校長先生などの描写を丁寧に読んでみると、いろいろ面白いことが書いてあるのに気が付いた。

 

私はこの本のテーマは、「情熱と分別」だと思う。

ジョーンのように分別ばかりの人生は虚しいものになるし、情熱を追い続けると、現実世界ではいろいろな困難に出くわす。

結局、どっちを取るかはその人次第。人それぞれに分別と情熱の折り合いをつけながら生きていくしかない。

人生を豊かにするのは情熱だし、社会に適合し自分の身を守るのは分別。

この小説は、世の中の多くの分別だけを信じて生きている人たちに対するアガサクリスティの痛烈な批判だと思う。

2021年8月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
親子関係や、子どもたちを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
クリスティーと言えば推理小説ですが、そうではない小説もあり、当初は別のペンネームで出版されました。
その中の一作です。
殺人事件は起こらないのですが、なかなかミステリアスです。

主婦のジョーンは、その才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負していましたが、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに気付いていきます。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、小説の最後までをかけて描き切っています。

私は、この社会には女性差別がある一方で、家庭の多くは実質的には妻が牛耳っているのではないか、それは一体どういうことなのだろうということが心に引っかかってきましたが、ジョーンもそのタイプです。
私の親世代の家庭の多くがそのようですし、また、鶏鳴学園の生徒たちの作文にもお母さんはよく登場するのですが、お父さんの影がたいへん薄いです。
その現実を、80年も前にクリスティーがリアルに描いていたことも、おもしろいと思いました。

 

どうぞテキストを読んでご参加ください。
小説ですから、いつも以上にラフに話し合いましょう。

 

  1. 日時  :8月1日(日曜)13:00~15:00(今回は、これまでより開催時刻が1時間早いので、その点ご留意ください)
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』(早川書房 クリスティー文庫81)
  4. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

『ぼくらの中の発達障害』学習会報告

日時  :2021年3月7日(日曜)14:00~16:30
テキスト:青木 省三 著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)

 

この春も、昨夏、昨冬に続いて、オンラインで開催しました。

テキストの著者、青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。

近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが、小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。

しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。

これらが、今回このテキストを取り上げた私の問題意識でした。
青木氏が述べていることは、「障害」を持つ子どもだけの問題ではなく、広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えます。

 

以下、テキストについての私の感想と、運営委員の山元さんの感想を掲載します。

 

 

「発達障害」の社会的な土壌

田中由美子

1.「発達障害」の概要

青木氏によれば、「発達障害」は、1943年にアメリカの精神科医から子どもの「情緒的接触の自閉的障害」の症例報告がなされたところから研究が始まった。
それまでは、精神発達の障害と言えば知的障害だけが知られていたが、その後「自閉症」や「アスペルガー症候群」といった、社会性や対人関係に困難があるような「障害」の研究が進む。
現在、その原因は、親の養育や性格などによる心因性ではなく、脳の軽微な障害など生物学的なものとされているが、その詳細はわかっていないとのことだ。

「自閉症」は、乳幼児期から問題が現れ、基本障害は言語/認知機能の障害であるという。
これが「発達障害」の中核的なものであり、その75%が知的障害を伴う。

それに対して、「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」と呼ばれるものは、思春期・青年期に自閉症の傾向が現れ、言葉の発達の遅れは伴わないが、学校や社会での対人関係に困難を抱えることが多い。(二つの名称の違いは曖昧なものであり、青木氏は「アスペルガー症候群」の方が「広汎性発達障害」より障害の傾向が強いと位置づけている。)

有病率は、前者の「自閉症」が1000人に2-3人、後者の「アスペルガー症候群」などが100人に1人という。

なお、この二種の区別が難しいケースもあるという。

また、本書で青木氏が主に論じている「発達障害」は、二種の内、後者の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」である。

 

 2.社会の変化による「発達障害」

青木氏の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」についての基本的スタンスは、その要因として、個人の特性よりも、社会的、文化的なものの影響を大きく見ていることだと思う。
それが、本書をテキストにした第一の理由だった。
そうでなければ、この問題に戸惑い、苦しむ人の増加が、説明できない。

まず、経済的には、ここ半世紀で産業構造が大きく変化し、「真面目だが、無口で不愛想な人たち」が働きやすい農業や漁業、または職人などの仕事が激減したこと。

また、社会的、政治的には、共同体にわかりやすい規範のあった以前に比べて、共同体的な人の繋がりが崩れた今、社会の規範が複雑になり、社会でも学校でも「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ようになったこと。

そして、そのことにより言葉の役割が重くなり、さらに、「言うべき「何か」を持っているかどうか」よりも「コミュニケーション能力」が過度に強調されていることなど、文化や教育の面での問題も挙げている。

そういう社会の変化の中で、「広汎性発達障害」の傾向を持つ人が破綻をきたしやすくなっているという見方だ。

彼は、「特に日本という国、日本文化の中で生きていくというのがより一層困難を与えているのではないか」と述べる。
また、「発達障害の傾向を持つ人が、改めて力を発揮できるようになることが、今の時代と社会に問われている課題の一つ」だと。

 

それは逆に、「発達障害」の増加が、今の私たち、日本社会の問題をあぶりだしているとも言えるだろう。

経済的には、たとえば農業など一次産業が衰退し、食糧の多くを、また農業肥料の原料のすべてを輸入に頼っているというような歪な産業構造は、すべての私たち、日本人にとって大問題だ。

また、社会的、政治的には、「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ような社会や学校であってはならないということではないか。
それぞれの組織の目的に合ったルールを、主体的、民主的につくっていけるような能力や制度が求められるのではないだろうか。
本質的な最低限のルールさえ守ってさえいれば、個人の自由は守られるという組織や学校でなければならないのだと思う。

私たちの社会の組織や学校がそうなっていないから、文化、教育面で「コミュニケーション能力」がいたずらに強調されているのではないか。
また、「コミュニケーション」の大流行は、対話を重視するという面で正しい方向ではあっても、自分たちの社会がどこを目指すのかという目的を、私たちが定められないでいること、つまり「言うべき「何か」」のナカミが無いことの裏返しでもあるだろう。

 

3.思春期なのに「よい子」

もう一つ大切な観点だと思ったのは、「広汎性発達障害」の傾向を持つ子どもが、思春期に友人や仲間を得にくい要因として、青木氏が、彼らが他の子どもたちよりも長い間「よい子」であり続けることを挙げている点だ。

一般には、「発達障害」を抱える人が他人の気持ちを読み取りにくいからだと説明されるようだが、青木氏は、思春期に大人から与えられた規範に反発したり、自分なりの規範を作り始める同世代に後れを取って、浮いてしまうのだと感じている。

 

これは、学校生活が息苦しいと感じている塾の生徒に私が常々見てきた傾向と、一致する。
学校規範では救われないから苦しいのに、思春期に入っても「よい子」から抜け出しにくい。

さらに、それは今の子どもたち一般的な傾向であるように思われる。
つまり、自立が難しく、自立に至る過程としての反発や疑問が弱い。
戦後、経済が急成長して私たちの社会や豊かになり、子どもは長い期間教育を受けられるようになった。
そのことはもちろんよいことだが、その分親子の一体化は強くなった。
子どもたちが、思春期以降も長い間親に養われながら、精神的な自立を果たさなければならないという矛盾や困難がある。

また、この自立の問題は、今の子どもたちに始まったのではなく、一般には私たち、親の世代からの課題ではないだろうか。
高度経済成長時代に育った私も、親からの自立はたやすくなかったし、今もまだやり残しがあるんじゃないかと感じている。
子どもたちは、ときに、彼ら自身の自立と、親の自立の問題を二重に背負っている。

