カテゴリー別アーカイブ: 学習会の報告

『春にして君を離れ』学習会報告

日時  :2021年8月1日(日曜)13:00~15:00
テキスト:アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』(ハヤカワ文庫 2004年)

 

アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』をテキストに、8/1にオンライン学習会を行いました。

クリスティーと言えば推理小説ですが、この作品では殺人事件は起きません。
主に家庭での出来事や、家族の関係が描かれています。
ところが、なんとも恐いのです。
誤魔化して生きていくことの恐さでしょうか。
主人公のように生きているつもりはないものの、どこまで誤魔化さずに生きることができているのかということになると、他人ごととは思えません。

 

学習会の参加者からも同様の声があり、自分にも思いあたってグサグサ来たという方もありました。

他方、主人公たちが哀れだという感想や、この小説はリアルではなく、いかにも作り話だという声もありました。

読む人によって評価が大きく分かれる作品のようです。

 

さて、以下私(田中)の感想と、運営委員の山元さん感想を掲載します。

 

 1.ジョーンの気付き

第二次世界大戦、開戦間近、イギリスの田舎町の中流家庭が舞台だ。
主人公のジョーンは48歳の主婦、夫は弁護士である。

一男二女の子どもたちの思春期以降、夫婦や子どもたちに様々な問題が現れていく。

しかし、ジョーンは、たとえば、彼女が蔑んでいる女性への、夫の熱い想いに、気づきたくない。
また、妻のある年配の男性との長女の熱愛に苦慮しながらも、たんに「汚らしい」関係だとしか解さない。
彼女にとっては、すべては偶然おかしなことが降ってわいただけである。
だから、問題はさらさらと流れ去って行き、「すばらしかったわ、わたしたちの人生は」と言う彼女の容姿は、歳不相応に若い。
夫との会話は常にかみ合わず、子どもからの辛辣な批判も、難しい年頃の彼らの問題だとしか考えない。
むしろ、自分の才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負している。
経済的に豊かな階層に暮らしていることに満足し切っているようだ。

ところが、バグダッドで暮らす末娘を見舞った帰り道、悪天候のため砂漠の駅で足止めになった数日間に、彼女は回想を繰り返すことになり、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに徐々に気付いていく。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
末娘に自殺未遂があったらしきことにも、ようやく思い至る。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、クリスティーは小説の最後の最後までをかけて見事に描き切っている。

 2.夫、ロドニーの欺瞞

ジョーンは、早く家に帰って夫に会い、自分の悔いる思いを話したいと、はやる気持ちで汽車に乗る。
生き直そうと。

ところが、いざ帰宅したジョーンは、結局すべてを無かったことにする。

そのとき、夫、ロドニーも、無かったことにすることに、それとなく手を貸す。
妻が留守中の、心休まる「休暇」が終わったことを、残念に、また煩わしくさえ思いながらも。
また、妻がどこかいつもと違うと感じながらも。

その日、二人の会話がふとかみ合う。
夫の何気ないからかいに、彼女が表情をゆがめた。
やっとかみ合った、そのとき、ロドニーは驚きを隠して、話題を変える。

それまでも、彼は、ジョーンが他人の境遇を「かわいそうな人」と憐れむことを嫌っていながら、彼自身も、妻との話がかみ合わないとき、彼女を見やって微笑み、「かわいそうなリトル・ジョーン」とからかってきた。
妻のものの見方が表面的だからだ。
たしかに、ロドニーは、妻に比べればはるかに見識が高い。
しかし、二人の生き方に、どれほどの違いがあるだろう。

そして、小説の最後の場面でも「かわいそうなリトル・ジョーン」、「ひとりぼっちのリトル・ジョーン」。
否、私にはあなたがいるわと言って駆け寄るジョーンに、「そう、ぼくがいる」と彼は応える。
しかし、彼の独白は、「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように」。

一見優し気で頼りになる夫の裏の顔にぞっとさせられるのは、それが彼の精一杯の愛情であり、また彼がどこにでもいそうな男だからである。
この二人のように、結局のところ夫婦が真剣に対立することも、高め合うこともなく、バラバラに生きているケースは少なくないように思われる。

たしかに、日常生活を生きる夫婦が互いに向き合うのは面倒なこと業であり、また、ロドニーは、子どもの問題の要所、要所では妻とかみ合わずとも話し合い、父親としての役割を果たしてきたと言える。
だから、ジョーンは薄々問題に気づいていた。
しかし、ロドニーに彼自身を超えていく気はなく、妻の気付きの芽を二人して摘み取ってしまう。
そもそも、ジョーンが何食わぬ顔で問題に蓋をしてきたのは、夫も共犯であり、彼の人間としての覚悟に欠ける弱い面を、彼は妻に託して生きさせて、彼自身の問題にはしない。

 3.「自分本位」とは

ジョーンは「自分本位」ではなく、夫のことを第一に、また「子ども本位」に考えてきたのだと自画自賛する。
しかし、果たして「自分本位」がよくないことであり、「子ども本位」がよいことなのか。

その後、彼女は砂漠の駅で、自分が夫第一でも子ども第一でもなく、また、彼女自身のことも置き去りにして、向き合えないできたことに気付く。
つまり、「自分本位」でも「子ども本位」でもなかったのだ。

また、彼女は、夫が働いてきたから子どもたちに「最高」の生活や教育を与えることができたのであり、「お父さまはあなたたちのために犠牲になってくださったのよ」と子どもたちに説いてきた。
それが親の義務であり、どこの親もそういう苦労をしているのだと。

この考え方は、子育ての目標を何だと考えてのことなのか。
本来の親の使命は、子どもを、今の社会を超えていけるような、自立した一個人をして育て上げ、社会に送り出すことだ。
そのためには、親は誰かの「犠牲」になるのではなく、この社会を超えていこうとする、自立した一個人として生きるしかない。

ロドニーが、第一子が生まれた頃に農場経営への転職を思い留まったのは、子どもの「犠牲」になったのだろうか。
妻の反対が理由だろうか。
彼は後々、その時の妻の反対を持ち出しては、冗談めかしてなじっているが、彼に本気で農場経営をする覚悟などあっただろうか。

彼には国の農業政策に問題があるという認識があり、弁護士の知識まで持っているにもかかわらず、問題を多少とも解決して、農業を成り立たせていこうという覚悟は無かった。
だから、生活も成り立たないような農業は選べなかったという彼自身の問題だ。
妻と同様の価値観で、代々の弁護士業という階層に留まる方を選んだだけだ。

なのに、彼が子どもや妻の「犠牲」になったと考えるなら、それは二重、三重の嘘である。
クリスティーは、そういうごく普通の人の、どこにでもある嘘やごまかしを浮かび上がらせている。

「自分本位」とは、たとえば、農業経営に憧れるから選ぶというようなことではなく、その農業経営が成り立つような社会をつくるという自分のテーマ、その闘いを生きることなのではないか。

 

運営委員、山元さんの感想

山元比呂子

自分だけだったら、まずこの本は読まないし、読んだとしても1回読んだだけで打ち捨てていたと思う。
読書会で取り上げられたために、2回目を読んで、参加者の皆様とお話ができて、結果、新たな発見があった。
1回目はジョーンの描写を中心に読み進んだ。

「最後まで自分の作り上げた虚構を信じたまま死ねればよかったのにね。なまじ途中で気がつくことはなかったんじゃない? 周りの人もジョーンにあれこれ言うのは余計なお世話でしょ。」というだけの感想だった。
で、大して感銘は受けなかった。

でも、2回目を読んでみてジョーンズ以外の脇役のブランチ、レスリー、サーシャ、校長先生などの描写を丁寧に読んでみると、いろいろ面白いことが書いてあるのに気が付いた。

 

私はこの本のテーマは、「情熱と分別」だと思う。

ジョーンのように分別ばかりの人生は虚しいものになるし、情熱を追い続けると、現実世界ではいろいろな困難に出くわす。

結局、どっちを取るかはその人次第。人それぞれに分別と情熱の折り合いをつけながら生きていくしかない。

人生を豊かにするのは情熱だし、社会に適合し自分の身を守るのは分別。

この小説は、世の中の多くの分別だけを信じて生きている人たちに対するアガサクリスティの痛烈な批判だと思う。

『ぼくらの中の発達障害』学習会報告

日時  :2021年3月7日(日曜)14:00~16:30
テキスト:青木 省三 著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)

 

この春も、昨夏、昨冬に続いて、オンラインで開催しました。

テキストの著者、青木氏は、特に思春期・青年期を専門とする精神科医です。

近年「発達障害」という言葉をよく耳にするようになり、2012年の文科省の調査によれば、学校の教師たちが、小中学生の6.5%に「発達障害」の可能性を見ているとのことです。

しかし、そもそも「発達障害」とは何なのか、これが問題だと思います。
この「障害」は、医学においてもまだ半世紀ほどの歴史しかありません。
なぜ、私たちの社会に、今この「障害」に戸惑い、苦しむ人が増えているのでしょうか。

これらが、今回このテキストを取り上げた私の問題意識でした。
青木氏が述べていることは、「障害」を持つ子どもだけの問題ではなく、広く思春期の子どもたちの課題や、人間関係の悩みの本質であるように思えます。

 

以下、テキストについての私の感想と、運営委員の山元さんの感想を掲載します。

 

 

「発達障害」の社会的な土壌

田中由美子

1.「発達障害」の概要

青木氏によれば、「発達障害」は、1943年にアメリカの精神科医から子どもの「情緒的接触の自閉的障害」の症例報告がなされたところから研究が始まった。
それまでは、精神発達の障害と言えば知的障害だけが知られていたが、その後「自閉症」や「アスペルガー症候群」といった、社会性や対人関係に困難があるような「障害」の研究が進む。
現在、その原因は、親の養育や性格などによる心因性ではなく、脳の軽微な障害など生物学的なものとされているが、その詳細はわかっていないとのことだ。

「自閉症」は、乳幼児期から問題が現れ、基本障害は言語/認知機能の障害であるという。
これが「発達障害」の中核的なものであり、その75%が知的障害を伴う。

それに対して、「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」と呼ばれるものは、思春期・青年期に自閉症の傾向が現れ、言葉の発達の遅れは伴わないが、学校や社会での対人関係に困難を抱えることが多い。(二つの名称の違いは曖昧なものであり、青木氏は「アスペルガー症候群」の方が「広汎性発達障害」より障害の傾向が強いと位置づけている。)

有病率は、前者の「自閉症」が1000人に2-3人、後者の「アスペルガー症候群」などが100人に1人という。

なお、この二種の区別が難しいケースもあるという。

また、本書で青木氏が主に論じている「発達障害」は、二種の内、後者の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」である。

 

 2.社会の変化による「発達障害」

青木氏の「アスペルガー症候群」や「広汎性発達障害」についての基本的スタンスは、その要因として、個人の特性よりも、社会的、文化的なものの影響を大きく見ていることだと思う。
それが、本書をテキストにした第一の理由だった。
そうでなければ、この問題に戸惑い、苦しむ人の増加が、説明できない。

まず、経済的には、ここ半世紀で産業構造が大きく変化し、「真面目だが、無口で不愛想な人たち」が働きやすい農業や漁業、または職人などの仕事が激減したこと。

また、社会的、政治的には、共同体にわかりやすい規範のあった以前に比べて、共同体的な人の繋がりが崩れた今、社会の規範が複雑になり、社会でも学校でも「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ようになったこと。

そして、そのことにより言葉の役割が重くなり、さらに、「言うべき「何か」を持っているかどうか」よりも「コミュニケーション能力」が過度に強調されていることなど、文化や教育の面での問題も挙げている。

そういう社会の変化の中で、「広汎性発達障害」の傾向を持つ人が破綻をきたしやすくなっているという見方だ。

彼は、「特に日本という国、日本文化の中で生きていくというのがより一層困難を与えているのではないか」と述べる。
また、「発達障害の傾向を持つ人が、改めて力を発揮できるようになることが、今の時代と社会に問われている課題の一つ」だと。

 

それは逆に、「発達障害」の増加が、今の私たち、日本社会の問題をあぶりだしているとも言えるだろう。

経済的には、たとえば農業など一次産業が衰退し、食糧の多くを、また農業肥料の原料のすべてを輸入に頼っているというような歪な産業構造は、すべての私たち、日本人にとって大問題だ。

また、社会的、政治的には、「曖昧で流動的な空気を読むことが求められる」ような社会や学校であってはならないということではないか。
それぞれの組織の目的に合ったルールを、主体的、民主的につくっていけるような能力や制度が求められるのではないだろうか。
本質的な最低限のルールさえ守ってさえいれば、個人の自由は守られるという組織や学校でなければならないのだと思う。

私たちの社会の組織や学校がそうなっていないから、文化、教育面で「コミュニケーション能力」がいたずらに強調されているのではないか。
また、「コミュニケーション」の大流行は、対話を重視するという面で正しい方向ではあっても、自分たちの社会がどこを目指すのかという目的を、私たちが定められないでいること、つまり「言うべき「何か」」のナカミが無いことの裏返しでもあるだろう。

 

3.思春期なのに「よい子」

もう一つ大切な観点だと思ったのは、「広汎性発達障害」の傾向を持つ子どもが、思春期に友人や仲間を得にくい要因として、青木氏が、彼らが他の子どもたちよりも長い間「よい子」であり続けることを挙げている点だ。

一般には、「発達障害」を抱える人が他人の気持ちを読み取りにくいからだと説明されるようだが、青木氏は、思春期に大人から与えられた規範に反発したり、自分なりの規範を作り始める同世代に後れを取って、浮いてしまうのだと感じている。