つまり、思春期の「発達」が、社会全体として難しいのが今である。
自立や、あるいは思春期自体が難しいという社会の土壌があり、「発達障害」的な戸惑いや苦しみが増えているという面があるのではないだろうか。

 

 

学習会と、テキストの感想

運営委員 山元比呂子

家族以外の人と交流する機会がすっかり少なくなっている中で、この読書会で皆様と充実した話ができて、良い刺激になりました。
参加者の皆さまのそれぞれの視点からのお話を聞くことができて、新たな気づきが生まれました。
人との対話を通じて自分の輪郭を知ることができるというのは本当ですね。
おかげさまで、自分でも考えを深めることができました。
また、今回はいつもより少人数の会だったので、ゆっくりアットホームな感じだったのも良かったです。

 

以下、課題本を読んで考えたところです。

P78 「子どものぼんやりとした身体感覚が「痛い」という言葉に結びついていく。」

自分の感覚に言葉を与えることは、大人にとっても重要だ。
ネガティブな感覚・感情には蓋をしがちだが、そこに向き合って言葉にして初めて、ネガティブな感情に対処できる。
言葉にしない限り、その感情に振り回されてしまう。

P91「(コミュニケーション)以上に大切なのは、何を伝えようとするかだ。」

私自身、若い頃はこの問題を自覚していた。
「なぜ、自分の考えがないのか?」と自己嫌悪になったりしたが、今振り返れば、それは常に受け身の生き方だったからだと思う。
それは、自覚の問題であることは否定はしないが、家庭にも学校にも、自分の考えを持ち、意見の違う人たちと話し合うことを積極的に奨励する文化がなかったことが大きい。
今でこそ、「自分で考え、主体的に行動する」ことが表面上は賞賛されるようになってはきたが、それはあくまで親や教師の意向に沿った範囲内でのこと。
実際には、自分の考えを持ちすぎる子どもは、依然として疎まれることの方が多い。
このような文化の中では、どんなに高い教育を受けようとも、自分の考えを持ち、伝えるべき「何か」を持っている人は稀だろう。

P98「彼らの悩みは、どうしようかという迷いではなく、どうにもならないという結論である。」

発達障害の特徴の一つが、柔軟に考えることができないということだ。
曖昧さ・複雑さを処理できない。
だから、白か黒かになってしまう。
誰かから「論理的で、具体的なアドバイス」がもらえば、白い点と黒い点の間がつながって、やっと納得がいく。
このことは、筆者の言う通り、脳の構造という側面もあるだろうが、経験値の少なさが大きな原因だと思う。
少なくとも、「発達障害的な傾向を持つ」程度の人は、多くの社会経験を持ち、経験値が蓄積されていけば、それなりに克服していける。
伝統的な共同体が崩壊し、子どもが多様な社会経験をつみながら育つ場が急速に少なくなっていることが、発達障害的な傾向を持つ人が増えている原因だと思う。

P106「発達障害の傾向を持つ人だからこそ、できる仕事があるのではないか。」

発達障害を一つの際立った個性ととらえれば、社会の多様性につながると思う。
全員が同じ方向を向いて、同じ能力を競っている社会はもろく危うい。
発達障害の人も含めて誰もが、自分の得意・不得意を自覚し、不得意な分野は人と協業するなど補完しあって、自分の得意を生かして働ける社会であって欲しいと思う。

2021年3月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
親子関係や、子どもたちを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月、青木省三著『ぼくらの中の発達障害』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。
青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。

近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。

しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが大問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。

「発達障害」にも様々なケースがあり、安易には論じられませんが、私には、青木氏が述べていることが「障害」を持つ子どもだけの問題のようには思えません。
広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えるのです。

ご一緒に考えてみませんか。

 

テキストは、第五章まで目を通してご参加ください。
特に第三章のp89-93、第四章のp100-104について、皆さまはどのようにお考えになるでしょうか。

  1. 日時  :3月7日(日曜)14:00~16:30
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:青木 省三 著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマ―新書)
  4. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)

 

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 「家庭・子育て・自立」学習会事務局

『校則なくした中学校』学習会報告

 日時  :2020年12月12日(土曜)14:00-16:30
テキスト:西郷孝彦 著『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)

 

昨年12月に、8月に引き続きオンラインで学習会を開催しました。

学習会が終わって間もないころ、福岡県弁護士会の調査による「ブラック校則」の新聞報道がありました。
福岡市立中学のなんと8割で、生徒の下着の色を指定していたとのこと。
みなさんも驚かれたのではないでしょうか。
教師による「下着点検」が行われていました。
『校則なくした中学校』が校則をなくしたのには、それだけおかしなことになってしまっている中学校の現状が、背景としてあるのだと思いました。

ところで、その「下着」の校則に比べれば、学校で制服や靴下の色が指定されているのはごく一般的なことです。
指定の色とは異なる靴下をはいて登校すると、注意を受けるようです。

しかし、下着ではなく、靴下の色なら大したことのないことなのだろうか、とも思います。
教師からそういった校則を示され、生徒は無条件に従わなければならない、校則を変えようなどとは思いもつかない、変えることができるのかどうかも知らない、それが生徒たちの現状です。

果たして、その教育の目的は何でしょうか。

 

「世界を変えなさい」

 

世田谷区立桜丘中学校の校長を十年務めた西郷氏の教育理念は、「世界を変えなさい」である。

学校は何のためにあるのか。

たいていの学校では、生徒が今ある社会に適応して生きていけるようにということが教育目標になっていないだろうか。

それに対して、西郷氏は、今ある社会を変えていける人間を育てることを教育目標とする。

 

1.彼自身が学校を変えて見せた

彼はそれまであった校則をなくしてしまった。
何のためだったのか。

制服を着なければならない、遅刻してはいけないといったことが、生徒を委縮させるケースがあることに気付く。
そらならと取っ払って、学校を生徒が安心できる場にしようとした。

しかし、彼はたんに生徒を「自由」にしたのではない。

今あるルールを疑い、教育の本質を問うた。
本来人間に備わった「よく生きよう」という意志は、「安心して過ごせる、安心してみずからを表現できるような環境の中で」発動するのだと彼は述べる。
それを妨げる校則を廃止し、生徒がよりよく学べるように具体的な施策を次々に繰り出す。
校則にただ従うのではなく、自分で考え、判断できる力を養おうとするのは、生徒たちが自分でこの社会を変えていけるようにするためだ。
教師は生徒会が決めたことの実現に奔走し、かつ、様々な立場や利害が絡む現実も学ばせる。

当然、教員に対しても、授業や法律をきちんと勉強して教育界を、そして世界を変えなさいと求める。
そのために管理職を目指しなさいと。

そして、彼自身が学校を変えて見せた。

 

2.批判精神

なぜ、西郷氏は学校を変えることが出来たのか。

まず、彼の批判精神がその本質だと思う。

茶髪にしてきた生徒の後ろに何があるのかを見通す彼の深さと温かさは、ときに生徒への批判の言葉にもなる。

教師の考え方も厳しく批判し、また、どの教師が生徒から人間として評価されないかを露わにして、育てる。

教育とは「心を引っ掻き回すこと」、つまり固定観念を覆し、前提を疑うことを教えることだと彼は考える。
批判精神を育てることが教育なのだ。

彼は、大学卒業後最初に配属された「養護学校」(現 特別支援学校)でも、生徒たちに、周りに世話になっているという遠慮や卑屈さがあると気付き、それを「ぶち壊してやろう」と、抑圧を解き放つような楽しい企画を仕組んでいった。

批判精神を別の言い方にすれば、彼は問題を見ようとする人だ。
漠然と生徒全体を捉えようとするのではなく、「問題を抱えた子」、「困っている子」に焦点を合わせるべきだと繰り返し述べる。