 

これは、学校生活が息苦しいと感じている塾の生徒に私が常々見てきた傾向と、一致する。
学校規範では救われないから苦しいのに、思春期に入っても「よい子」から抜け出しにくい。

さらに、それは今の子どもたち一般的な傾向であるように思われる。
つまり、自立が難しく、自立に至る過程としての反発や疑問が弱い。
戦後、経済が急成長して私たちの社会や豊かになり、子どもは長い期間教育を受けられるようになった。
そのことはもちろんよいことだが、その分親子の一体化は強くなった。
子どもたちが、思春期以降も長い間親に養われながら、精神的な自立を果たさなければならないという矛盾や困難がある。

また、この自立の問題は、今の子どもたちに始まったのではなく、一般には私たち、親の世代からの課題ではないだろうか。
高度経済成長時代に育った私も、親からの自立はたやすくなかったし、今もまだやり残しがあるんじゃないかと感じている。
子どもたちは、ときに、彼ら自身の自立と、親の自立の問題を二重に背負っている。

つまり、思春期の「発達」が、社会全体として難しいのが今である。
自立や、あるいは思春期自体が難しいという社会の土壌があり、「発達障害」的な戸惑いや苦しみが増えているという面があるのではないだろうか。

 

 

学習会と、テキストの感想

運営委員 山元比呂子

家族以外の人と交流する機会がすっかり少なくなっている中で、この読書会で皆様と充実した話ができて、良い刺激になりました。
参加者の皆さまのそれぞれの視点からのお話を聞くことができて、新たな気づきが生まれました。
人との対話を通じて自分の輪郭を知ることができるというのは本当ですね。
おかげさまで、自分でも考えを深めることができました。
また、今回はいつもより少人数の会だったので、ゆっくりアットホームな感じだったのも良かったです。

 

以下、課題本を読んで考えたところです。

P78 「子どものぼんやりとした身体感覚が「痛い」という言葉に結びついていく。」

自分の感覚に言葉を与えることは、大人にとっても重要だ。
ネガティブな感覚・感情には蓋をしがちだが、そこに向き合って言葉にして初めて、ネガティブな感情に対処できる。
言葉にしない限り、その感情に振り回されてしまう。

P91「(コミュニケーション)以上に大切なのは、何を伝えようとするかだ。」

私自身、若い頃はこの問題を自覚していた。
「なぜ、自分の考えがないのか?」と自己嫌悪になったりしたが、今振り返れば、それは常に受け身の生き方だったからだと思う。
それは、自覚の問題であることは否定はしないが、家庭にも学校にも、自分の考えを持ち、意見の違う人たちと話し合うことを積極的に奨励する文化がなかったことが大きい。
今でこそ、「自分で考え、主体的に行動する」ことが表面上は賞賛されるようになってはきたが、それはあくまで親や教師の意向に沿った範囲内でのこと。
実際には、自分の考えを持ちすぎる子どもは、依然として疎まれることの方が多い。
このような文化の中では、どんなに高い教育を受けようとも、自分の考えを持ち、伝えるべき「何か」を持っている人は稀だろう。

P98「彼らの悩みは、どうしようかという迷いではなく、どうにもならないという結論である。」

発達障害の特徴の一つが、柔軟に考えることができないということだ。
曖昧さ・複雑さを処理できない。
だから、白か黒かになってしまう。
誰かから「論理的で、具体的なアドバイス」がもらえば、白い点と黒い点の間がつながって、やっと納得がいく。
このことは、筆者の言う通り、脳の構造という側面もあるだろうが、経験値の少なさが大きな原因だと思う。
少なくとも、「発達障害的な傾向を持つ」程度の人は、多くの社会経験を持ち、経験値が蓄積されていけば、それなりに克服していける。
伝統的な共同体が崩壊し、子どもが多様な社会経験をつみながら育つ場が急速に少なくなっていることが、発達障害的な傾向を持つ人が増えている原因だと思う。

P106「発達障害の傾向を持つ人だからこそ、できる仕事があるのではないか。」

発達障害を一つの際立った個性ととらえれば、社会の多様性につながると思う。
全員が同じ方向を向いて、同じ能力を競っている社会はもろく危うい。
発達障害の人も含めて誰もが、自分の得意・不得意を自覚し、不得意な分野は人と協業するなど補完しあって、自分の得意を生かして働ける社会であって欲しいと思う。

『校則なくした中学校』学習会報告

 日時  :2020年12月12日(土曜)14:00-16:30
テキスト:西郷孝彦 著『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』(小学館)

 

昨年12月に、8月に引き続きオンラインで学習会を開催しました。

学習会が終わって間もないころ、福岡県弁護士会の調査による「ブラック校則」の新聞報道がありました。
福岡市立中学のなんと8割で、生徒の下着の色を指定していたとのこと。
みなさんも驚かれたのではないでしょうか。
教師による「下着点検」が行われていました。
『校則なくした中学校』が校則をなくしたのには、それだけおかしなことになってしまっている中学校の現状が、背景としてあるのだと思いました。

ところで、その「下着」の校則に比べれば、学校で制服や靴下の色が指定されているのはごく一般的なことです。
指定の色とは異なる靴下をはいて登校すると、注意を受けるようです。

しかし、下着ではなく、靴下の色なら大したことのないことなのだろうか、とも思います。
教師からそういった校則を示され、生徒は無条件に従わなければならない、校則を変えようなどとは思いもつかない、変えることができるのかどうかも知らない、それが生徒たちの現状です。

果たして、その教育の目的は何でしょうか。

 

「世界を変えなさい」

 

世田谷区立桜丘中学校の校長を十年務めた西郷氏の教育理念は、「世界を変えなさい」である。

学校は何のためにあるのか。

たいていの学校では、生徒が今ある社会に適応して生きていけるようにということが教育目標になっていないだろうか。

それに対して、西郷氏は、今ある社会を変えていける人間を育てることを教育目標とする。

 

1.彼自身が学校を変えて見せた

彼はそれまであった校則をなくしてしまった。
何のためだったのか。

制服を着なければならない、遅刻してはいけないといったことが、生徒を委縮させるケースがあることに気付く。
そらならと取っ払って、学校を生徒が安心できる場にしようとした。

しかし、彼はたんに生徒を「自由」にしたのではない。

今あるルールを疑い、教育の本質を問うた。
本来人間に備わった「よく生きよう」という意志は、「安心して過ごせる、安心してみずからを表現できるような環境の中で」発動するのだと彼は述べる。
それを妨げる校則を廃止し、生徒がよりよく学べるように具体的な施策を次々に繰り出す。
校則にただ従うのではなく、自分で考え、判断できる力を養おうとするのは、生徒たちが自分でこの社会を変えていけるようにするためだ。
教師は生徒会が決めたことの実現に奔走し、かつ、様々な立場や利害が絡む現実も学ばせる。

当然、教員に対しても、授業や法律をきちんと勉強して教育界を、そして世界を変えなさいと求める。
そのために管理職を目指しなさいと。

そして、彼自身が学校を変えて見せた。

 

2.批判精神

なぜ、西郷氏は学校を変えることが出来たのか。

まず、彼の批判精神がその本質だと思う。

茶髪にしてきた生徒の後ろに何があるのかを見通す彼の深さと温かさは、ときに生徒への批判の言葉にもなる。

教師の考え方も厳しく批判し、また、どの教師が生徒から人間として評価されないかを露わにして、育てる。

教育とは「心を引っ掻き回すこと」、つまり固定観念を覆し、前提を疑うことを教えることだと彼は考える。
批判精神を育てることが教育なのだ。

彼は、大学卒業後最初に配属された「養護学校」(現 特別支援学校)でも、生徒たちに、周りに世話になっているという遠慮や卑屈さがあると気付き、それを「ぶち壊してやろう」と、抑圧を解き放つような楽しい企画を仕組んでいった。

批判精神を別の言い方にすれば、彼は問題を見ようとする人だ。
漠然と生徒全体を捉えようとするのではなく、「問題を抱えた子」、「困っている子」に焦点を合わせるべきだと繰り返し述べる。

問題にこそ組織の本質が現れると捉え、また、そこに学校をよりよくしていく可能性を見るのだろう。
「問題を抱えた子」に集約して現れてくる問題は、一見問題のない他の生徒たちの抱える息苦しさとつながっていると、私は実感している。
また、学校の「スマホ禁止という建前」への西郷氏の批判に賛成だ。
スマホやSNSに関して実際に生徒間で問題が多発しているのだから、たんに「禁止」にするのは逃げである。

 

3.  学校を社会に開く

西郷氏は、学校を社会に大きく開く。
これが、彼が学校を変えることが出来たもう一つの本質だと思う。

校則はなくとも、法律はあるのだと、彼は学校に警察を入れる。
暴力の問題はもちろんのこと、学校で物がなくなれば警察に頼み、鑑識が来て指紋や証拠を集めて行く。
内内に処理するのではなく、問題を公にする責任を負って、中学校も社会であることを生徒たちに示す。

教員に対しても、「転職」を心に抱けと、教職を離れることも勧める。
教員免許を取ったから一生安泰という前提を考え直すべきだと。
その前提が人間の成長を止めてしまい、また、いざというときの逃げ道をなくしてしまって「教員の心の病」の問題にもつながるのではないかと。

また、彼は学校を変えるために区や教育委員会を巻き込むのはもちろんのこと、企業や地域のあらゆる人たちとどんどん手を組んでいく。
自分で世界を変えるという彼の理念が、地域の人の志と響き合い、それが活きる。
そういう風に私も生きたいと思う。

 

4.何も変えられないと教える教育

西郷氏は、80年代に赴任した、荒れる中学校で、「生徒が生徒を締め付ける」ところに学校の問題を見る。
「自分たちが力で押さえつけられ、学校を楽しめないので、なぜか下級生に対しては教員の代弁者になって、少しでも楽しんでいる下級生を見つけると、「調子に乗るな」と脅したりします」。

これはたんに過去の話ではなく、教師の管理を真似て、生徒が生徒をバッシングし、ときにはいじめに発展することが何度も述べられている。
私も塾の生徒たちを通して、度々その事例に見てきた。
すっかりおとなしくなった今の中学生たちも、教師の側に立って、校則を破った生徒を責めることが少なくない。
バッシングを受ける生徒だけではなく、バッシングする生徒にもどれだけの不安や抑圧があることか。

多くの中学生にとって、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという校則は、ただ教師から示され、無条件に守らなければならないものでしかない。
その上からの抑圧自体を疑うのではなく、逆に、そこから外れた者をさらに抑圧する。

もちろん、指導の責任を負う教師の側に、校則決めに対して生徒より強い権限があってもよいだろう。
しかし、生徒の側に、校則を変える権限が一切ないとしたら、その教育は彼らが社会で生きていくときのためになるのだろうか。
それでは、社会に出て様々な困難や問題にぶつかったときに、すべてをたんに個人の自己責任としか捉えられず、組織のルールを疑うことができないのではないか。

また、人権を保障する法律や組織のルールを盾に、自分の身を守ることもできないのではないか。
校則は本来、たんに生徒の権利を制限するのではなく、その権利を守るためのものでなければならない。

 

5.社会は変えられる

生徒たちが毎日長い時間過ごす学校に安心が無いのは、その教育目標がまちがっているからではないか。
生徒の進路進学を、今ある社会の中の職業や社会的地位の椅子取りゲームのようなものだと捉えていないだろうか。

本来の教育目標は、今ある社会を前提に、自分をどこに当てはめるかという強迫的なものであってはならない、「世界を変えられる」人間を育てることだと、私も思う。
それは自分が変われる、成長できるということでもある。
自分が成長せずに、周りを、社会を変えることなどできないのだから。

西郷氏は、昨年の3月で校長を退任した。
「自分たちで社会は変えられる」、「世界を変えなさい」と教えてきたから、何も心配ないという。

『子どもと学校』学習会報告

日時:2020年8月30日(日曜)14:00-17:00
テキスト:河合隼雄著『子どもと学校』(岩波新書1992年)

 

久々に学習会を行いました。

コロナ禍にあってオンライン開催だったことにもよるのか、今回はお父様にも3名参加していただきました。
子どもの教育は母親に任せっきりという家庭はこれまで少なくなかったと思いますが、社会は確実に前へ進んでいるのだと実感します。

また、現在就活中という大学生のお母様の話は、中高生の親御さんたちの悩みの、多少の相対化になったのではないでしょうか。
大学受験のときから、本人の自主性次第だと思ってはいたけれど、社会から隔絶された学校で自分を確立することも難しく、ますます自主性が問われる社会で息子がやっていけるのか不安だと話されました。

なお、私が最近授業や学習会を通して感じていることは、人間の子どもというものは、親のすさまじいまでの子への思いがあってここまでに育ってきたのだなあという思いです。

また一方で、それでも、というか、それだから、いったいどこを目指して教育するのか、その方向性のあり方が重大だと思います。
河合氏もそのことを論じています。

以下に、今回のテキストに沿って私の意見や疑問を述べます。
そして最後に、学習会参加者の感想の一部を掲載します。

 

1.「価値の一様性」

価値観の多様化が進んだと言われているが、逆に「勉強ができる子」がよい、「素直なよい子」がよい、という価値の一様化が進んでいると、河合氏は述べる。
大人のその狭い考えは、子どもの問題として表に現れ、そのとき大人は、それを子どもの問題ではなく、自分たちの問題として受け止めて、生き方を深く考え直すべきだと。

しかし、こう言われて、それが自分の問題だと思う親はどれくらいいるだろう。

私も、子どもを育てていた頃、「勉強」がすべてだなどとは思っていなかった。

しかし、じゃあ「勉強」以上の価値は何かといえば、私はそれを明確に持ってはいなかった。
今は、それは「自立」だと考える。
自分の考えの基準やテーマを持って生きられるようになることを、はっきりと教育の目的とすべきだ。
「勉強」はそのための手段である。
そして、子の「自立」を達成するには、親自身も「自立」を追求しなければならない。
そう考えるようになるまで、私は結局、「勉強」と「素直」という一様化した世間の価値で、子どもを育てたのだと思う。

このテキストが書かれてから30年経っても、この問題は今も変わらず、そして大人だけではなく、中学生たちに深く浸透していると感じる。
彼らの多くの意識は、「勉強」ができるといった、教師や親にほめられる生徒を評価し、校則を破るなどして大人に叱られるような生徒の価値を低く見る。
校則の意味を疑うこともなく、正義にもとることをした訳でもない生徒を、教師だけではなく、生徒までもが責めたりする。

大人の価値観がそのまま子に刷り込まれるのは当然だが、そこに疑問を感じ、超えていく可能性が生まれるのが思春期だ。
ところが、その大人や社会への疑問や不満が、きれいに折りたたまれて片付けられたり、不発だったりと、「よい子」が多いと感じる。

 

2. 思春期=『さなぎ』=不登校

河合氏は、不登校を論じたⅢ章4節で、思春期を「さなぎ」に喩えている。
人間が子どもから大人になるのはなかなかたいへんなことであり、「毛虫が蝶になる中間に『さなぎ』になる必要があるように、人間にもある程度『こもる』時期が必要」であると。
そして、「思春期から青年期にかけて、ほとんどの人に、それは何らかの形でやってくる」、何もする気がしないとか、勉強に身が入らないといった形であると述べる。
多くの中学生が、彼ら自身の悩みとして口にすることだ。

河合氏はⅠ章で、そのように立ち止まるということが「内的成熟」のために必要だと論じている。
「内的成熟」こそが思春期に遂げるべき成長だということだろう。

そして、その『さなぎ』の状態が「よりきつい形であらわれてくると、不登校」という形になると見ている。
つまり、彼にとって、思春期と不登校は地続きである。
実際、不登校は、当時も今も中学生に顕著である。
2018年には12万人、中学生全体の3.7%にまでなった。
さらに、不登校気味や教室に入れない等の「隠れ不登校」がその3倍と言われている。

 

3. 思春期の意味

鶏鳴学園では、思春期を、人間の成長の三段階の中の二段階目として考えている。

まず、人間は、生まれてから思春期を迎えるまでは、親と一体の全き世界に生きる。これが第一段階である。

しかし、思春期を迎えると、友人の好き嫌いが明確になり、親や教師など大人との対立も起こる。
外に対立があり、そして彼らの内にも対立する思いがせめぎ合い、葛藤する。
つまり、全き世界に「ひび割れ」が入る。
『さなぎ』にもなる。
人によって、「ひび割れ」がどのように表に現れるのかの違いはあっても、思春期の生徒たちは、誰もがこの第二段階にある。

その「ひび割れ」をどう捉えて親からの自立を果たし、大人になれるのか、自分の答えを出し、自分の世界をつくっていけるのか。
その第三段階はまだ遠い目標だが、「ひび割れ」をしっかり自分で生きて、自立に向けて歩み始めることができるのかどうか。
それが、思春期の課題だ。

ところが、教師や親が、とかく彼らを第一段階に引き戻そう、引き戻そうとしているように見える。
学校での生徒たちの関係は対立だらけだが、「級友のよいところを見るようにしなさい」、「言葉遣いに気を付けて、他人を傷つけないように」と教えることが多いように思う。
第二段階の対立を表面的に回避させようとするばかりで、生徒と共に対立に取り組もうという試みはどれほどなされているのだろうか。

また、学校と親がタッグを組んで、子どもの勉強の管理を強めている。
定期試験の各教科の点数が、学校から親に逐一報告されたり、何時から何時まで何の勉強をしたのかといった生活記録を提出させる学校すら少なくない。

子どもの方でも、友人間の対立や葛藤によって心の中は嵐でも、一方で、対立は面倒だからなかったことにしたい思いもある。
成績を親に責められれば、勉強にやる気が出ないことには蓋をして、おとなしく言うことを聞いておこうとも思う。
第一段階に戻りたいという思いが、彼ら自身の中にもある。

しかし、第一段階の、一体の世界に戻る道はない。
第三段階に向かうための、第二段階の「ひび割れ」や「さなぎ」の意義を正しく認めなければ、先が無い。

 

4.「父親の役割」

河合氏は、本書の中で、直接には父親の役割を論じていない。

しかし、「不登校」を論じたⅢ章で、思春期を迎えた子に一個人として向き合う父親を登場させる。

また、「母性原理」に対する「父性原理」を論じたⅠ章で、親が、子と「一対一で対決し、自分の個人の意見を言うという強さ」を持つ必要性を論じている。
親の個人の確立、つまり自立だ。
子どもが小さいときに母親を助けるイクメンの役割だけでなく、子どもが思春期を迎えたとき、いよいよ父親特有の役割が問われると、私も思う。

ここで断っておきたいのは、母子家庭の場合も、子の思春期には「父親の役割」なるものを意識し、ときには家庭の外の力も頼んで、それをつくっていくことは可能だということだ。

「父親の役割」とは、思春期の最大の課題である、子の親からの自立と、親の子離れのために、特に母子一体化を壊す役割だと思う。
思春期以前の子どもの教育から、思春期以降の新たな段階の教育に切り換えるためだ。
「父親」が常に子どもの教育に関わる必要があるということではなく、その転換をサポートすべき出番というものがあるのだと思う。

多くの家庭では、母親が子どもの誕生からずっと、その生活に密着して世話をしてきて、思春期の今もそれは多少なりとも続いているだろう。
その母親が、子の生活や人生と精神的に一線を画すという切り替えは、母親だけで成し遂げるにはあまりに大きな転換だ。
子どもが社会で生きていく日が近くなったとき、「父親の役割」が問われるのだと思う。

子の新たな成長段階への移行、発展のために、親も「自分自身の生き方について深く考え直す」、そして子育て後の人生をつくっていき、子離れするためである。

 

5.「個性」とは?

このテキストにおいて、河合氏の「個性」の捉え方には疑問を感じた。
主にⅡ章だ。

まず、彼は「個性」を、小さい子どもが元々持っているものとして考えているように思われる。
「子どもが個々にもっている個性を壊す」、「個性の強い子ども」といった捉え方である。
もちろん、小さい子どもにも、身体的にも、性格にも差異があり、それぞれ家庭環境などの背景が異なる。
彼は画一的な教育を批判し、まず個々の子どもの多様なあり方やバックグラウンドの理解が、教育の土台にならなければならないと主張しているのだろう。
それは重要な点だ。

しかし、「個性」の教育を論じるときに、小さい子どもの先天的な差異や、家庭環境といった本人にとって偶然による差異を、「個性」と呼んでよいのだろうか。
私は、「個性」とは、思春期を迎えた子どもが、自ら自己理解を深めて自覚的につくっていくものであり、その問題意識であり、考え方や生き方ではないかと思う。

また、河合氏は「自我の確立」を論じながらも、「集団の一般的傾向と異なる生き方をすること」が「個性」であるかのような論に流れている。
他人と異なるかどうかが「個性」の基準にはならない。

 

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<学習会参加者の感想>
中学生の父、Aさん

学習会は初参加でしたが、「個性とは何か」という事を考えるにあたり、河合隼雄が示した事例に対しても、きちんと点検して疑問を持つという着眼は勉強になりました。

息子が思春期を迎え、親の生き方や考え方が問われている事も含めて、親子の関係が新たなステージに入ったことをあらためて実感する良い機会となりました。

大学生の母、Bさん

「子どもと学校」を読んでみて、強く印象に残った箇所が二つありました。

(1)「問題児というのは、われわれに問題を提出してくれているのだ。学校へ行かなくなった子は、大きい「問題」を親や教師に提出している」(p7)

子どもに問題があったとき、親は、子どもの問題を解決する手助けをしようとする。
親自身が属している大人社会に、子どもがうまく適応できるように手を貸そうとする。
親も、社会に多くの問題があることは勿論わかっている。
でも、社会が変わるより早く子どもの方が大きくなっていくので、どうしても、子どもが今の社会(その一部としての学校)にうまく適応していって欲しいと思ってしまう。
受験が差し迫っているときは、尚更だ。
でも、ここに問題が潜んでいる。こういうときに、子どもが親や教師に問題を提出する。
問題を提出されても、なかなか親にも答えは見つけられない。
鶏鳴学園で聞き書きを推奨している意味はここにあると思う。
完全ではない世の中で、完全ではない親がどのように生きてきたか。
理路整然とした説教よりも懇切丁寧な説得よりも、不格好な親の姿に、子どもは感じるものがあるのだと思う。

(2)「「お勉強」で固められ、遊びの少ない人間は、成人してから創造的な仕事を達成できないのである」(p16)

言うまでもなく、教育はとても価値のあるものである。
でも、教育だけが価値のあるものなのだろうか。
子どもが、学校・部活動、塾・お稽古事で過ごす時間はとても長く、一日の時間の大半を占める。
これらの場では、子どもは「教えられる側」であり、その場のルールに従うことが要求される。自分なりのやり方でやってみる余地はとても少ない。
創造性を育む「教育」ができるのかどうかは、私にはわからない。
でも、時間に追い立てられるような生活の中からは創造性は生まれないだろう。
子どもが幸せを感じるところから、想像性が生まれてくるのだと思う。

中学生、高校生の父 、Cさん

【子どもと学校の内容について】

(1)  世の中で多様性が求められる中,学校における価値の一様性は,本書の書かれた1992年から30年近くたった今日でも大きく変わっていない。

(2)  会社などの社会でも, 父性=息子と一対一で対決し,自分の個人の意見を言うという強さ=自立 がより強く求められているが,学校・教育でそのような対応ができていない。

(3)  思春期は「さなぎ」で殻のなかでは常人の想像を絶した変化が生じているという表現は素晴らしく,とても腹落ちした。

(4)  父親として「干渉はしないが,放っておくのではない」接し方を目指したい。

【勉強会の内容】

(1)  子供から思春期を経て大人になる過程の説明を伺い,管理ばかりしていると,子供状態に留め置くことになり,自立した大人への成長を阻害してしまう。ということが理解できました。

(2)  素直なよいこだけでは自立できない。思春期は分裂・反発・対立・問題意識(怒り)を通じて成長する。今まさにその時を迎えている。思春期もしばらくは続くという心の準備をしておきます。

(3)  鶏鳴学園の大学受験に向けた(裏)テーマとおっしゃっていた「親子それぞれの自立」という事を肝に銘じ思春期の子どもたちと接していきたいです。

(4)  参加されたみなさまからも普段は接することができない,思春期前後の子を持つ両親としての育児へのかかわり方・悩みなどのお話しも聞くことができ,非常に参考になりました。

中学生の父、Dさん

<価値の一様性について>

「価値の一様性」の問題は回避すべきと感じるものの、その代替となる価値を自ら見出すことは容易ではない。例えば、「勉強して、テストでよい点とって成績表が高いほうが良い子」、という価値ではない、別の価値を見出すのは簡単ではない。仮に、勉強の代わりにサッカーという価値を見出しだとして。サッカーの世界では、「ボールを強く蹴れる、足が速い、相手にまけない、試合で点がきめられるのがよい子」という目指す価値があって、それ以外はだめだとされている。これは、学校の世界における一様な価値としての、「勉強ができる」ことを押し付けることと、同様の問題がスポーツ界でもおきていることになるのか?