問題にこそ組織の本質が現れると捉え、また、そこに学校をよりよくしていく可能性を見るのだろう。
「問題を抱えた子」に集約して現れてくる問題は、一見問題のない他の生徒たちの抱える息苦しさとつながっていると、私は実感している。
また、学校の「スマホ禁止という建前」への西郷氏の批判に賛成だ。
スマホやSNSに関して実際に生徒間で問題が多発しているのだから、たんに「禁止」にするのは逃げである。

 

3.  学校を社会に開く

西郷氏は、学校を社会に大きく開く。
これが、彼が学校を変えることが出来たもう一つの本質だと思う。

校則はなくとも、法律はあるのだと、彼は学校に警察を入れる。
暴力の問題はもちろんのこと、学校で物がなくなれば警察に頼み、鑑識が来て指紋や証拠を集めて行く。
内内に処理するのではなく、問題を公にする責任を負って、中学校も社会であることを生徒たちに示す。

教員に対しても、「転職」を心に抱けと、教職を離れることも勧める。
教員免許を取ったから一生安泰という前提を考え直すべきだと。
その前提が人間の成長を止めてしまい、また、いざというときの逃げ道をなくしてしまって「教員の心の病」の問題にもつながるのではないかと。

また、彼は学校を変えるために区や教育委員会を巻き込むのはもちろんのこと、企業や地域のあらゆる人たちとどんどん手を組んでいく。
自分で世界を変えるという彼の理念が、地域の人の志と響き合い、それが活きる。
そういう風に私も生きたいと思う。

 

4.何も変えられないと教える教育

西郷氏は、80年代に赴任した、荒れる中学校で、「生徒が生徒を締め付ける」ところに学校の問題を見る。
「自分たちが力で押さえつけられ、学校を楽しめないので、なぜか下級生に対しては教員の代弁者になって、少しでも楽しんでいる下級生を見つけると、「調子に乗るな」と脅したりします」。

これはたんに過去の話ではなく、教師の管理を真似て、生徒が生徒をバッシングし、ときにはいじめに発展することが何度も述べられている。
私も塾の生徒たちを通して、度々その事例に見てきた。
すっかりおとなしくなった今の中学生たちも、教師の側に立って、校則を破った生徒を責めることが少なくない。
バッシングを受ける生徒だけではなく、バッシングする生徒にもどれだけの不安や抑圧があることか。

多くの中学生にとって、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという校則は、ただ教師から示され、無条件に守らなければならないものでしかない。
その上からの抑圧自体を疑うのではなく、逆に、そこから外れた者をさらに抑圧する。

もちろん、指導の責任を負う教師の側に、校則決めに対して生徒より強い権限があってもよいだろう。
しかし、生徒の側に、校則を変える権限が一切ないとしたら、その教育は彼らが社会で生きていくときのためになるのだろうか。
それでは、社会に出て様々な困難や問題にぶつかったときに、すべてをたんに個人の自己責任としか捉えられず、組織のルールを疑うことができないのではないか。

また、人権を保障する法律や組織のルールを盾に、自分の身を守ることもできないのではないか。
校則は本来、たんに生徒の権利を制限するのではなく、その権利を守るためのものでなければならない。

 

5.社会は変えられる

生徒たちが毎日長い時間過ごす学校に安心が無いのは、その教育目標がまちがっているからではないか。
生徒の進路進学を、今ある社会の中の職業や社会的地位の椅子取りゲームのようなものだと捉えていないだろうか。

本来の教育目標は、今ある社会を前提に、自分をどこに当てはめるかという強迫的なものであってはならない、「世界を変えられる」人間を育てることだと、私も思う。
それは自分が変われる、成長できるということでもある。
自分が成長せずに、周りを、社会を変えることなどできないのだから。

西郷氏は、昨年の3月で校長を退任した。
「自分たちで社会は変えられる」、「世界を変えなさい」と教えてきたから、何も心配ないという。

2020年12月学習会のご案内

「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
 親子関係や、子どもを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月、西郷孝彦著『校則なくした中学校』をテキストとして、下記の通りオンライン学習会を行います。

テキストは、世田谷区立桜丘中学校の大改革の記録です。
著者は、この公立中学校の改革に10年取り組んできた校長です。

さて、テキストのタイトルですが、校則がないのがよい学校でしょうか。
西郷氏は、なぜ、何をどう考えて「校則をなくした」のか。
現在の学校にどんな問題があり、本来学校はどうあるべきなのか。
また、親子関係は、またもっと広く、教育はどうあるべきか。
内容が具体的で、読みやすく、ヒントが満載です。

みなさま、どうぞ奮ってご参加ください。
テキストは、時間の許す範囲で読んでみてください。
学習会当日、大事な箇所は確認しながら進めます。

  1. 日時  :12月12日(土曜)14:00~16:30
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. テキスト:西郷孝彦著『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)
  4. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

 

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『子どもと学校』学習会報告

日時:2020年8月30日(日曜)14:00-17:00
テキスト:河合隼雄著『子どもと学校』(岩波新書1992年)

 

久々に学習会を行いました。

コロナ禍にあってオンライン開催だったことにもよるのか、今回はお父様にも3名参加していただきました。
子どもの教育は母親に任せっきりという家庭はこれまで少なくなかったと思いますが、社会は確実に前へ進んでいるのだと実感します。

また、現在就活中という大学生のお母様の話は、中高生の親御さんたちの悩みの、多少の相対化になったのではないでしょうか。
大学受験のときから、本人の自主性次第だと思ってはいたけれど、社会から隔絶された学校で自分を確立することも難しく、ますます自主性が問われる社会で息子がやっていけるのか不安だと話されました。

なお、私が最近授業や学習会を通して感じていることは、人間の子どもというものは、親のすさまじいまでの子への思いがあってここまでに育ってきたのだなあという思いです。

また一方で、それでも、というか、それだから、いったいどこを目指して教育するのか、その方向性のあり方が重大だと思います。
河合氏もそのことを論じています。

以下に、今回のテキストに沿って私の意見や疑問を述べます。
そして最後に、学習会参加者の感想の一部を掲載します。

 

1.「価値の一様性」

価値観の多様化が進んだと言われているが、逆に「勉強ができる子」がよい、「素直なよい子」がよい、という価値の一様化が進んでいると、河合氏は述べる。
大人のその狭い考えは、子どもの問題として表に現れ、そのとき大人は、それを子どもの問題ではなく、自分たちの問題として受け止めて、生き方を深く考え直すべきだと。

しかし、こう言われて、それが自分の問題だと思う親はどれくらいいるだろう。

私も、子どもを育てていた頃、「勉強」がすべてだなどとは思っていなかった。

しかし、じゃあ「勉強」以上の価値は何かといえば、私はそれを明確に持ってはいなかった。
今は、それは「自立」だと考える。
自分の考えの基準やテーマを持って生きられるようになることを、はっきりと教育の目的とすべきだ。
「勉強」はそのための手段である。
そして、子の「自立」を達成するには、親自身も「自立」を追求しなければならない。
そう考えるようになるまで、私は結局、「勉強」と「素直」という一様化した世間の価値で、子どもを育てたのだと思う。

このテキストが書かれてから30年経っても、この問題は今も変わらず、そして大人だけではなく、中学生たちに深く浸透していると感じる。
彼らの多くの意識は、「勉強」ができるといった、教師や親にほめられる生徒を評価し、校則を破るなどして大人に叱られるような生徒の価値を低く見る。
校則の意味を疑うこともなく、正義にもとることをした訳でもない生徒を、教師だけではなく、生徒までもが責めたりする。