一方、一様となっている価値には、現代社会において、合理的だと考えられる要素もある。それは経済に関連する話で、それで食べていけるかどうかにという観点で設定されているのではないか?構図としては、勉強して会社にはいってお金を稼げて、のような流れを意識しての、入り口としての勉強してなのか。と。自分で一周して考えて、結果、自分が納得する価値を見出した場合、その結果、その価値が他人とたまたま同じであっても、それは価値の一様性が問題であるとは言わないと考える。

<親が「待てない」ことについて>

まわりみちをして子供が自分で気づき・発見したほうが、そのあとの伸びは早いと考えるものの、自分の人生は一回きりしかないので、気づきが遅い・気づき後の行動が遅い場合、大切な時期を逸してしまう恐れもある。中学校や高校の期間は終わっている場合もありうる。

「待つ」べきだと思うものの、その待つ時間は、期間ごとに何をやるべきかを設定して、その期間内に即して実践的に設定すべきと考える。自立できるまでまっていたら、一生終わってしまう。

中学生の母、Eさん

田中先生や皆さまのお話は興味深く、あっと言う間に時間が過ぎました。
とっても古い本でしたが根本的な捉え方や考え方、関わりについてはいつの時代も共通しているのだなあと感じながら本を読んで学習会に参加しました。
お父様も参加してくださったお陰で多方面からの意見が聞けて楽しく聞かせて頂きました。
学習会に参加して、思春期のひび割れた状況から子供がどのように大人になっていくのか、きっと見守る事がとても大切なんだと思います。自分で体験し感じること失敗することで大人になって行く。今、思春期で子供も親も大変ですが見守る様、心掛けたいと改めて思いました。しかしそう簡単には行かないのですが、親も我慢ですね。
お金の話で家の家計の話をすると良いと言われて今まで全くした事がなかったので又じっくり話して見ようと思いました。
今回はお話を聞かせて頂いてばかりでしたが貴重な時間となりました。

『苦海浄土』学習会報告

日時:2018年12月15日(土曜)14:00~16:00
テキスト:石牟礼道子著『苦海浄土』(講談社文庫)

これまでの学習会では、直接子育てや思春期がテーマでしたが、はじめて社会問題に関するテキストを取り上げました。

子どもをどういう大人へと育て上げたいのかを考えるとき、私たちが今どういう時代に生きていて、この先どこを目指すのかということが土台になります。
だから、水俣病問題が何だったのかを深く問う『苦海浄土』を、ぜひこの学習会で読みたいと思いました。

60年以上も前に始まった水俣病問題は、たんに加害企業が悪いというような問題ではなく、行政も真っ当に対処できませんでした。
また、地域で壮絶な差別がありました。
その問題が今も私たちの日々の生活、生き方の中に根強く残っています。
学校でのいじめや差別意識、そして福島原発事故がそれを証明していると思います。

 

また、子育ては突き詰めれば、親自身がどう生きるのかという問題以外のなにものでもありません。
石牟礼の生き方から学びたいと思ったのも、このテキストを取り上げた理由です。

 

以下に、当日配布したレジュメの一部を掲載し、その後に私の感想や問題提起、そして最後に参加者の感想を掲載します。

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<学習会当日配布のレジュメより>
I        本書の全体の構成

(1)背景:水俣病問題の発生から、漁民たちの怒りの暴発まで   (1953-59)
一章:個人 ―患者や家族、地域の人や医者―
二章:社会 ―漁民たちvsチッソ、行政などの政治的動き―

(2)山:当事者の語り
三章:女性患者の語り ―家族内の話―
四章:患者家族の「家長」(男性)の語り  ―社会的な話―

(3)その後の運動:問題の進展、深まり ―患者、漁民、市民の運動、組織―(1956-68)
五章:マスコミや市民、行政や医学など外部と、患者互助会結成という内部の動き
六章:石牟礼の人生                           七章: 「水俣病対策市民会議」結成

II       『苦海浄土』の本質

(1)『苦海浄土』は、たんに水俣病問題を告発するためのルポルタージュではなく、公害とは何か、人間とは何か、その本質を深く問う文学である。

漁村に多数の患者や死者が出ても、水俣病問題への対応は遅れに遅れたが、本書によって、ようやく全国に広く知られた。

しかし、本書はたんに加害企業であるチッソを糾弾するものではなく、むしろ、加害企業であるチッソが貧しい時代の人々の希望であったことも描き出す、客観性と全体性、公平性が担保されている。

(2)本書の山は、患者や家族の魂の声を代弁する三・四章の語りであり、詩である。

病のために発語の難しい患者に代わって、また、病ゆえに地域で差別され、孤立した患者家族に代わって、その思いが、抑圧から解き放たれるように生き生きと語られる。

病による悲しみや不安だけではなく、かつて自分の手足で働き、生きていた喜びと誇りが豊かに表現されている。

彼らの内面の葛藤に深く迫り、その語りは、ものごとの本質が突き詰められ、表現された詩である。

(3)随所に医学や行政の原資料が差しはさまれている。

石牟礼が、患者や家族に一体化し、代わって語るだけではなく、その一体化を壊して、彼らを突き放し、相対化するかのようである。

そうして問題との一体化と対象化を行き来することによって、水俣病問題がどういう問題であるのかを、静かに深く問うている。

III      石牟礼道子の本質

(1)水俣病問題が起こった時代に、その水俣で生きる一人の人間、家庭を持つ一女性として、水俣病問題を「見とどける」ことを使命とした文学者である。

チッソの企業城下町だった水俣で、長年捨て置かれた患者や家族に当初から寄り添い、とりつかれたように筆を執った。

代用教員としての軍国主義教育や、敗戦後は一転して教科書に墨を塗るというような誤魔化し等々、様々な問題に疑問を抱いていた彼女は、水俣病患者たちと出会ったとき、自らの使命を見定めたようである。

「患者さんたちにつかまっていったとしか言いようがない」と語っている。

水俣病問題に向き合うことが、彼女が生きる意味であり、その中で彼女の人生の意味を深め、成長していくことによって、その使命を全うした。

つまり、「自分とは何か」をさいごまで追求し続けた人である。
※『苦海浄土』の副題は、「わが水俣病」

(2)患者を支える市民運動や、研究会に尽力し、患者や家族のチッソ本社前の座り込みなどにも同行した。

(3)殊に女性がそういった仕事をすることに多くのあつれきがありながらも全うし、彼女の仕事には女性の一生活者としての視点が貫かれている。

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<感想、および問題提起>
1.公害問題の意味

公害問題は、人間の歴史の中で、自然と人間の関係が逆転したことを知らしめた。

つまり、近代の工業化、生産力の急拡大で人間の力が自然の力を上回ったのだ。
たとえば、それ以前は人間が海に何を棄てようと、広い海がそれを希釈、浄化し、問題は起こらなかった。
ところが、人間の生産力が、自然が自ら回復する力を超えてしまった。

水俣病問題が起こったとき、その人類史上初の事態に企業も行政も真っ当に対処できなかった。

そして、経済成長の過程で出てきた公害問題は今も未解決である。
水俣病の加害企業、チッソが国策企業だったのと同様に、やはり実質的に国策企業である東京電力が福島原発問題を起こした。
昨今は海洋汚染によるマイクロプラスチックも問題になっている。
私たちは、自然と人間の関係が逆転した、新たな状況に対応した人間社会をつくらなければならない。

それは根本的には、私たちの民主化、主体化の問題ではないだろうか。
人が主体的に調査、判断する能力を持ち、差別や抑圧を許さず、問題を隠ぺいしないような能力と、また、制度を持たなければならない。
それは、たとえば学校でのいじめ問題に対しても求められる、普遍的な課題である。

水俣病問題は、甚大な被害の一方で、患者や家族、また石牟礼たち市民が運動して裁判で勝訴を勝ち取った、民主化への一つの動きだった。
そのことを、私たちは受け継がなければならない。

2.高度経済成長時代から、私たちは発展しているか

高度経済成長時代は、戦中戦後、またそれ以前からの貧困の解決がテーマだった。
満足に食べられない、娘を売らなければならないといった状況の克服だ。

そして、それは達成された。
ここ二十年以上経済が停滞しているとはいえ、絶対的には裕福になり、食糧は国全体としては足りている。
福祉もある程度整えられた。

ところが、社会的経済格差は拡大し、また、私たちの生き方は根本的には発展していないのではないか。

つまり、社会全体としては満足に食べられるようにという目標が達成されたのに、個人の生き方はまだ同じところで汲々としているのではないか。
将来が見通せない今、何とか今の豊かさや階層を維持したいという守りの姿勢には、経済成長時代にはなかった悲壮感すらある。
中高生たちは夢を持てず、そういう社会をつくった私たち大人の希薄さが、彼らの表面的な、また余裕のない人間関係に反映されている。

本来は、食べていくためだけではなく、人間としてどう生きるのかを追求できるのが今の時代ではないか。
そのために私の親の世代は経済成長を成し遂げたのではなかったか。
人間は、食べて命をつなぐという動物と同様のテーマだけではなく、自分の一生をどう生きるのかという、人間としてのテーマを問わずにはいられない。
自分は何者なのか、何のために生きるのか。
どういう仕事をして死にたいのか。

それを存分に追求する生き方へと発展するところにだけ希望があり、それが私たちの使命なのではないか。

3.女性の自立は進んでいるか

高度経済成長時代、多くの家庭で夫婦は仕事と家庭に完全分業していた。
私の親の世代に、夫は仕事で不在がちで、子育ては妻に任せきりという家庭のパターンは実に多い。
家庭での問題に夫婦が共に取り組んでいく中でもそれぞれの人格を築いていくのではなく、個々バラバラなまま暗黙の了解の内に「共依存」していたのではないか。

それに対して、現在は女性の社会進出が進み、また「個性」の時代と言われるが、果たして女性の自立は進んでいるのだろうか。
女性が自立できるかどうかは、そのまま男性や子どもの自立の問題と一つながりである。

自立するとは、前節で述べた、何のためにどう生きるのかを存分に追求し、自分の人生のテーマや夢を持って生きる生き方だと思う。

石牟礼はそれをやり遂げた女性である。
彼女のような文学の才能が誰にもある訳ではないが、私たちは今の時代の問題の一つに取り組むことはできる。
その中でそれに必要な能力は獲得されていくと信じたい。
石牟礼も、水俣病問題という大きな問題に取り組む中で、度々彼女自身を超えていったにちがいない。

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<学習会参加者の感想>

大学生の母 Aさん
『苦海浄土』は、水俣市に住む一人の女性が水俣病問題の実態に迫ることだけを目的に書かれた本ではない。筆者は、医師でもなく、ジャーナリストでもない。また、彼女自身や彼女の家族も水俣病患者ではないため、命が壊され脅かされていく中で、追い詰められてペンを執ったり、「水俣病対策市民会議」を立ち上げたりしたのでもない。では、水俣病問題に人生をかけて向き合った筆者を強く突き動かしたものは何であったのだろうか。

本書に、水俣病特別病棟に初めて訪れた「わたくし」が、漁師だった患者、釜鶴松と一方的な出会いをした時の様子が書かれている。一方的とあるのは、鶴松は、「まさに死につつある人々の中にまじって」、「まさに死なんとして」いた状態だったからである。その「彼がそなえているその尊厳さ」を目前にして、「これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられ」たとある。さらに、「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがた」く、鶴松の「決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」と書かれている。筆者自らが水俣病患者として、壮絶な苦しみ、無念さ、せつなさや戸惑いを訴えることはできないが、患者に代わって記録を残す使命をこの時から背負ったのである。しかし、患者の力になりたいという思いだけでは、水俣病という底知れぬ大きな問題に、筆者の一生をかけて向き合うことはできなかったと思う。

学習会のレジュメに、『苦海浄土』の本質の1つに、「問題との一体化、対象化を行き来することによって、水俣病問題がどういう問題であるのかを、静かに深く問うている」とあった。まさに、時代の狭間で、また、矛盾や問題の狭間で、「行き来」して苦しんだのが筆者の人生だったのではないか。高度経済成長を遂げた時代に、利便性を追求して生活は豊かになったが、一方で壊された自然や犠牲になった人々がいる現実、季節ごとに移ろう自然の恵みを受けて暮らす漁師の「栄華」と、他方で貧困や水俣病患者への差別に苦しむ人々。筆者は、急速に変わっていくこの時代や女性差別が色濃く残る社会の思想の狭間に立たされて、常に矛盾や問題を強く感じながらも、妻として母として、また、嫁として生活をしていかなくてはならない現実と「行き来」していた。この「自分とは何か」という、人間の本質を問う深い問題意識を自分で解決していかなくては、彼女自身が生きていけなかったのではないかと思う。

高度経済成長の時代はとうに終わっているが、矛盾や問題は山積みである。いまだに、女性であるという理由で、医大の入学基準が変わり、不利になる歪んだ社会に生きている。そして、その問題が大きくなればなるほど、隠し誤魔化したくなる私たちがいる。自分自身を振り返ると、私は家庭内の矛盾や問題から目を背けてきた。特に、私と子供、私と母、私と姉、私と夫の共依存関係の問題は、子供の今後の人生にも私自身の人生にも関わる大きな問題だが、だからこそ、この関係性を断ち切れずに、これまで誤魔化し逃げ続けてきたのだから、国やチッソのとった態度と同じである。私が自立できていなかった問題に対して、その「おかしさ」と向き合う問題意識が弱く浅かった。

この本の自然描写や人間の本質を捉えた文章は胸を打つ。美しい自然と壊れていく自然、希望と絶望、生と死、成長と退行、平等と差別など、たくさんの狭間で「行き来」しながら苦しみ、問題意識を深めた筆者そのものである。

高校生の父 Bさん
ここ数年の間に、映像を通じたコミュニケーションが急激に広がっている。写真がすべてを伝えるような、若者間の情報のやり取りにある種の危機感を感じる。写真は、事実を写している。しかし、事実のすべてを写していない。写真は人間の五感のうち視覚にしか訴えていない。だから必然的に、視覚に過度に依存するコミュニケーションが活発になる。

文字は不自由なものだ。ただそれを見ただけでは、人間の感覚の何をも刺激をしない。しかし、それを読むことにより、脳がその状況を想像し五感を駆り立てる。その素晴らしさを、時間を取って感じる機会を、若者のみでなく親世代も意識的に持つ必要があるのであろう。

苦海浄土は、五感を刺激する文章だ。人間の想像力の閾値を試されるものだと感じる。水俣病の壮絶な病状と対比される、日常の健康で平和な暮らし。豊かな海と工場排水に汚染された海。巨大な工場と貧しい漁村の生活。この絶対的な対比において、水俣病というものが読者の前に浮き彫りになる。

しかし、筆者の目は一方的に患者に向いているわけではない。水俣市のおかれた環境や一般市民と患者の対立を冷静な視点で見つめている。これは、単に「公害病は悪だ」という単純な視点で語れない社会の複雑さを筆者自身が意識し、その解決にもがき苦しむ姿勢の表れなのかもしれない。