大人の価値観がそのまま子に刷り込まれるのは当然だが、そこに疑問を感じ、超えていく可能性が生まれるのが思春期だ。
ところが、その大人や社会への疑問や不満が、きれいに折りたたまれて片付けられたり、不発だったりと、「よい子」が多いと感じる。

 

2. 思春期=『さなぎ』=不登校

河合氏は、不登校を論じたⅢ章4節で、思春期を「さなぎ」に喩えている。
人間が子どもから大人になるのはなかなかたいへんなことであり、「毛虫が蝶になる中間に『さなぎ』になる必要があるように、人間にもある程度『こもる』時期が必要」であると。
そして、「思春期から青年期にかけて、ほとんどの人に、それは何らかの形でやってくる」、何もする気がしないとか、勉強に身が入らないといった形であると述べる。
多くの中学生が、彼ら自身の悩みとして口にすることだ。

河合氏はⅠ章で、そのように立ち止まるということが「内的成熟」のために必要だと論じている。
「内的成熟」こそが思春期に遂げるべき成長だということだろう。

そして、その『さなぎ』の状態が「よりきつい形であらわれてくると、不登校」という形になると見ている。
つまり、彼にとって、思春期と不登校は地続きである。
実際、不登校は、当時も今も中学生に顕著である。
2018年には12万人、中学生全体の3.7%にまでなった。
さらに、不登校気味や教室に入れない等の「隠れ不登校」がその3倍と言われている。

 

3. 思春期の意味

鶏鳴学園では、思春期を、人間の成長の三段階の中の二段階目として考えている。

まず、人間は、生まれてから思春期を迎えるまでは、親と一体の全き世界に生きる。これが第一段階である。

しかし、思春期を迎えると、友人の好き嫌いが明確になり、親や教師など大人との対立も起こる。
外に対立があり、そして彼らの内にも対立する思いがせめぎ合い、葛藤する。
つまり、全き世界に「ひび割れ」が入る。
『さなぎ』にもなる。
人によって、「ひび割れ」がどのように表に現れるのかの違いはあっても、思春期の生徒たちは、誰もがこの第二段階にある。

その「ひび割れ」をどう捉えて親からの自立を果たし、大人になれるのか、自分の答えを出し、自分の世界をつくっていけるのか。
その第三段階はまだ遠い目標だが、「ひび割れ」をしっかり自分で生きて、自立に向けて歩み始めることができるのかどうか。
それが、思春期の課題だ。

ところが、教師や親が、とかく彼らを第一段階に引き戻そう、引き戻そうとしているように見える。
学校での生徒たちの関係は対立だらけだが、「級友のよいところを見るようにしなさい」、「言葉遣いに気を付けて、他人を傷つけないように」と教えることが多いように思う。
第二段階の対立を表面的に回避させようとするばかりで、生徒と共に対立に取り組もうという試みはどれほどなされているのだろうか。

また、学校と親がタッグを組んで、子どもの勉強の管理を強めている。
定期試験の各教科の点数が、学校から親に逐一報告されたり、何時から何時まで何の勉強をしたのかといった生活記録を提出させる学校すら少なくない。

子どもの方でも、友人間の対立や葛藤によって心の中は嵐でも、一方で、対立は面倒だからなかったことにしたい思いもある。
成績を親に責められれば、勉強にやる気が出ないことには蓋をして、おとなしく言うことを聞いておこうとも思う。
第一段階に戻りたいという思いが、彼ら自身の中にもある。

しかし、第一段階の、一体の世界に戻る道はない。
第三段階に向かうための、第二段階の「ひび割れ」や「さなぎ」の意義を正しく認めなければ、先が無い。

 

4.「父親の役割」

河合氏は、本書の中で、直接には父親の役割を論じていない。

しかし、「不登校」を論じたⅢ章で、思春期を迎えた子に一個人として向き合う父親を登場させる。

また、「母性原理」に対する「父性原理」を論じたⅠ章で、親が、子と「一対一で対決し、自分の個人の意見を言うという強さ」を持つ必要性を論じている。
親の個人の確立、つまり自立だ。
子どもが小さいときに母親を助けるイクメンの役割だけでなく、子どもが思春期を迎えたとき、いよいよ父親特有の役割が問われると、私も思う。

ここで断っておきたいのは、母子家庭の場合も、子の思春期には「父親の役割」なるものを意識し、ときには家庭の外の力も頼んで、それをつくっていくことは可能だということだ。

「父親の役割」とは、思春期の最大の課題である、子の親からの自立と、親の子離れのために、特に母子一体化を壊す役割だと思う。
思春期以前の子どもの教育から、思春期以降の新たな段階の教育に切り換えるためだ。
「父親」が常に子どもの教育に関わる必要があるということではなく、その転換をサポートすべき出番というものがあるのだと思う。

多くの家庭では、母親が子どもの誕生からずっと、その生活に密着して世話をしてきて、思春期の今もそれは多少なりとも続いているだろう。
その母親が、子の生活や人生と精神的に一線を画すという切り替えは、母親だけで成し遂げるにはあまりに大きな転換だ。
子どもが社会で生きていく日が近くなったとき、「父親の役割」が問われるのだと思う。

子の新たな成長段階への移行、発展のために、親も「自分自身の生き方について深く考え直す」、そして子育て後の人生をつくっていき、子離れするためである。

 

5.「個性」とは?

このテキストにおいて、河合氏の「個性」の捉え方には疑問を感じた。
主にⅡ章だ。

まず、彼は「個性」を、小さい子どもが元々持っているものとして考えているように思われる。
「子どもが個々にもっている個性を壊す」、「個性の強い子ども」といった捉え方である。
もちろん、小さい子どもにも、身体的にも、性格にも差異があり、それぞれ家庭環境などの背景が異なる。
彼は画一的な教育を批判し、まず個々の子どもの多様なあり方やバックグラウンドの理解が、教育の土台にならなければならないと主張しているのだろう。
それは重要な点だ。

しかし、「個性」の教育を論じるときに、小さい子どもの先天的な差異や、家庭環境といった本人にとって偶然による差異を、「個性」と呼んでよいのだろうか。
私は、「個性」とは、思春期を迎えた子どもが、自ら自己理解を深めて自覚的につくっていくものであり、その問題意識であり、考え方や生き方ではないかと思う。

また、河合氏は「自我の確立」を論じながらも、「集団の一般的傾向と異なる生き方をすること」が「個性」であるかのような論に流れている。
他人と異なるかどうかが「個性」の基準にはならない。

 

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<学習会参加者の感想>
中学生の父、Aさん

学習会は初参加でしたが、「個性とは何か」という事を考えるにあたり、河合隼雄が示した事例に対しても、きちんと点検して疑問を持つという着眼は勉強になりました。

息子が思春期を迎え、親の生き方や考え方が問われている事も含めて、親子の関係が新たなステージに入ったことをあらためて実感する良い機会となりました。

大学生の母、Bさん

「子どもと学校」を読んでみて、強く印象に残った箇所が二つありました。

(1)「問題児というのは、われわれに問題を提出してくれているのだ。学校へ行かなくなった子は、大きい「問題」を親や教師に提出している」(p7)

子どもに問題があったとき、親は、子どもの問題を解決する手助けをしようとする。
親自身が属している大人社会に、子どもがうまく適応できるように手を貸そうとする。
親も、社会に多くの問題があることは勿論わかっている。
でも、社会が変わるより早く子どもの方が大きくなっていくので、どうしても、子どもが今の社会(その一部としての学校)にうまく適応していって欲しいと思ってしまう。
受験が差し迫っているときは、尚更だ。
でも、ここに問題が潜んでいる。こういうときに、子どもが親や教師に問題を提出する。
問題を提出されても、なかなか親にも答えは見つけられない。
鶏鳴学園で聞き書きを推奨している意味はここにあると思う。
完全ではない世の中で、完全ではない親がどのように生きてきたか。
理路整然とした説教よりも懇切丁寧な説得よりも、不格好な親の姿に、子どもは感じるものがあるのだと思う。