筆者が示す、患者と向き合いながらも、客観的な視点を維持する姿勢は、現代のわれわれの問題解決にとって欠かせないものだと感じる。社会で生きていくためには多面的な視点を持つ必要があると言われる。しかし、人はどうやって多面的な視点を確保したらよいのか。本を読めばよいのか。しかし、読書は筆者と読者の対話に過ぎない。そういう意味で、一つの本を題材として、いろいろな視点で意見を持ち、話し合うという場は重要なものだ。サラリーマンが多忙な仕事の合間に課題図書を読破し、貴重な休日の昼間を使って、参加する価値があるのか。私は、十分価値があると感じる。

大学生の母 Cさん
今までこの学習会では思春期をテーマとした本が選ばれることが多かったので、久しぶりの学習会でこの本が課題本と聞いて、とても意外だった。と同時に、NHK100分de名著に「苦海浄土」が取り上げられていて、気にはなりつつも、今まで見ないままにしていたことを思い出した。この学習会で課題本となったことを何かの巡り合わせと思い、まずはNHKの同番組を見た(最初から本を読むのは大変そうだったので)。

一番驚いたのは、自分がこの本、この作者の存在を今まで知らずにいたこと。この本は、普通の日本人なら、たとえ読んだことはなくても少なくとも名前だけは聞いたことがある、という範疇の本であって然るべきではないだろうか。国語の教科書の文学史のところに太字で載っていて欲しい。でも、私が中高生だった頃に習った記憶はまるでない。試しに今大学生の子どもに聞いてみても、知らないと言っていた。

環境問題を告発した本として有名なレイチェル・カーソンの「沈黙の春」に比して、「苦海浄土」が現在日本でも殆ど知られていないことの理由を考えてみる。

「沈黙の春」は遠いアメリカが舞台になっていて対岸の火事と思えるのに対し、「苦海浄土」は日本で起こったことで今も多くの被害者たちが存在しているリアルな問題である。チッソや行政の責任が裁判で問われているので、私が高校生だった当時にこの本が検定教科書で取り上げられなかった理由は想像できる。でも、それだけではなく、この本の存在を埋れさせたのは、辛くむごたらしい問題から目を背けていたい、自分が解決できる訳でもない問題を考えてどうなるのか、という私たちの意識だろう。誰もが便利で豊かな暮らしを望むが、そのような暮らしを実現するために犠牲となっているものについては考えたくない。犠牲となる弱い立場に置かれた人々、動物、植物、地球環境のことは直視したくない。自分は彼らに悪いことはしていない。

「苦海浄土」を読むと、誰もが犠牲となった人々に対して罪悪感を感じずにいられない。それが、高度成長期を経てバブル経済に入っていく過程で、日本人がこの本を埋もれさせて行った理由だろう。

読むのが辛く苦しい本だが、それでも石牟礼道子という人がこの一冊を書いてくれたことを日本人として誇りに思う。

社会人 Dさん
学習会に参加して、自分ひとりで読んだ時にはわからなかった発見があった。

一つは、ゆき女の語り部分を音読で聞いて「歌」だと感じた。黙読ではわからない。

二つめ。患者と関わり同じ水俣で暮らしていた石牟礼さんが『苦海浄土』を書いたことはリスクがあったろう、という意見から考えた。自分が身近な問題を書いて公にすることを想像した。公にすることで、それまでの人間関係が壊れて自分も孤立するかもしれない。恐い、と思った。

今から70年前に生まれた水俣病患者を巡るできごとを、水俣から遠く離れた東京で読むことができた自分からすれば、よくぞ書いてくれたと思う作品だが、書く側に身をおくと容易なことではなかったろうと想像できる。

三つめ。水俣病が生まれた高度経済成長期と比べると、公害の規制があり福祉の制度も整った現代であるのに、より良い世の中になったとは言えない、という田中さんの問題提起が心に残った。

中学生・高校生の母 Eさん
初めて学習会に参加しました。自分だけで読んでいると気づかなかった部分でも、先生の解説で読み深められました。
水俣病は戦後まもなく起こった問題ですが、現代社会にも通じる所があるなど、考えさせられる内容でした。

参加者の方々の意見を聞いて、色々な見方がある事もわかりました。

今後は忙しい事を言い訳にせず、時間を作り読書をしたいとあらためて思いました。

高校生の母 Fさん
会場でも、別の方が仰っていましたが、私も今回の学習会までは『苦海浄土』という本を知りませんでした。読み応えのある本を教えていただいたことに感謝しております。

水俣病は有名な公害病ですが、実態は想像以上でした。本の描写では、視力を失い、体を思い通りに動かせなくなっても、しっかりした意思とプライドをもって生活していらっしゃる患者の方やそのご家族の様子が生き生きと表現されています。それと併せて公的な記録も散りばめられており、水俣病問題について興味深く考える事ができます。

高1生の教材としても使われたそうですね。若い方がどんな感想をもつのか伺ってみたいです。それから、全然別の話ですが、田中先生の本にはびっしりと付箋や書き込みが‼︎そこまで読み込んだら違う発見が色々あるのではと感心しました。

仕事と育児に追われる毎日でしたが、最近ようやく読書できる時間が増えてきました。私もこれからはじっくりと読み深める時間も取っていきたいと思います。

今回の学習会はとても楽しかったです。機会がありましたら、また参加させてください。

中学生の母 Gさん
著者の石牟礼は、水俣病問題を見届けることを使命と感じ、この作品を世に送り出した。自分の目の前で起きている問題に正面から向き合い、自分が持つ力を活用し、課題を解決する著者の姿勢は、いかに生きるのかという点で大変参考になる。

水俣病の起きた時代に比べると、現代は、生活するため、ただ生きるためだけに、費やす時間やエネルギーは圧倒的に減少し、能動的に生きることが可能になったといえる。どのように生きるのか意識して過ごさないと、メディアや自分のいる環境からのみ受け取る価値を基準に生きてしまう。そこには、私自身は反映されていない。自分の人生を生きるために、著者の姿勢には、学ぶことが多い。

思春期学習会2報告 小説『エイジ』

重松 清 著 『エイジ』(新潮文庫 2004年)
2017年12月3日(日曜)

 

昨年10月の学習会に続いて、12月も「思春期」をテーマとしました。

10月に参加者の一人から、中学生の娘に以前のように明るく活発であってほしいという思いを聞いて、今回は、思春期に葛藤することこそ成長の証だと思えるようなテキストをと考え、小説、『エイジ』を選びました。
主人公の中学生、エイジのように、周りと対立し、また自分自身と葛藤するのが思春期であり、その対立や葛藤こそが大切な成長の芽だと思います。

以下、私の感想と、参加者の方の感想を掲載します。

 

思春期の対立と葛藤が成長の芽

この学習会をスタートして三年目に入り、今回初めて小説をテキストにした。
「思春期」を外側から解説している本ではなく、思春期の子どもの側から何がどんなふうに見えるのかを描いた『エイジ』を選んだ。
当時30代の小説家、重松清が中学生たちの気持ちを代弁しているのだが、リアルに描かれている。

エイジの同級生が「通り魔事件」を起こしたことによって、エイジたちの目に大人や世間の矛盾や悪がくっきりと見える。
事件をなかったことにしたいかのような教師たち、騒ぎ立てるマスコミなどに対してエイジは疑問だらけの中で、彼自身の矛盾や悪にも目覚めていく。
友人が「シカト」されることに対して態度を決めかねたり、その気もないのに女子生徒と付き合い始めたり、親にキレたりと、無様な自分に直面する。
よいことなど一つもないかのようだが、これがエイジの成長の過程だ。

 

他者に疑問を持ち、対立し、また自分自身に疑問を持ち、葛藤する。
外との分裂と、自分自身の中の分裂に足を踏み入れるのが思春期だ。
それ以前の、誰とでも仲良くできて、何にでも溌剌と取り組めるというような子どもには、もう戻れない。
むしろ、他者と対立するのが現実社会であり、その現実を自分で生きていけるような大人に向けて、一歩成長したのだ。
あれは嫌だ、これがいい、こんな人になりたいというような自分の好みや興味関心がはっきりし始める。
成長したから苦しく、しかし苦しいのはさらなる成長の芽だ。
もし、その苦しんでいる思春期の子どもに対して「以前の素直なあなたのほうがよかった」と言うなら、成長するなと言っていることになる。

一旦いくらか自分が壊れることで、親から与えられてきた生活を、自分自身の人生として捉え直し、つくり直し始められるかどうか。
中高生はその転換点に立っている。
エイジのように一時期勉強が手につかなくなるというような「一時停止」があったり、あるいは後退しているように見えることさえある。

ところが、「一時停止」や、疑問や否定、対立はよくないというのが現代のトレンドである。
ぐずぐず悩むよりも「プラス思考」、「ポジティブ」が好まれる。
とにかく大学受験まではと、葛藤には向き合えずに走り続ける子どもも多く、近年大学の学生相談室は利用者の増加が止まらず、どこもパンク状態のようだ。

子どもの思春期の対立や葛藤、「一時停止」の意味を十分に認めて、その苦しい過程を経て自立していけるように、見守り、後押ししたい。
それは、私たち自身が対立や問題に向き合って生きることによってはじめて可能なのではないか。

 

◆ 参加者の感想より

中学生の母、Aさん

今回は小説がテキストということで、専業主婦をしていた母が子育てしながらよく参加していた「読書会」なるもの、自分の仕事を持ってしまい生活とでいっぱいいっぱいの私には全く縁がなく、羨ましく思っていたので、なんだか嬉しい気持ちで出席させていただきました。主人公のエイジが、娘と同じ中学2年生というのも、興味がありました。

エイジやそのクラスメイトたち、描かれるのは男子が多いですが、みな思春期真っ只中の中学2年生、それぞれの人物の揺れる心がよく表されていたと思います。

前回の学習会で学んでから、思春期というのは、自分自身の中に、またそれだけでなくあらゆる物事や人間に二面性を見つけ、悩んでしまうことではないかと考えるようになりました。そうすると不思議なことに、反抗ばかりだと思っていた娘の言動にも納得がいくような気がしてきていました。

今回もそれは、内的二分化という言葉で先生に表していただき、どの登場人物も見事にそう揺れているのがよくわかりました。

エイジを追ってゆくと、なんだかよくわからないけれど理由がある、という思春期の言動がよくわかります。大人たちはそれを、なんだかよくわからないもの、として片づけてしまいます。しかし思い出してみれば自分もそうであったように、なんだかよくわからないけれど理由はあった、のです。そこを、大人はよく理解し忘れないようにしないとならないのではないかと、この本を読んでいて感じました。

ではそのような思春期に、親はどう関わるか、という答えは書かれていません。しかしそれも、登場人物を並べて出来事を追っていくうちに、すこし見えてくる気がしました。思春期の中学生の内面を、理解しないのは学校の先生達。理解しようとするのは、中学生の世界の外にいる、マスコミの大人。それに対して、毎日生活を共にする両親というのは、内面には直接関わらず、距離を保ってしかしそれぞれのスタンスを貫いています。子どもを理解しようと内面に立ち入って、揺れる中学生と一緒に揺れてしまったら、毎日の生活が立ち行かなくなってしまう。親というのは、もしかしたらこれでよいのでしょうか。

いまの思春期という問題には、そんなことを考えさせられた一冊でした。小説としては、それぞれの人物の心理がよく描かれているようで、最後まで興味深く読めました。

 

高校生の母、Bさん

重松清の作品はいくつか読んでいて、好きな作家だったが、エイジが課題図書となって一読してみて、率直に言って、エイジは何とも捉えようがなく、他の重松作品に比べてつまらなく感じた。

でも、子どもに、この作品は中井先生の「日本語トレーニング」でも取り上げられている本だと聞いて、少し関心を持った。

そして、学習会の場で田中先生の解説を聞いているうちに、「あぁ、そういう趣旨だったのか」と気付くことがあり、全く自分の感性が干からびてしまっていたことに気がつく有様だった。50半ばにして堂々のおばさん(夫の言葉で言うとbaba)になっていた私から見て、中学生の感性はなんと繊細なこと! 解説付きじゃなきゃ、わかんない! 私も遠い昔には同じようなことを感じていたのかなー、と言うのが率直な感想だった。

それはともかく、その後に「日本語トレーニング」にも興味がでて読んでみた。冒頭に出てくる「道徳教育でない論理トレーニングが、現実と戦う力になる」という箇所に、少し涙ぐんだ。私の悩みは、何も特別なものではない世間にはありふれた悩みだが、なんとなく説得力を感じたのだった。まだ全部は読めていないが、ちょっとずつでも読んでいこうと思った。

思春期の親子関係 学習会報告

乾  義輝著「豊かな人間性を培う家庭教育の推進―「思春期」家庭の支援の在り方―」
2017年10月15日(日曜)

 

今回は、元県立法隆寺国際高等学校校長、乾 義輝氏の、思春期の親子関係についての論文を読みました。
子どもの思春期における、親自身の課題がテーマです。

学習会では、参加者の皆さんから、子どもの思春期やご自身の悩みが「問題のデパート」のように様々出されて、熱心に意見交換しました。
また、会の最後には、子どものことよりご自身のことを語る方が多かったのも、印象に残りました。

以下、学習会を終えての私の感想と、参加者の皆さんの感想を掲載します。

 

(1)  親の悩みと、変化

参加者から出された悩みは、たとえば、明るく活発だった子どもが、学校でのトラブル以降スマホ片手に勉強も手につかないといった悩み。
子どもとほとんど話ができない、また穏やかに話し合えないこと。
子どもの、友人や部活の顧問との関係。
大学入試を前にしての不安、大学生の息子の恋人や、将来の就職、結婚の不安等々だった。

また、親として、子離れが必要だとわかっていながら、子どもに手をかけ、心配してしまうという悩み。
ドラマ、『過保護のカホコ』で描かれた、母親の娘への過保護の様子が自分にそっくりとの反省。
また、その過保護や心配が、中学受験の「失敗」に親の責任を感じてしまったことから来ていると話した方もあった。

 

また、子どもの思春期を通して親自身の意識が変化したという経験も話していただいた。
明るく活発だった頃の娘に戻ってほしいという参加者の願いに対して、別の参加者から、彼女も以前は娘にキラキラした楽しいだけの世界にいてほしいと思っていたが、娘が二十歳過ぎてから「ママはきれいごとで育てようとしている」と言われたというエピソードが紹介された。
思春期の渦中にはその思いが言葉にもならず、人間関係のドロドロの中で「自分を守るだけで必死だった」とも。
その参加者は、娘は思春期にドクロの柄の服を着たりして、アタシに近付くんじゃないよと自分を守っていたのだろうと振り返った。
また、他の子どもについての見方も変化し、ああいう格好しているから悪い子どもだなどと決めつけるのではなく、思春期の不安を慮れるようになったとのことだった。

また、娘のミニスカートをとがめると、その理由を聞かれ、それに対して「『ご近所様』や『世間様』しか出せなかった、自分が無かった」と振り返った参加者もあった。

 

(2)  生き方の再構築

子どもの思春期には、子ども自身に課題があるだけでなく、親にも課題がある。

乾氏は、親自身の生き方や価値観、生い立ちや夫婦関係を問い直し、再構築する必要があると述べている。
また、その課題は「一人で誰の助けも借りずにやり遂げられる仕事ではない」、「同じ問題を抱える親同士の人間関係に支えられ」てこそできることであり、その中で「子どもとの関係」や「子どもへの願いや期待が組みかえられていく」と。

 

子育ては家庭内の孤独な仕事になりがちだが、本来は、子どもを社会に送り出すことを目的とする、社会的な「仕事」だ。
社会的な「仕事」は、社会的に、つまり他者と学び合い、相対化する中でこそ進めていけるものだと思う。

また、乾氏が、親自身の生き方や人間関係の再構築を「仕事」と表現しているのを読んで、それが「仕事」だと再認識した。
つまり、子どもの生活を支え、教育することだけが子育てではなく、親自身の生き方や考え方をつくり直していくことも、「仕事」だ。
子どもが思春期に自分自身をつくり直さなければならないときに、実は親にも同じ課題がある。
子育ての仕上げとしてその大事な「仕事」をすることが、子育てに重きを置いた生き方から子離れへ、子育て後の人生へと進むことになるのではないだろうか。

 

◆参加者の感想より

中学生の母、Aさん

初めて学習会に参加させていただきました。テーマは思春期と親の関わりでしたが、他の保護者の方々のお話を聞けたのがよかったです。どなたのお話も少しずつ共感できる部分があり、教えていただくこともあり、テキストを読み進めながら先生からいただいたキーワードも心に残り、思春期の我が子に対してすこし、目線が変わりました。

テキストを前にして、思春期真っ只中の我が子が思い浮かび、カッカしてしまいましたが、感じていた自分の問題はそこではなかったことを、帰ってきてから思い出しました。
学習会でも学びましたが、思春期とは、子の課題であると同時に、親の課題でもあるということ。参加者からお話が出ましたが、親自身のトラウマであったり、この先の我が子に対してあるいは社会に対しての漠然とした不安であったり、そういったものを抱えながら、子どもの思春期をどう乗り越えてゆくか。テキストの「研究結果と考察」に書いてある、親の持つべき自信と責任とは、どのような自信と責任なのか。答えのないものかもしれないし、人それぞれなのかもしれませんが、それらをもう少し話し、知りたかったと後になって思いました。

このテーマに限らずまた、学習会に参加してみたいです。

 

中学生の母、Bさん

参加者の皆様のお話を伺っていますと、皆同じように悩みながら、一生懸命子育てをされてこられたのだと感じました。それなのに、何故親が思い描くように、子どもは育ってはいかないのでしょうか?

そんな疑問も会が進んで行く中で、絡まっていた糸がほどけて行くように答えがみえてきました。

振り返ってみれば、私は、子育てに一生懸命になるあまりに、いつも自分を責め、目に見えない何かに縛られていました。

そんな私自身が、解放され癒されなければ、子どものありのままの姿を受け入れる事ができなかったのだと気づかされました。

この学習会の参加を機に、子どもとの関係を今一度、見直していきたいと思います。

 

中学生の母、Cさん

「豊かな人間性を培う家庭教育の推進ー『思春期』家庭の支援の在り方ー」とのタイトルのテキストを事前に頂き、どんな講義を頂けるのか、という気持ちで臨みました。
が、意外にも、参加者全員のスピーチから始まりました。自己紹介、悩んでいること。。。何をお話したらよいのでしょう。。。困りました。が、皆さんの心から出るお言葉を聞くことで自分の悩みが整理され、これまで関わって来た子育てに関し抱いていた漠然とした思いが、形になったような気がします。我が子も思春期を迎え成人していく大事な時です。今日の日本の企業社会が求めているような「よい子」というアイデンティティーではなく、本当に必要なアイデンティティーとは何なのかを模索しつつお勉強を続けていきたいと思いました。

また、我が子には国語が好きになってほしく、最近鶏鳴学園に入園させましたが、テキストにそったお勉強だけでなく、自分の持つ悩みについて生徒全員で分かち合うというお勉強もしているとのこと。今日、私が体験したように、我が子も自分のことが整理でき、他の生徒さんのことを知ることにより感想・意見をもち、それが言葉にできる。とてもよい経験をさせて頂けていると思いました。

 

高校生の母、Dさん

今回は思春期がテーマだった。原稿を読みながら自分自身のことを振り返り、また他の参加者のお話を聞くことで、自分のことを相対化して考えてみる良い機会となった。

子どもは成長につれて、行動範囲が広がり、いろいろな人と接するようになり、親の影響範囲から次第に出て行く。子どもが小さい時期、親や先生は子どもを、建て前の綺麗事の世界に閉じ込めておこうとしがちだが、子どもが思春期に入ると、現実と建て前の矛盾に敏感に気がつき、大人たちに反発したくなる。やがて踏み出していかなくてはならない大人の世界に不安を感じる難しい時期が思春期なのだと、自分の遠い過去を振り返った。子どもたちには現実社会を過度に悲観的に見ることのなく、希望をもって自分の進む道を見つけ出して欲しいと思う。

また、「母親業はもう失業」という言葉も印象に残った。親と子の関係は終わることはないが、子どもを庇護する役割としての母親業は確かにもう終わりの時期で、子どもとの新しい関係、おそらくは、大人同士の対等の関係を気づいていかなければならない時期に来ているのだということに気がついた。

 

高校生の母、Eさん

「思春期は親子関係の作り直しをする時期」という田中先生のお話が一番印象深かったです。私達親も成長する事が必要だと思いました。

また、育児の先輩ママの話を伺って、悩みはその渦中にいると先がみえなく不安になるけど、解決策がわからないなりにも向き合い続けることが大切だと私なりに感じました。

子供の事を真剣に考え悩みもがいている同士とシェアできて、孤独から少し解放され、明日も頑張ろう!と思えました。

 

高校生の母、Fさん

今日は初参加させて頂きました。みなさん悩みや問題の大小はありますが やはり子育てや自分育てに向き合っている方々や 田中先生の温かい雰囲気にいい時間を持てたと思っています。

ともあれ やはり今の社会で生きて行く私達。今を受け入れて変わっていく勇気 変えてはいけない勇気をもらえました。

 

大学生の母、Gさん

今回のテキストに、『過酷な競走社会に脅され、見捨てられる不安に駆り立てられて生きる親が、わが子を脅して「よい子」競走に駆り立てる』、また、『自分の生き方や価値観をもう一度問い直しそれを再構築していくことを迫られる時期でもある。この時期を思春期に対して思秋期と呼ばれている』とあった。どちらもまさに私のことである。子供たちは既に高校を卒業しているので、一応子育ては卒業したが、現役の時は、「よい子」を目指した子育てであった。私にとっての「よい子」とは、どのような子供であったのであろうか。また、思秋期をどのように生きていけば良いのであろうか。

私の場合、「よい子」とは一般的によく言われるような、親のいうことを聞く子供のことではない。その考え方は、自身の幼少期の経験からきている。私の母は厳しい躾をする人で、口答えや言い訳はもちろんのこと、説明をすることさえ許されなかった。母の言うことが絶対であり、自分の意思に関係なく親の言うことを聞く、私自身が「よい子」であったのである。自分が子供を育てる時には、まずは子供の意見を聞いてから物事を判断しようと決め、そして、子供にも他人の意見を聞くように伝えた。それが相手への優しさであると信じていたからである。相手の意見を聞き、誰にでも優しく接していれば、いじめなどの過酷な問題にも立ち向かえる強さが身につくと真剣に思っていたのだから、我ながら単純過ぎた。思っていた以上に幼少期の経験が大きく影響していた。私は優しさであったので子供に求めることは違ったが、結局、母と同様に「よい子」を強制してしまった。

今、思秋期になって自身の生い立ちや子育てを振り返り、やっと自分探しをしている。母の裏返しではなく、自分はどのように思うのか、ハッキリと自分の意見を持てるようになるためにこれからも学習会を続けたい。

『教育虐待・教育ネグレクト』学習会報告

古荘純一・磯崎祐介著『教育虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』(光文社新書 2015年)
2017年7月23日(日曜)

学習会終了直後に、参加者に今後の学習会テーマの希望を聞いたところ、「どうすれば食べていける子に育てられるか」という本音トークがあった。
教育の最終目標はそれだと。
「食べていける」=「生きていける」ということだろう。

しかし、今回のテキストは、その考え方で教育することが正しいのかという問題提起を含んでいる。

親や学校は、子どもに知識や学歴を身に付けさせれば「食べていける」と考えがちであり、 子どもにあれもこれも身に付けさせようとして「教育虐待」やそれに近いことが広く行われている。
しかし、そうして子どもを有名大学に押し込んでも、大学生活や就職活動で挫折する子どもが多いというのだ。
「教育虐待」とは、主に、子どもの成績や受験に関して暴力や暴言によって子どもを追い詰めるような行為である。

テキストの著者、古荘氏は、精神科医であり、青山学院大学で教鞭も取る。
「教育虐待」をたんに特殊な問題として捉えているのではない。
子どもが「食べていける」ようにと願う親や学校の教育の中に、広く、深く巣食うものとして問題提起している。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べている。

 

本書では学校における「教育虐待」にも大事な問題提起がなされているが、この文章では家庭での「教育虐待」を中心に考えたい。

 

 (1)「教育虐待」の広がり

親に叩かれたり、「死ね」などと言われたりするという話を、近年複数の中学生から聞いた。
理由は、勉強や成績である。
小学生のとき、中学受験を前に暴力を受けたという子どももいる。
両親からの場合も少なくない。
経済的には問題のない、むしろ親の教育意識の高い家庭で、この種の虐待が少なからず起こっていることを知り、この本を手に取った。
近年増加傾向にあるようだ。

子どもの能力がどこかストレートに発揮されず、自信がない場合、また体調不良や、学校での人間関係がうまくいかない場合、その裏にこうした暴力の問題が潜んでいることがある。

 

親の「教育熱心」が、思春期の子どものプライドをズタズタにする。
「教育」が虐待の理由であるのは、報道でよく耳にする、主に貧困家庭での子どもの虐待が、しばしば「しつけ」のつもりだったと弁解されるのを思い起こさせる。

また、暴力や暴言は伴わなくとも、子どもの強い管理がいつの間にか急速に進んでいると感じる。
たとえば、親が子どもに次の試験では何点取るのかと理路整然と迫り、子どもは高得点を約束せざるを得ないというようなことが起こっている。
また、結果が悪ければ叱る。
子どもが勉強していなければ親が心配になるのは当然のことだ。
しかし、様々に悩みながら自立を目指さなければならない中高生に対して、勉強や成績だけを問題にして、まるで幼い子どもでもあるかのように叱ることが、子どもを成長させるのだろうか。
子どもを別人格として尊重せず、そのプライドや自主性、また能力をも損なうものではないだろうか。

 

また、その大人の価値観や、子どもとの関係のあり方が、彼らの学校での人間関係に反映されているのではないか。
つまり、成績による序列を偏重し、相手の人格に向き合わない「教育虐待」の構造は、同じく序列を第一とするスクールカーストやいじめの構造だ。
子どもが友人との間で「親分子分関係」に甘んじているケースも少なくない。

また、親から虐待を受けた子どもが、学校でもいじめられるケースが多いと感じている。

 

(2)  「傷付けないように」の限界

古荘氏が強調するのは、思春期は精神疾患を発症しやすいピークであるという事実である。
ストレスに弱い時期の子どもが、「教育虐待」によって発病したり、またその下地がつくられたりすることに警鐘を鳴らす。
また、その精神医学的知見が教育現場に行きわたらないことに焦りを感じている。

確かに、「教育虐待」は子どもの成長に甚大なダメージをもたらす。
発達障害の原因になる場合があると主張する学者もある。

また、問題は外からは見えにくく、暴力が伴わない場合でも、子どもは長い時間をかけて深く傷ついていく。
親が子どもに勉強を押し付けるというようなわかりやすい形で問題が見えることはむしろ少ない。
子ども自身が刷り込まれた強迫観念に追い立てられて、自ら大量の勉強や通塾をこなそうとしたり、または、それができなくて追い込まれる。
自分の感情や気力を見失ってしまう様子も見られる。
古荘氏も指摘するように、親は子どものためだと思い込み、また子どもは自分自身を責める。