(2)「「お勉強」で固められ、遊びの少ない人間は、成人してから創造的な仕事を達成できないのである」(p16)

言うまでもなく、教育はとても価値のあるものである。
でも、教育だけが価値のあるものなのだろうか。
子どもが、学校・部活動、塾・お稽古事で過ごす時間はとても長く、一日の時間の大半を占める。
これらの場では、子どもは「教えられる側」であり、その場のルールに従うことが要求される。自分なりのやり方でやってみる余地はとても少ない。
創造性を育む「教育」ができるのかどうかは、私にはわからない。
でも、時間に追い立てられるような生活の中からは創造性は生まれないだろう。
子どもが幸せを感じるところから、想像性が生まれてくるのだと思う。

中学生、高校生の父 、Cさん

【子どもと学校の内容について】

(1)  世の中で多様性が求められる中,学校における価値の一様性は,本書の書かれた1992年から30年近くたった今日でも大きく変わっていない。

(2)  会社などの社会でも, 父性=息子と一対一で対決し,自分の個人の意見を言うという強さ=自立 がより強く求められているが,学校・教育でそのような対応ができていない。

(3)  思春期は「さなぎ」で殻のなかでは常人の想像を絶した変化が生じているという表現は素晴らしく,とても腹落ちした。

(4)  父親として「干渉はしないが,放っておくのではない」接し方を目指したい。

【勉強会の内容】

(1)  子供から思春期を経て大人になる過程の説明を伺い,管理ばかりしていると,子供状態に留め置くことになり,自立した大人への成長を阻害してしまう。ということが理解できました。

(2)  素直なよいこだけでは自立できない。思春期は分裂・反発・対立・問題意識(怒り)を通じて成長する。今まさにその時を迎えている。思春期もしばらくは続くという心の準備をしておきます。

(3)  鶏鳴学園の大学受験に向けた(裏)テーマとおっしゃっていた「親子それぞれの自立」という事を肝に銘じ思春期の子どもたちと接していきたいです。

(4)  参加されたみなさまからも普段は接することができない,思春期前後の子を持つ両親としての育児へのかかわり方・悩みなどのお話しも聞くことができ,非常に参考になりました。

中学生の父、Dさん

<価値の一様性について>

「価値の一様性」の問題は回避すべきと感じるものの、その代替となる価値を自ら見出すことは容易ではない。例えば、「勉強して、テストでよい点とって成績表が高いほうが良い子」、という価値ではない、別の価値を見出すのは簡単ではない。仮に、勉強の代わりにサッカーという価値を見出しだとして。サッカーの世界では、「ボールを強く蹴れる、足が速い、相手にまけない、試合で点がきめられるのがよい子」という目指す価値があって、それ以外はだめだとされている。これは、学校の世界における一様な価値としての、「勉強ができる」ことを押し付けることと、同様の問題がスポーツ界でもおきていることになるのか?

一方、一様となっている価値には、現代社会において、合理的だと考えられる要素もある。それは経済に関連する話で、それで食べていけるかどうかにという観点で設定されているのではないか?構図としては、勉強して会社にはいってお金を稼げて、のような流れを意識しての、入り口としての勉強してなのか。と。自分で一周して考えて、結果、自分が納得する価値を見出した場合、その結果、その価値が他人とたまたま同じであっても、それは価値の一様性が問題であるとは言わないと考える。

<親が「待てない」ことについて>

まわりみちをして子供が自分で気づき・発見したほうが、そのあとの伸びは早いと考えるものの、自分の人生は一回きりしかないので、気づきが遅い・気づき後の行動が遅い場合、大切な時期を逸してしまう恐れもある。中学校や高校の期間は終わっている場合もありうる。

「待つ」べきだと思うものの、その待つ時間は、期間ごとに何をやるべきかを設定して、その期間内に即して実践的に設定すべきと考える。自立できるまでまっていたら、一生終わってしまう。

中学生の母、Eさん

田中先生や皆さまのお話は興味深く、あっと言う間に時間が過ぎました。
とっても古い本でしたが根本的な捉え方や考え方、関わりについてはいつの時代も共通しているのだなあと感じながら本を読んで学習会に参加しました。
お父様も参加してくださったお陰で多方面からの意見が聞けて楽しく聞かせて頂きました。
学習会に参加して、思春期のひび割れた状況から子供がどのように大人になっていくのか、きっと見守る事がとても大切なんだと思います。自分で体験し感じること失敗することで大人になって行く。今、思春期で子供も親も大変ですが見守る様、心掛けたいと改めて思いました。しかしそう簡単には行かないのですが、親も我慢ですね。
お金の話で家の家計の話をすると良いと言われて今まで全くした事がなかったので又じっくり話して見ようと思いました。
今回はお話を聞かせて頂いてばかりでしたが貴重な時間となりました。

2020年8月学習会のご案内

 「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
 親子関係や、子どもを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月、下記の通り、1年半ぶりに学習会を行います。
新型コロナ感染症の先行きが不透明なため、初のオンラインでの開催です。

テキストは、河合 隼雄 著『子どもと学校』(岩波新書)です。
教育に関する評論文です。

著者の河合 隼雄(1928~2007年)は、心理学者、および教育学博士であり、京都大学名誉教授や文化庁長官を務めました。
学者らしからぬ柔軟さで、鋭く本質を突く大物です。

子どもの生活や学習に「問題」があるとき、その「問題」をどうとらえ、どう対応するべきなのか、思春期とは何か、「父親」はどうあるべきなのかなど、大事な論点が盛りだくさんです。

学習会では、主に下記の箇所を読みます。
時間の許す範囲で読んでみてください。
ただし、学習会当日、大事な箇所は確認しながら進めます。

Ⅰ章 「教育の価値を見直す」  p1~30
Ⅲ章 4節「不登校の「処方箋」」 p132~154
Ⅳ章 2節「性の理解と教育」  p200~230

※Ⅱ章も本来大切な論点ですが、河合の「個性」が何を意味するのか、その考えが曖昧で不十分だと思います。
時間が許せば目を通してみてください。

  1. 日時  :8月30日(日曜)14:00~17:00 
  2. 形態  :Zoomによるオンライン開催
  3. 参加費 :1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
  4. テキスト:河合 隼雄 著『子どもと学校』(岩波新書 212)

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

『苦海浄土』学習会報告

日時:2018年12月15日(土曜)14:00~16:00
テキスト:石牟礼道子著『苦海浄土』(講談社文庫)

これまでの学習会では、直接子育てや思春期がテーマでしたが、はじめて社会問題に関するテキストを取り上げました。

子どもをどういう大人へと育て上げたいのかを考えるとき、私たちが今どういう時代に生きていて、この先どこを目指すのかということが土台になります。
だから、水俣病問題が何だったのかを深く問う『苦海浄土』を、ぜひこの学習会で読みたいと思いました。

60年以上も前に始まった水俣病問題は、たんに加害企業が悪いというような問題ではなく、行政も真っ当に対処できませんでした。
また、地域で壮絶な差別がありました。
その問題が今も私たちの日々の生活、生き方の中に根強く残っています。
学校でのいじめや差別意識、そして福島原発事故がそれを証明していると思います。

 

また、子育ては突き詰めれば、親自身がどう生きるのかという問題以外のなにものでもありません。
石牟礼の生き方から学びたいと思ったのも、このテキストを取り上げた理由です。

 

以下に、当日配布したレジュメの一部を掲載し、その後に私の感想や問題提起、そして最後に参加者の感想を掲載します。

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<学習会当日配布のレジュメより>
I        本書の全体の構成

(1)背景:水俣病問題の発生から、漁民たちの怒りの暴発まで   (1953-59)
一章:個人 ―患者や家族、地域の人や医者―
二章:社会 ―漁民たちvsチッソ、行政などの政治的動き―

(2)山:当事者の語り
三章:女性患者の語り ―家族内の話―
四章:患者家族の「家長」(男性)の語り  ―社会的な話―

(3)その後の運動:問題の進展、深まり ―患者、漁民、市民の運動、組織―(1956-68)
五章:マスコミや市民、行政や医学など外部と、患者互助会結成という内部の動き
六章:石牟礼の人生                           七章: 「水俣病対策市民会議」結成

II       『苦海浄土』の本質

(1)『苦海浄土』は、たんに水俣病問題を告発するためのルポルタージュではなく、公害とは何か、人間とは何か、その本質を深く問う文学である。

漁村に多数の患者や死者が出ても、水俣病問題への対応は遅れに遅れたが、本書によって、ようやく全国に広く知られた。

しかし、本書はたんに加害企業であるチッソを糾弾するものではなく、むしろ、加害企業であるチッソが貧しい時代の人々の希望であったことも描き出す、客観性と全体性、公平性が担保されている。

(2)本書の山は、患者や家族の魂の声を代弁する三・四章の語りであり、詩である。

病のために発語の難しい患者に代わって、また、病ゆえに地域で差別され、孤立した患者家族に代わって、その思いが、抑圧から解き放たれるように生き生きと語られる。

病による悲しみや不安だけではなく、かつて自分の手足で働き、生きていた喜びと誇りが豊かに表現されている。

彼らの内面の葛藤に深く迫り、その語りは、ものごとの本質が突き詰められ、表現された詩である。

(3)随所に医学や行政の原資料が差しはさまれている。

石牟礼が、患者や家族に一体化し、代わって語るだけではなく、その一体化を壊して、彼らを突き放し、相対化するかのようである。

そうして問題との一体化と対象化を行き来することによって、水俣病問題がどういう問題であるのかを、静かに深く問うている。

III      石牟礼道子の本質

(1)水俣病問題が起こった時代に、その水俣で生きる一人の人間、家庭を持つ一女性として、水俣病問題を「見とどける」ことを使命とした文学者である。

チッソの企業城下町だった水俣で、長年捨て置かれた患者や家族に当初から寄り添い、とりつかれたように筆を執った。

代用教員としての軍国主義教育や、敗戦後は一転して教科書に墨を塗るというような誤魔化し等々、様々な問題に疑問を抱いていた彼女は、水俣病患者たちと出会ったとき、自らの使命を見定めたようである。

「患者さんたちにつかまっていったとしか言いようがない」と語っている。

水俣病問題に向き合うことが、彼女が生きる意味であり、その中で彼女の人生の意味を深め、成長していくことによって、その使命を全うした。

つまり、「自分とは何か」をさいごまで追求し続けた人である。
※『苦海浄土』の副題は、「わが水俣病」

(2)患者を支える市民運動や、研究会に尽力し、患者や家族のチッソ本社前の座り込みなどにも同行した。

(3)殊に女性がそういった仕事をすることに多くのあつれきがありながらも全うし、彼女の仕事には女性の一生活者としての視点が貫かれている。

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<感想、および問題提起>
1.公害問題の意味

公害問題は、人間の歴史の中で、自然と人間の関係が逆転したことを知らしめた。

つまり、近代の工業化、生産力の急拡大で人間の力が自然の力を上回ったのだ。
たとえば、それ以前は人間が海に何を棄てようと、広い海がそれを希釈、浄化し、問題は起こらなかった。
ところが、人間の生産力が、自然が自ら回復する力を超えてしまった。

水俣病問題が起こったとき、その人類史上初の事態に企業も行政も真っ当に対処できなかった。

そして、経済成長の過程で出てきた公害問題は今も未解決である。
水俣病の加害企業、チッソが国策企業だったのと同様に、やはり実質的に国策企業である東京電力が福島原発問題を起こした。
昨今は海洋汚染によるマイクロプラスチックも問題になっている。
私たちは、自然と人間の関係が逆転した、新たな状況に対応した人間社会をつくらなければならない。

それは根本的には、私たちの民主化、主体化の問題ではないだろうか。
人が主体的に調査、判断する能力を持ち、差別や抑圧を許さず、問題を隠ぺいしないような能力と、また、制度を持たなければならない。
それは、たとえば学校でのいじめ問題に対しても求められる、普遍的な課題である。

水俣病問題は、甚大な被害の一方で、患者や家族、また石牟礼たち市民が運動して裁判で勝訴を勝ち取った、民主化への一つの動きだった。
そのことを、私たちは受け継がなければならない。

2.高度経済成長時代から、私たちは発展しているか

高度経済成長時代は、戦中戦後、またそれ以前からの貧困の解決がテーマだった。
満足に食べられない、娘を売らなければならないといった状況の克服だ。

そして、それは達成された。
ここ二十年以上経済が停滞しているとはいえ、絶対的には裕福になり、食糧は国全体としては足りている。
福祉もある程度整えられた。

ところが、社会的経済格差は拡大し、また、私たちの生き方は根本的には発展していないのではないか。

つまり、社会全体としては満足に食べられるようにという目標が達成されたのに、個人の生き方はまだ同じところで汲々としているのではないか。
将来が見通せない今、何とか今の豊かさや階層を維持したいという守りの姿勢には、経済成長時代にはなかった悲壮感すらある。
中高生たちは夢を持てず、そういう社会をつくった私たち大人の希薄さが、彼らの表面的な、また余裕のない人間関係に反映されている。

本来は、食べていくためだけではなく、人間としてどう生きるのかを追求できるのが今の時代ではないか。
そのために私の親の世代は経済成長を成し遂げたのではなかったか。
人間は、食べて命をつなぐという動物と同様のテーマだけではなく、自分の一生をどう生きるのかという、人間としてのテーマを問わずにはいられない。
自分は何者なのか、何のために生きるのか。
どういう仕事をして死にたいのか。

それを存分に追求する生き方へと発展するところにだけ希望があり、それが私たちの使命なのではないか。

3.女性の自立は進んでいるか

高度経済成長時代、多くの家庭で夫婦は仕事と家庭に完全分業していた。
私の親の世代に、夫は仕事で不在がちで、子育ては妻に任せきりという家庭のパターンは実に多い。
家庭での問題に夫婦が共に取り組んでいく中でもそれぞれの人格を築いていくのではなく、個々バラバラなまま暗黙の了解の内に「共依存」していたのではないか。

それに対して、現在は女性の社会進出が進み、また「個性」の時代と言われるが、果たして女性の自立は進んでいるのだろうか。
女性が自立できるかどうかは、そのまま男性や子どもの自立の問題と一つながりである。

自立するとは、前節で述べた、何のためにどう生きるのかを存分に追求し、自分の人生のテーマや夢を持って生きる生き方だと思う。

石牟礼はそれをやり遂げた女性である。
彼女のような文学の才能が誰にもある訳ではないが、私たちは今の時代の問題の一つに取り組むことはできる。
その中でそれに必要な能力は獲得されていくと信じたい。
石牟礼も、水俣病問題という大きな問題に取り組む中で、度々彼女自身を超えていったにちがいない。