そういう子どもの苦しみに大人が非常に鈍いという主張にも同感だ。

 

しかし、古荘氏の、子どもを否定するよりも肯定しようという論調には疑問を感じる。
もっと率直には、子どもを「傷付けないように」という考えが底流に感じられ、しかしそれで「教育虐待」や、子育ての悩みが解決するとは思えない。
親たちは、むしろ子どもに将来問題が起きないように、傷付くことがないようにと考えて「教育虐待」に至ったり、また子どもの心配をしているのではないか。

相手が子どもに限らず、「傷付けてはいけない」というのが、今の時代の考え方の一大トレンドだが、その裏で、家庭という密室で子どもを最大限に傷付ける「教育虐待」が起こっていることをどう考えればよいのだろうか。

むしろ、私たちが他人を傷付けることを恐れ、また自分も傷付きたくなくて、他人と深く関わることができないことが問題なのではないだろうか。
子どもの将来や教育に不安を感じても、私たちは夫婦でぶつかることも、学校の問題に踏み込むことも避けがちだ。
学校も、親に対して言うべきことを言わない。
学習会の参加者の一人は、学校は保護者への情報提供などサービスに努めるようになったが、親の顔色を見ている、と感じておられた。
傷付けないことが最優先課題なら、批判などできず、疑問さえ出せない。
学校も親も一向に考えを深めることができず、子どもの教育は改善されることがない。
親は孤立し、先の見えない時代に子どもはどう生きていくのかと不安は高まる。

そのしわ寄せが、一番立場の弱い子どもに及んでいるのではないか。
他人との関係が希薄になる一方で、親子関係の一体化は一層深刻になり、そのことも虐待の一要因だろう。
表向きは何の悩みも傷付け合うこともないかのように繕われ、「プラス思考」がもてはやされる。
しかし、その大人の守りの姿勢の裏で、子どもが傷めつけられている。

 

また、古荘氏は、最近の子どもが些細なことにも傷付き易いことを示唆しているが、それは何故なのだろうか。

これについても、「傷付けてはいけない」というトレンドが、彼らをより傷付き易くしているのではないか。
傷付け、傷付くことを恐れる子どもたちは、むしろ傷付きやすくなっている。

傷付け合ってはいけないのだから、何か問題を感じても、腹を探り合うばかりで思っていることを話し合ったりできない。
教師は率直に話し合えと言うけれども、そんなことをしたら「いじめた」と責められるという子どもの声もある。
大人の守りの姿勢を、子どもが超えることは難しい。
結局、相手への違和感を言葉で伝えるのではなく、態度で示すことにもなる。
それはより子どもを傷付け、そして誰も何も学べない。

また、「傷付いた」と感じた後も、相手と話すことも、誰かに相談することもできない。
あってはならないことが起こってしまって、そう感じたら最後、その場に立ちすくむ。
そうして「傷付いた」という結果だけが蓄積されるのではないだろうか。

 

(3) 他人と深く関わって生きる

学習会で印象に残ったのは、大学生の母親である参加者が、大学入試のネット出願を全て親が行なったことを悔いる発言をしたところ、なぜそれが問題なのかという疑問の声があがったことだ。
親自身は皆、かつて大学入試の出願は自分で行ったのに、子どもは勉強で忙しく、また出願ミスをするかもしれないという。

そういうことがまったく珍しくない中で、かんたんに挫折する子どもが増えている。
何のミスもリスクもないようにと、子どもを「勉強」に閉じ込めることが、子どもを自立から遠ざけているのではないか。
親がするべきことは、子どもの「手伝い」ではない。

また、私たちは本来、問題がよくわかるようにオープンにされて、自分の問題に気付き、そうして傷付く中でしか問題を超えていけない。
にもかかわらず、まるで傷付くことを避けられるかのような考えは、問題解決の可能性を消し去ってしまう。

 

私たち大人は、「傷付けないように」という金科玉条をひっくり返し、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、大人が解決すべき問題を解決していかなければならないのではないか。
たとえば、子どもの学校に問題があれば、親は問題提起するべきだ。
部活の顧問などの体罰や暴言、いじめの問題はもちろんのこと、学校がむやみに大量の宿題を出すことや、日々の自宅学習時間を報告させるような管理にも同調していてはならないのではないか。
進学実績を上げなければ経営や運営が成り立たない学校と一体化して子どもを追い立てるのではなく、子どもの成長を真っ直ぐに追求して、学校とは一線を画すべきだ。

また、子どもにも、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、その中で自分をつくっていけるような教育を保障しなければならない。
知識や学歴をたんに足し算のようにいくら身にまとわせても、そうした力はつかない。
もっと知識を、もっと成績をと子どもを追い立てるような教育ではなく、子どもが他人との関係の中でじっくりと自分自身を見つめ、人間として成長する力を引き出す教育だ。

そうして目的を持って生きる人間として自立できれば、「食べていける」。
他者や社会と深く関わって生きていくことを目指してこそ、「食べていける」のではないか。

 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

「教育虐待・教育ネグレクト」が行われるキーワードは「代理」である。筆者は、『親自身の満たされない思いを、子どもに投影してしまう-「子どもを自分の代理にしてしまう」という行為なのです』と述べている。私達親は、それぞれの教育方針を立てて子どもを育てていくのだから、自身の過去の体験や思いが子育てに反映されることは当然であり、それ自体は悪いことでは無いと思う。

私の場合、子育ての中心にはいつも母親がいた。私の母親は厳しくしつけをする人であった。私が子供だった頃は、少しでも母親に反抗的な態度や生意気な言葉遣い(こちらの意図とは関係なく母親が生意気かどうかを決める)をすると、一週間でも二週間でも口をきいてもらえなかった。これが母親流しつけであり、ことの重大さの差異はあるであろうが、現代であれば筆者のいう「教育ネグレクト」である。許して貰えるまで何回も「ごめんなさい」と言い続けた経験から、私は子どもを叱っても無視をすることはしないようにした。他にも、相手の言葉に敏感に反応してすぐに怒り出す母親が理解出来ないまま大人になった私は、誰にでも優しく接するように子どもに伝え続けた。人に優しくして傷つけてはいけないという考えは、「教育虐待・教育ネグレクト」とは一見真逆である。

しかし、今、私は子育てを振り返り反省している。何故か。相手を傷つけないようにすることが親切であると伝え続けて、我慢をしていい子にしていることが美徳であるかのように強いて来たからである。常に母親とのことが思い出されて、子どもの意思を尊重しない子育てをした私は、結局、「満たされない思いを子どもに投影して」しまっていた。相手を傷つけないようにすることばかりを考えて、人と深く関わる機会を奪っていたのである。

では、筆者の言うとおり、「教育虐待・教育ネグレクト」の問題を、「子どもの意思を尊重する」ことや「指示をする、子どもを評価するのではなく、子どもを自由にさせて」みることで、解決することに繋がるのであろうか。そうは思わない。見守っているだけでは子どもの成長は限界があると思う。

子どもに自分の思いを投影してしまったのは、私自身自分がないからである。自身の生きる目的やテーマがはっきりとしていれば、それを子どもに示すことができたであろう。そうすれば、強いることなく子どもに考えや思いを伝えることができたのではないか。

 

高校生の母、Bさん

どの家庭でも大なり小なりの問題を抱えているのではないかと思うが、家庭の枠組みを超えてそれらの問題を共有する場が少なく、親は思春期の子どもを抱えて堂々巡りをしているケースが多いのではないか。少なくとも我が家はそうだ。この学習会に参加して、自分の心配事を話せて救いになった。夫以外の人と子育てのことを話し合えるということは、それだけでストレス解消効果が大きかった。

今回のテーマは「教育虐待」だった。教育が虐待になり得る背景には、先行き不透明な世の中で生きていくため「せめて教育だけでも」と思う親の心があると思う。親の過剰な心配が問題をこじらせるような気がする。

生きていく上で教育が必要なことは勿論だが、不透明な世の中を生きていくためには「学歴」以外のものもそれ以上に重要になる。コミュニケーション能力、ストレスをやり過ごすスキル、多様な価値観を受け入れる能力、希望を持ち続ける力等々いろいろなものが考えられるが、親にとって、子どもに良い教育を受けさせ学歴を与えることが、子どもに一番してあげやすいことなのかもしれない。幼少時からの受験産業の隆盛がこのことを示している。「学歴」以外の人間力とも云うべきものは、結局、親の生き方が問われるので、我が身を振り返ると結構辛い。子どもに向かって文句を言うことは、天に向かって唾をはくことに他ならず。今回の学習会はいろいろと反省する機会となった。

 

高校生の母、Cさん

「『教育虐待・教育ネグレクト』という大変衝撃的なタイトルでしたが、習い事や部活動、そして進学等の場面において、どの家庭でも起こりうることだと感じました。
一度立ち止まって考える。
一歩離れたところから観察する。
そんな気持ちを忘れずに子供と向き合っていきたいと思います。
学習会に参加するのは初めてでしたが、終始和やかな雰囲気の中で話も大いに弾みました。
このような学びの機会に恵まれましたことに感謝いたします。

 

中学生の母、Dさん

テキストをみんなで読み込む会の参加は人生で初めてだったので脱線しがちになってしまって失礼しました。
でも、海外での教育状況、高校、大学、就職活動での様子など色々なお話を聞くことができて、とても参考になりました。

学校で塾でと日々頑張っていて「お疲れ」の我が子は せめて家庭ではゆっくりさせてあげなければと思いはするのですが、だらけている姿とみると ついついあれこれ言ってしまいます。

成績が中から下でも、一芸に秀でていなくても、まじめに働けば人並みの生活が送れるような世の中であれば、こうも親がしゃかりきになって学歴をつけさせようとはしないかもしれません。

子育ては20年もの長い期間(場合によってはそれ以上?)続き、しかも正解がわかりません。
自分たちが育ってきた時と比べて世の中の変化が速すぎて、10年先のことも予測できないのに、子どもの将来を見据えて教育をしていくことの不安。

筆者のいう、「ありのままを受け入れる」のは、親である自分こそが「あなたの子育ては間違っていないよ、大丈夫だよ」と認めてほしいのかもしれません。

『親にできるのは「ほんの少し」ばかりのこと』学習会報告

山田太一著『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(PHP新書 2014年)
2017年5月14日(日曜)

 

今回は、参加者の一人が思春期の子どもとの切実な葛藤を話してくださったことによって、大いに学ぶことができた学習会でした。
子どもが親にあれこれと嘘をついていたことが発覚し、子どもと衝突したという経験です。

ちょうど今回のテキストで、山田太一は、子どもが嘘をつくことについて親はどう考えるべきかを語っています。

学ぶべきところはあるのですが、思春期の子どもの問題に太刀打ちするには不十分だということが、参加者のみなさんの意見を聞いていてよくわかりました。

以下、思春期の子どもの「嘘」の意味や、私たち自身の課題について、学習会を通して考えたことです。

 

(1)  思春期の子どもの「嘘」

今回は、参加者の一人、Aさんの、息子との衝突の経験に圧倒された学習会だった。
山田太一も、そのテキストを選んだ私も、その問題の前に非力だった。
あらかじめ選んであった箇所を学習会の中で音読していて、これではAさんの問題に手が届かないと思って、焦った。

Aさんの息子は、最近塾をさぼり、しかし行ったふりをして遅い時間に帰宅していた。
学校も休み、通院と薬代をでっち上げた。
先週その嘘の数々が明らかになり、もめにもめたとのこと。
本人は、母親のAさんも彼に嘘を話したことがあるとか、Aさんのプライドのために自分の成績を上げようとしているなどと批判したらしい。
Aさんはそれも一理あると、悩んでおられた。

 

今回のテキストの著者、山田太一は、子どもは「親の目の届かない暗闇をなくしてしまったら育たなくなる」と述べる。
子どもの「内面の汚れをないかのごとく思ったりしてはいけない」、「子供が汚れを持ったときに、それにとても驚いてしまうとか、厳しく排除してしまうということは、人間を知らない愚かで傲慢な所行」であり、親の側に「少し正直に自分を見る目があれば、子供に公明正大、清潔などを求めなくなる」とも。

つまり、大人が自らの悪は直視せずに、子どもの悪を責め立てては、子どもは成長しないというのだ。
そのとおりだと思う。

しかし、Aさんの子どもの嘘については、個人の内面の悪という道徳的な捉え方では、問題に迫れない。
思春期の子どもの場合、子どもがこの先どう生きていくのか、自分で生きていけるのかという、実存的、また社会的な不安が、本人にも親にもあるからだ。

そういう子どもの嘘を、どう考えればよいのだろうか。

 

(2)  分裂を経て、成長する

Aさんの息子は成長したのだ。
学習会を終えてから、そう整理できた。

勉強しなければならないとは思っているから、この英語塾はどうかと説明会を見せられると、行くと言ったのだろうが、一回行ったきりだった。
Aさんにしてみれば、彼が自分で通塾を決めたのに、なおさら納得できないとのことだった。

しかし、だから彼は嘘をつくほかなかったのではないか。
自分がその塾に行くと言ったのだけれど、それがどこまで自分の意思なのか、思春期以前の親子の意思の区別は曖昧だ。
人間の子どもは、親にたくさんのことを決めてもらい、手助けしてもらって人間に育つ以外に、育ちようがない。