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<学習会参加者の感想>

大学生の母 Aさん
『苦海浄土』は、水俣市に住む一人の女性が水俣病問題の実態に迫ることだけを目的に書かれた本ではない。筆者は、医師でもなく、ジャーナリストでもない。また、彼女自身や彼女の家族も水俣病患者ではないため、命が壊され脅かされていく中で、追い詰められてペンを執ったり、「水俣病対策市民会議」を立ち上げたりしたのでもない。では、水俣病問題に人生をかけて向き合った筆者を強く突き動かしたものは何であったのだろうか。

本書に、水俣病特別病棟に初めて訪れた「わたくし」が、漁師だった患者、釜鶴松と一方的な出会いをした時の様子が書かれている。一方的とあるのは、鶴松は、「まさに死につつある人々の中にまじって」、「まさに死なんとして」いた状態だったからである。その「彼がそなえているその尊厳さ」を目前にして、「これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられ」たとある。さらに、「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがた」く、鶴松の「決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」と書かれている。筆者自らが水俣病患者として、壮絶な苦しみ、無念さ、せつなさや戸惑いを訴えることはできないが、患者に代わって記録を残す使命をこの時から背負ったのである。しかし、患者の力になりたいという思いだけでは、水俣病という底知れぬ大きな問題に、筆者の一生をかけて向き合うことはできなかったと思う。

学習会のレジュメに、『苦海浄土』の本質の1つに、「問題との一体化、対象化を行き来することによって、水俣病問題がどういう問題であるのかを、静かに深く問うている」とあった。まさに、時代の狭間で、また、矛盾や問題の狭間で、「行き来」して苦しんだのが筆者の人生だったのではないか。高度経済成長を遂げた時代に、利便性を追求して生活は豊かになったが、一方で壊された自然や犠牲になった人々がいる現実、季節ごとに移ろう自然の恵みを受けて暮らす漁師の「栄華」と、他方で貧困や水俣病患者への差別に苦しむ人々。筆者は、急速に変わっていくこの時代や女性差別が色濃く残る社会の思想の狭間に立たされて、常に矛盾や問題を強く感じながらも、妻として母として、また、嫁として生活をしていかなくてはならない現実と「行き来」していた。この「自分とは何か」という、人間の本質を問う深い問題意識を自分で解決していかなくては、彼女自身が生きていけなかったのではないかと思う。

高度経済成長の時代はとうに終わっているが、矛盾や問題は山積みである。いまだに、女性であるという理由で、医大の入学基準が変わり、不利になる歪んだ社会に生きている。そして、その問題が大きくなればなるほど、隠し誤魔化したくなる私たちがいる。自分自身を振り返ると、私は家庭内の矛盾や問題から目を背けてきた。特に、私と子供、私と母、私と姉、私と夫の共依存関係の問題は、子供の今後の人生にも私自身の人生にも関わる大きな問題だが、だからこそ、この関係性を断ち切れずに、これまで誤魔化し逃げ続けてきたのだから、国やチッソのとった態度と同じである。私が自立できていなかった問題に対して、その「おかしさ」と向き合う問題意識が弱く浅かった。

この本の自然描写や人間の本質を捉えた文章は胸を打つ。美しい自然と壊れていく自然、希望と絶望、生と死、成長と退行、平等と差別など、たくさんの狭間で「行き来」しながら苦しみ、問題意識を深めた筆者そのものである。

高校生の父 Bさん
ここ数年の間に、映像を通じたコミュニケーションが急激に広がっている。写真がすべてを伝えるような、若者間の情報のやり取りにある種の危機感を感じる。写真は、事実を写している。しかし、事実のすべてを写していない。写真は人間の五感のうち視覚にしか訴えていない。だから必然的に、視覚に過度に依存するコミュニケーションが活発になる。

文字は不自由なものだ。ただそれを見ただけでは、人間の感覚の何をも刺激をしない。しかし、それを読むことにより、脳がその状況を想像し五感を駆り立てる。その素晴らしさを、時間を取って感じる機会を、若者のみでなく親世代も意識的に持つ必要があるのであろう。

苦海浄土は、五感を刺激する文章だ。人間の想像力の閾値を試されるものだと感じる。水俣病の壮絶な病状と対比される、日常の健康で平和な暮らし。豊かな海と工場排水に汚染された海。巨大な工場と貧しい漁村の生活。この絶対的な対比において、水俣病というものが読者の前に浮き彫りになる。

しかし、筆者の目は一方的に患者に向いているわけではない。水俣市のおかれた環境や一般市民と患者の対立を冷静な視点で見つめている。これは、単に「公害病は悪だ」という単純な視点で語れない社会の複雑さを筆者自身が意識し、その解決にもがき苦しむ姿勢の表れなのかもしれない。

筆者が示す、患者と向き合いながらも、客観的な視点を維持する姿勢は、現代のわれわれの問題解決にとって欠かせないものだと感じる。社会で生きていくためには多面的な視点を持つ必要があると言われる。しかし、人はどうやって多面的な視点を確保したらよいのか。本を読めばよいのか。しかし、読書は筆者と読者の対話に過ぎない。そういう意味で、一つの本を題材として、いろいろな視点で意見を持ち、話し合うという場は重要なものだ。サラリーマンが多忙な仕事の合間に課題図書を読破し、貴重な休日の昼間を使って、参加する価値があるのか。私は、十分価値があると感じる。

大学生の母 Cさん
今までこの学習会では思春期をテーマとした本が選ばれることが多かったので、久しぶりの学習会でこの本が課題本と聞いて、とても意外だった。と同時に、NHK100分de名著に「苦海浄土」が取り上げられていて、気にはなりつつも、今まで見ないままにしていたことを思い出した。この学習会で課題本となったことを何かの巡り合わせと思い、まずはNHKの同番組を見た(最初から本を読むのは大変そうだったので)。

一番驚いたのは、自分がこの本、この作者の存在を今まで知らずにいたこと。この本は、普通の日本人なら、たとえ読んだことはなくても少なくとも名前だけは聞いたことがある、という範疇の本であって然るべきではないだろうか。国語の教科書の文学史のところに太字で載っていて欲しい。でも、私が中高生だった頃に習った記憶はまるでない。試しに今大学生の子どもに聞いてみても、知らないと言っていた。

環境問題を告発した本として有名なレイチェル・カーソンの「沈黙の春」に比して、「苦海浄土」が現在日本でも殆ど知られていないことの理由を考えてみる。

「沈黙の春」は遠いアメリカが舞台になっていて対岸の火事と思えるのに対し、「苦海浄土」は日本で起こったことで今も多くの被害者たちが存在しているリアルな問題である。チッソや行政の責任が裁判で問われているので、私が高校生だった当時にこの本が検定教科書で取り上げられなかった理由は想像できる。でも、それだけではなく、この本の存在を埋れさせたのは、辛くむごたらしい問題から目を背けていたい、自分が解決できる訳でもない問題を考えてどうなるのか、という私たちの意識だろう。誰もが便利で豊かな暮らしを望むが、そのような暮らしを実現するために犠牲となっているものについては考えたくない。犠牲となる弱い立場に置かれた人々、動物、植物、地球環境のことは直視したくない。自分は彼らに悪いことはしていない。

「苦海浄土」を読むと、誰もが犠牲となった人々に対して罪悪感を感じずにいられない。それが、高度成長期を経てバブル経済に入っていく過程で、日本人がこの本を埋もれさせて行った理由だろう。

読むのが辛く苦しい本だが、それでも石牟礼道子という人がこの一冊を書いてくれたことを日本人として誇りに思う。

社会人 Dさん
学習会に参加して、自分ひとりで読んだ時にはわからなかった発見があった。

一つは、ゆき女の語り部分を音読で聞いて「歌」だと感じた。黙読ではわからない。

二つめ。患者と関わり同じ水俣で暮らしていた石牟礼さんが『苦海浄土』を書いたことはリスクがあったろう、という意見から考えた。自分が身近な問題を書いて公にすることを想像した。公にすることで、それまでの人間関係が壊れて自分も孤立するかもしれない。恐い、と思った。

今から70年前に生まれた水俣病患者を巡るできごとを、水俣から遠く離れた東京で読むことができた自分からすれば、よくぞ書いてくれたと思う作品だが、書く側に身をおくと容易なことではなかったろうと想像できる。

三つめ。水俣病が生まれた高度経済成長期と比べると、公害の規制があり福祉の制度も整った現代であるのに、より良い世の中になったとは言えない、という田中さんの問題提起が心に残った。

中学生・高校生の母 Eさん
初めて学習会に参加しました。自分だけで読んでいると気づかなかった部分でも、先生の解説で読み深められました。
水俣病は戦後まもなく起こった問題ですが、現代社会にも通じる所があるなど、考えさせられる内容でした。

参加者の方々の意見を聞いて、色々な見方がある事もわかりました。

今後は忙しい事を言い訳にせず、時間を作り読書をしたいとあらためて思いました。

高校生の母 Fさん
会場でも、別の方が仰っていましたが、私も今回の学習会までは『苦海浄土』という本を知りませんでした。読み応えのある本を教えていただいたことに感謝しております。

水俣病は有名な公害病ですが、実態は想像以上でした。本の描写では、視力を失い、体を思い通りに動かせなくなっても、しっかりした意思とプライドをもって生活していらっしゃる患者の方やそのご家族の様子が生き生きと表現されています。それと併せて公的な記録も散りばめられており、水俣病問題について興味深く考える事ができます。

高1生の教材としても使われたそうですね。若い方がどんな感想をもつのか伺ってみたいです。それから、全然別の話ですが、田中先生の本にはびっしりと付箋や書き込みが‼︎そこまで読み込んだら違う発見が色々あるのではと感心しました。

仕事と育児に追われる毎日でしたが、最近ようやく読書できる時間が増えてきました。私もこれからはじっくりと読み深める時間も取っていきたいと思います。

今回の学習会はとても楽しかったです。機会がありましたら、また参加させてください。

中学生の母 Gさん
著者の石牟礼は、水俣病問題を見届けることを使命と感じ、この作品を世に送り出した。自分の目の前で起きている問題に正面から向き合い、自分が持つ力を活用し、課題を解決する著者の姿勢は、いかに生きるのかという点で大変参考になる。

水俣病の起きた時代に比べると、現代は、生活するため、ただ生きるためだけに、費やす時間やエネルギーは圧倒的に減少し、能動的に生きることが可能になったといえる。どのように生きるのか意識して過ごさないと、メディアや自分のいる環境からのみ受け取る価値を基準に生きてしまう。そこには、私自身は反映されていない。自分の人生を生きるために、著者の姿勢には、学ぶことが多い。

十二月学習会のご案内

大人のための「家庭・子育て・自立」学習会のご案内です。
年に数回開催し、親子関係や、子どもを取り巻く様々な問題に関して話し合い、学び合う会です。

 

来月は、石牟礼道子著『新装版 苦海浄土 わが水俣病』の読書会です。

四大公害病の一つ、水俣病に苦しむ人々の魂の声を、詩のように綴った文学です。
今回は、直接に家庭や子育てがテーマではありませんが、素晴らしい作品であり、また私たちの時代や生き方を問うものです。

私の親の世代が高度経済成長に邁進する中、一方で恐ろしい公害病が長年放置されました。
しかし、この作品はたんにその問題を告発するルポルタージュではありません。
病のためにしゃべれない患者や、病ゆえに地域で孤立した患者家族の思いを、石牟礼が代わって豊かに語ります。

石牟礼は、彼女が暮らす地域で起こったこの問題を綴ることをライフワークとしました。
また、患者を支えるために運動しました。
一人の女性の生き方としても惹かれます。

詳細は、下記※をご覧ください。

 

学習会では、一章から四章までを読みます。
一・二章の読みづらい箇所は読み飛ばし、本書の山である三・四章をぜひお読みください。
当日背景をお話しします。

  1. 日時:12月15日(土曜)14:00~16:00
  2. 場所:鶏鳴学園
  3. 参加費:1,000円(鶏鳴学園生徒の保護者の方は無料です)
  4. テキスト:石牟礼道子著『新装版 苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫 2004年~)
    ※ ページ数が揃うように、現在一般の書店で販売されている上記をお買い求めください。

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お待ちしています。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/katei-contact/postmail.html

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局

 

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※ 詳細

  • 水俣病事件

水俣病は、1950年代から熊本県水俣市などで多発した公害病です。
プラスチックの原料を製造する化学メーカー、チッソの工場排水に含まれていた有機水銀に魚介が汚染され、それを食べた人間が中枢神経を侵されました。

また、胎児まで罹患しました。
当時の世界の医学の常識に反して、毒素が母親の胎盤を通過したのです。
何年経っても首もすわらない子どもや、亡くなる子どももありました。

ところが、工場排水はその後も十余年流され続け、被害が拡大したのです。

 

  • 『苦海浄土』

小さな漁村に多数の患者や死者が出ても、その対応は遅れに遅れ、水俣病問題は石牟礼道子が『苦海浄土』を書いたことによって、ようやく全国に知られました。

しかし、本書は、たんに加害企業のチッソを糾弾するものではありません。
患者や家族がどんな思いで生きてきたのか、その悲しみだけでなく、生きる尊厳や喜びも描きました。
彼らの思いがその抑圧から解き放たれるように、詩のように語られます。
チッソが当時の人々にとって高度経済成長を象徴する希望であった、その思いまでもが生き生きと表現されているのです。

なお、今学期、本書を鶏鳴学園、高1クラスのテキストとしました。
戦後の日本文学の最高傑作と言われる本書は、表現が優れているだけではなく、近代とは何か、人間とは何かを深いレベルで問うものだからです。
また、国策企業であったチッソによる水俣病問題は、福島の原発事故問題と構造的に非常に似かよっています。

 

  • 石牟礼道子

『苦海浄土』の著者、石牟礼道子は、チッソの企業城下町であった水俣で、長年捨て置かれた患者や家族に当初から寄り添い、憑りつかれたように筆を執りました。

戦中戦後から様々な疑問を抱いていた彼女は、水俣病患者と出会ったとき、自らの使命を自覚したのでしょう。
患者さんたちに「つかまっていったとしか言いようがない」と語っています。

殊に女性がそういった仕事をすることに、幾多の軋轢がありながら、やめようとは思わなかったそうです。
女性としての一生活者の視点が、彼女の仕事を貫いていると感じます。

<石牟礼道子 略歴>

1927年(昭2)生誕
1940 (昭15)13歳 小学校卒業後、実務学校(現・水俣高校)入学
1943 (昭18)16歳 代用教員錬成所に入学し、二学期から小学校に勤務
1947 (昭22)20歳 退職。結婚。翌年、長男誕生
1954 (昭29)27歳 詩人、谷川雁と出会う。漁村に水俣病が多発し始める
1960 (昭35)33歳 雑誌『サークル村』に『奇病』(「ゆき女きき書」初稿)掲載
1968 (昭43)41歳 「水俣病対策市民会議」結成に参画
1969 (昭44)42歳『苦海浄土』を出版。熊本地裁に提訴した患者などと共に行動し始める
1973 (昭48)46歳『苦海浄土・第三部』まで書き終える。その後も著作や運動を続ける
2000 (平12)73歳 パーキンソン病発症
2018 (平30)90歳 死去

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