ところが、そういう自分を含めた現状に、何かがおかしいと疑問を感じ始めるのが思春期である。
今回彼は、たんに勉強をさぼるために嘘をついたのではなく、混沌としながらも親の意思と自分の意思とを区別したのではないか。
もはや何とか親離れしなければ生きていけないという直観があって、もがいていて、だから嘘をついたのではないか。
自分で生まれ直さなければならないときに、親に嘘をつくかどうかが問題になるような自分自身に、無意識にも一石を投じたのではないか。

 

思春期に子どもは他者を強く意識し、自分を意識し、その対立がはっきりする。
そして、自分は他者にどう見られるのか、認められるのかと、自分を見る自分が現れてくる。
つまり、他者との間にも、また自分自身の中にも、自己確認の要求をめぐる葛藤が様々な形で始まる。
嘘や、いじめの問題が思春期にはっきりしてくるのは、子どもの成長の必然だ。

そのとき子どもは行き詰まり、立ちすくみ、いや後退しているようにさえ見えることがある。
子ども自身にも自分に何が起こっているのかわからず、親子でほとんど話し合えないことも多い。
子どもは、親を騙すことも、自分自身を騙し、誤魔化すこともできる。

しかし、その分裂だらけの混沌の中に、子ども自身が自分の人生を自分のものとして統一していく可能性もある。
親に与えてもらってきた生活や人生を、誰のせいでもない自分の人生として、分けて捉え直す可能性だ。
そのために、今回Aさんの息子は、親に何を与えてもらい、自分はどうしたいのかを分けてみたのではないか。
そうして親に嘘をついたり、反発したりする中に、じゃあ自分としては何を求めてどう生きるのかという問いが潜んでいる。
嘘をつけるような分裂の能力を持ったからこそ、自分の人生を自分でつくっていく可能性も手にしたのだ。

 

(3)  未来の目標を示せない、私たちの課題

しかし、もう一つ、時代の先が見えないという大きな問題がある。
子どもたちはこの先どんな社会で生きていき、どうすればそこでしっかりと生きていけるのだろうか。
私たち大人がその目標や夢を示せないでいる。
その目標が見えないことには、子どもの分裂を成長として認めて見守るのも難しい。

 

私の親の世代は、敗戦後の国を建て直し、生活を豊かにするという明確な目標を持って生きた。
また、自身の生活をよくすることが、そのまま社会全体を豊かにすることでもあり、個人と社会が一体の高度経済成長時代だった。

一方、私の世代以降には、そういうわかりやすく、社会全体で共有できる価値観はない。
成長は頭打ちし、私たちはその次の目標や夢をつくれないまま、労働環境は厳しくなるばかりだ。

下り坂の時代でも何とか子どもに生き残ってほしいと思う私たちは、とりあえず「いい大学」や「いい会社」、「資格」を打ち出す。
私自身を振り返って、上り坂の時代に自信を持って生きていた両親の延長線上を生きてきた。
それで社会が完全に壊れるということはなかったからか、家庭でも学校でも、その当時の価値が今も圧倒的に優勢だ。

 

しかし、子どもがこのあとの50年、100年を、その価値観で幸せに生きていけるという確信が、私たちにある訳でもない。

子どもたちも、それで本当に何とかなるのか、今の学校もうまくいっていないよと、様々な問題という形で、私たちのとりあえずの答えに疑問を投げかけている。
勉強も部活も、その上習い事に英検、漢検等々と、とにかくたくさん頑張れという根性論が以前以上に幅を利かせ、しかし先は見えない。
下り坂で何とか生き残れという、未来の目標を語らないメッセージには、子どもは希望を持てない。

子どもたちの問題提起を真っ直ぐに受け止め、また私たち自身の悩みを共有して、新たなものの見方や親子関係のあり方、社会の展望をつくっていきたい。
それが、子どもに強く生きていってほしいと願う私たちにできることなのではないだろうか。

下り坂社会は問題だらけだが、上り坂社会よりも前に進んだ面もある。
たとえば、男は仕事、女は家庭という当時の男女完全分業制に代わる家庭のあり方を、私たちは探っている。
だからこそ今家庭は混乱の最中だが、子どもたちと同じく、前に進んだから分裂していて、分裂を経て前へ進もうとしている。

『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告

テキスト:竹内和雄著『スマホチルドレン対応マニュアル』(中公新書ラクレ2014年)
2017年3月19日(日曜)

 

3月の学習会では、昨年12月に引き続き、再びスマホ問題を取り上げました。
今回も、参加された鶏鳴学園の生徒の保護者の方から、子どものスマホの使い過ぎや、ラインでの友人関係の問題など、様々な悩みが出されました。

中高生の間はスマホは持たせないというのも一つの対策ですが、大学生になってスマホ依存に陥っても困ります。

 

今回はその具体策を考えました。

いつから子どもにスマホを持たせるのか、持たせないのか、ネット犯罪やトラブル、スマホ依存にどう備えるのか、親に何ができるのか。
その具体策です。

 

以下、一つの案として、参考になさってください。

また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

 

子ども自身に安全対策や使い方の案を出させよう

 

子どものスマホ問題について肝心なのは、フィルタリング方法などよりも、子ども自身のトラブル対処の意識の問題です。
その主体的な意識を高められなければ、親が何をしようがスマホ依存もネット犯罪も防げません。
子どもといたずらにもめるばかりで、そのいたちごっこにへとへとになるばかりです。

しかし、子どもが意識を高めるために、参考になりそうな資料はなかなかありません。
今回のテキストも、子どもたちのリアル社会の問題をベースとしてスマホ問題を論じ、また最近のネット犯罪などをわかりやすくまとめている点ではよいのです。
しかし、対策案は「大人の常識を普段から教えよう」、「子どもの言い分をしっかり聞いてあげよう」といった、思春期や自立といった視点の無いものです。

親子で交わす「使用ルール」も、他の本やネット情報と同様、利用時間や場所、禁止事項を並べたお決まりのパターンです。
たとえば、「夜9時~朝6時は電源を切る」、「夜9時に居間の充電器に置く」、「自分の個室では使わない」等々。

思春期、反抗期の子どもに対して、こういうルールが有効に機能するはずがありません。

親や教師が何を言おうが、本人自身の意志がなければ本気では動けなくなるのが思春期です。
この大事な成長に後戻りはないのですから、子どもが自分で本気で考え、自分の人生を生きようとする、自立に向けて、試行錯誤を重ねるしかありません。
そんなことがすぐには実現しないということ、しかし目標は見失わないという二つの覚悟が必要でしょう。

 

そこで、スマホ問題の結論として、子ども自身にスマホ問題を調査、学習させ、安全対策、使い方、契約形態などの案を出させた上で、親子で話し合うのがよいと考えました。
使用時間についても、子どもの案に対して親は意見を述べ、しかし強制や管理はできません。
その前提の上で買い与えるのかどうかを判断し、見守る覚悟が必要です。

問題は、そもそも親子での話し合い自体がムズカシイことでしょう。

しかし、失敗しながらも、お互いに冷静に話し合おうとしていくことが、子どもの自立に向けた歩みになると思います。
料金のことなど親が最終決定権を持つ事項はきちんと示した上で、対等に話し合っていく試みです。

スマホ問題も、親が子どもを管理する形から、子どもの自立へとシフトしていくための、親子双方の試練であり、またチャンスなのではないでしょうか。

 

以下、具体策の考え方、進め方をまとめてみました。
一つのたたき台として、参考にしてください。


目標
  1. 子どもの安全(ネット犯罪、トラブル、依存対策など)。
  2. この問題を通して、子どもの自立を図ること。
 対策

(1)親自身がこの問題について学習し、方針と覚悟を固める。

①いつから使わせ、どう使わせたいのか。

  • 子どもがスマホ問題について自分で調査、学習できるようになってから、携帯またはスマホを使わせることを検討する。おそらく中学生以上。小学生はキッズ携帯。
  • 子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態、料金等についての案をもとに、親子で話し合い、合意すれば持たせる。

②安全対策と教育、そしてトラブル対処をどう行うのか。

  • 子どもがスマホやアプリの仕組み、ネット犯罪や依存の現状についてのテキストを選んで学び、対策案を出す。親も学習した上で話し合い、必要なら補足する。
  • フィルタリングは犯罪対策として年齢に応じてかける。Wi-Fi対応やアプリ制限も。(携帯ゲーム機、iPad、音楽プレーヤー等も対策が必要)
  • トラブルが起こることを想定し、その際は親に相談するように伝え、かつ学校や児童相談所、警察、子どもの人権110番、その他の相談機関への連絡方法も伝える。

 

(2)子どもと話し合う

①親として、子どもが中高生時代をどう生きてほしいのか、何を望むのか伝える。(できれば、子どもが調査、学習、立案する前提として、前もって伝える)

  • 「自分づくり」をしっかりやってほしい。どのように生きていきたいのか、大学で何を勉強したいのか、夢をつくっていくことを望む。

 

②子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態案をもとに話し合う。

  • 子どもの安全対策とその意識を確認し、また高める。
  • 以下についても話し合うが、最終決定権は親が持つことをきちんと示す。
    *親の名義で契約し、それを子どもに貸与する形にする。
    *契約形態と月々の料金の上限を定め、超過分は子どもが小遣いから支払う。課金の制限、または禁止。
    *個人情報入力やアプリのダウンロードの制限、フィルタリング。
  • 使用時間や場所についても意見交換するが、中高生に対してそれを逐一管理することはできないし、するべきではない。
  • 子どもの意識や親子関係の状態をもとに使わせるかどうかを判断し、使わせた後は、基本的にはゆったりと見守る覚悟を持つ。

③使わせる場合は(1)②はすべて実行し、使い始めてからも必要に応じて話し合い、またトラブルに対処する。


 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

それぞれの家族にそれぞれのスマホに対するルールがあるであろう。
ガラ携から当たり前のようにスマホに買い換えた我が家の場合、大したルールも無くこれまでの暗黙の了解が通用すると思っていた。
しかし、子供たちはもはや、スマホは電話の機能以外の使い方しかしていない。
時間があればLINEやSNSをして、インターネットとにらめっこをしている時に何を言っても聞く耳を持たない。
違う時間の過ごし方をしてくれないものかとやきもきするが、子供たち自身がどう過ごしたいのか、自分たちは何を求めているのかを考えて具体的に自立に向けて実行していくしかない。

親が時間を管理しようとする前に、もっと話し合っておくべきであった。
例えば、料金やトラブル対策等についてである。何も話し合っていない、何も調べていない、何も考えていない。
反省すべき点は、スマホとの付き合い方ではなく、私たち親子の関係、また、私の生き方そのものであった。

 

高校生の母、Bさん

スマホにまつわる悩みついては、子供の成長とともに少しずつその内容は変化しながらも、常に漠然と頭の中に存在してきました。
今回、テキストを読み、いろいろな意見や体験などを聞き、自分の考えを言葉にすることによって、この問題への向き合い方が少し整理されたような気がします。

皆さんとの話し合いを通して改めて感じたことは、子供たちの抱える真の問題は別のところにあり、それらがスマホを通して浮かび上がっているに過ぎないということです。
依存を防ぐために時間や場所を決め、フィルタリングをしたとしても、それらは対処療法に過ぎず、結局のところ、それらの問題に向き合うこと無しに本当の解決への道筋は見えないのだと思いました。

大学が研究から社会人教育の場へと変化する中、その余波が高校、中学、小学校にまでも及び、親が感じる不安やプレッシャーが子供の時間や自信を奪っているのかもしれません。
その逃げ場として、深夜のゲームやLINEが機能している側面もあるのではないでしょうか。
スマホに溺れず、ツールとして自在に使いこなせる強さを育てるためにどうすれば良いのか、これからも試行錯誤を重ねて行きたいと思います。

 

高校生の母、Cさん

高校生男子の親として、学校の保護者会でもママ友との会話でも頻繁に話題に上がるスマホ。
私も頭を痛めていたのだが、この問題を取り上げた本があることも知らなかったし、当然ここまで考察されたものを読んだことはなかった。
私はスマホやネットを、これからの時代なしでは生きていかれないものである一方で、ついつい依存してしまう危険があり、勉強時間が確保できなくなるリスクがあるもの、と思っていた。
正直、自分自身の学生時代にはスマホはおろかネットすらなかったので、この問題をどのように考えたら良いのかという視座もなかった。

今回学習会で、この本を読んで、学習会で参加者の皆さんとお話をして気がついたことは次の二つだった。

  1. 今の子どもたちは、リアルで知っている人たちとの対面でのコミュニケーション、電話でのコミュニケーション、文章でのコミュニケーション、という段階を十分に踏むことなく、未成熟な年齢で世界中と繋がっているとも言えるネット上のSNSの世界にデビューしてしまう。
  2. 思春期は、友達から自分がどう見られているか、友達との関係性に過敏になる時期であるので、LINEなど友達とのSNSは子どもの生活に大人が想像できないほど大きな影響力を持つ。

いずれもとても難しい問題だが、このような状況に子どもたちが置かれているという点についての理解がなければ、子どもと話し合うことは難しいだろう。
そして、今回の学習会で改めて気づいたことは子育ての最終目標は「子どもの自立」だということ。
スマホ問題も、勉強時間の確保という視点だけではなく、最終的には、スマホやネットとの付き合い方を自分で考えて自律できる大人になるという視点から考えることが大切だ。
スマホとの付き合い方は私自身難しい。
でも、学習会に参加して2時間以上たっぷりと皆さんとお話できて、新しい視座を発見できて少し気が楽になった。