『「個性」を煽られる子どもたち』学習会報告

『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット2004年)学習会
(2016年10月30日(日曜))

10月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者の方と、卒塾生の保護者、および卒塾生が参加されました。
休憩時間中もお話し合いが絶えず、ひとりで悩むことの多い子育ての問題について、他の保護者と話し合えてよかった、気が楽になったとの声もありました。

また、参加者の方から、学習会の感想として、「個性」とは結局何なのかという戸惑いの声と共に、それぞれの答えが寄せられました。

今回、「個性」という難しいテーマが焦点になりましたが、みなさんの関心の高さに背中を押されました。
子どもたちももちろん悩んでいますが、それがはっきりするまでに相当時間がかかるのに対して、私たち大人はすでにいろいろな問題意識がコップ一杯になってあふれていると感じました。
そのことに十分応えられるように、より一層よく話し合えて、学び合える学習会にしていきたいと思います。

以下に、学習会を終えての私の感想、特に個性についての考えを掲載します。
また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

問題意識こそ、個性
1. 友人関係の息苦しさ

今の多くの子どもたちの友人関係は、とても息苦しいもののようだ。
その状況を知る入門書として、本書を取り上げた。
参加者の一人は、初めてその状況が少しわかって、以前子どもに、その友人関係について的外れなことを話したと振り返った。
時代の変化は早く、私たち大人が今の子どもたちのことを理解するのは難しい。

土井氏は、彼らの「友だち関係の重さ」や「優しい関係」、その息苦しさを的確に指摘する。
また、特殊な事件の根底にある、広く一般の子どもたちに共通する問題が、調査に基づいてわかりやすく説明されている。

2. 生きる目標や指針がない

ただし、本書には問題解決の展望がない。

子どもたちの「親密圏の重さ、公共圏の軽さ」という現象を現象のまま捉えたのでは不十分であり、その本質は、「親密圏」、「公共圏」を問わず、あらゆる人間関係の「軽さ」、「他者の不在」である。

また、それは子どもたちだけの問題ではなく、大人社会の同じ問題の反映でしかない。
たとえば、現在保護者と学校は、学校や家庭の問題について十分に話し合えるような状況にはなく、同じく、子どもたちどうしも互いの対立やトラブルが表立たないように気を遣い合って、深くは関わり合わない。

それでも、人間は本来他者との関係の中でしか自分を展開できず、大人も子どもも手近な親密圏の人間関係に頼りがちである。
その重くて薄い関係には、問題があると同時に、潜在的には外とつながる本来の生き方への希求があるのではないか。

しかし、私たちにはまだその指針がない。

経済成長を目的に生きた祖父母や、親の、次の世代として、何を目標に生きればよいのか、私たち自身が戸惑っている。
今の社会には、皆で共有できる、わかりやすい目標はない。
たとえば、偏差値の高い学校を目指すことも、かつては社会全体の経済発展という目的を共有することでもあったが、経済発展の難しい今は、たんなるお互いの競争になりがちだ。

子どもたちもどう生きたらよいのかわからず、彼らの意識が人間関係や処世術に吸い寄せられ、その苦しみが「いじめ」やその特質としても現れているのではないか。

3. 問題意識こそ、個性

私は、土井氏の主張する、個性が「社会規範」と化しているという矛盾が問題だとは思わない。
問題は、個性のナカミだ。

また、個性が他人との比較による相対的なものだという土井氏の考えに反対だ。
「比較」は、子どもたちが自分の生き方を考え始めるために必要だが、その一契機でしかない。

彼らが「自分の感覚こそが、ともかく最優先」という状況だとも、それを個性だと本気で考えているとも思わない。
表面的な感覚を優先していたとしても、肝心な感覚は抑圧し、それをおいそれとは外に出せないのが、子どもたちの実態だ。

私の考える個性とは、他ならぬその人自身が、自分のそれまでの人生をどう理解し、この後の人生をどうつくっていきたいのかという自己理解である。
また、これからどう生きていくのかを考える中で、それまでの人生への理解を深めていく、その全体が、自己理解=個性だ。

また、それは単に自己満足的なものではなく、客観的、具体的なものでなければ、個性とは言えない。
自分は他者や社会とどう関係してきたのかを具体的に振り返り、そして今後はどう関係して生きていくのか、という客観性や具体性だ。

つまり、自分を含めた人間というものや、人間の人生を、またこの人間社会をどう理解し、どんな価値基準を持って生きるのか、その自己理解=他者理解=個性だ。

たとえば、中高生がどんな職業に就きたいのかが、個性や夢ではない。
個性や夢とは、医者になりたいという思いではなく、どんな医者になりたいのか、医者になって今の社会のどんな問題を解決したいのかという問題意識だ。

また、個性は若者だけの課題でも、夢でもない。
私たちは誰もが、自分の存在や人生は何だったのか、何なのかを死ぬまで問い続ける。
その日常生活の中での具体的な問題意識が個性であり、またそれが、自分の個性を全面展開する唯一の源だ。

現実にぶつかって心が折れる中にこれからの自分があると、自分に言い聞かせる毎日である。

田中由美子

 

◆参加者の感想より

卒塾生の保護者、Aさん

この春、高校を卒業して4月から大学生になった娘は、新しい環境で新しい友達と新しい付き合いが始まっている、はずであった。しかし、実際には、スマホを片手に以前と何も変わらない、差し障りのない言葉のやり取りをするその場しのぎのお付き合いが夜中を過ぎてもほぼ毎日続いている。

作者のいう、「優しい関係」である。

良好な関係を築くため(壊さないため)に、自分の気持ちよりもその場の空気を優先して、その時を乗り切っていく刹那的な関係は、常に気が休まらずにさぞかし疲れるであろう。

実は、親である私自身が言葉遣いに気を配り、極力波風を立てないような対人関係を目指し、「優しい関係」を築いて過ごしてきた。母親にでさえ、未だにストレートに本音や感情を表すことができずにいる。その結果、今になって、もどかしさや息苦しさが溢れ出して自分に大きくのしかかってきている。家庭論学習会に参加させていただき、少しでも何かを学びたいと思ったきっかけの一つである。

子供たちが小さい頃から、「たくさんのお友達を作って、みんなに優しくしてね。」と、伝え続けてきた子育てを振り返り、その言葉の意味を改めて深く考え、遅ればせながら親が子に与えた影響を学習会を通して考える機会をいただいた。今後、母と、そして、子供たちとどのように関わって過ごしていきたいのか。何より、子供たち自身は、本当は私とどのように付き合っていきたいと思っているのか、または、本当はどのようなことに負担を感じているのであろうか。

この、本当はどうしたいのか、本当は何をしたから辛かったのか、という心の奥底の声に素直に耳を傾けると、自分の「個性」が見えてくるのであろう。

 

生徒の保護者、Bさん

テキストについては答えが見つからずに終了したように思いましたが、私にとっては初めて皆さんとあのようにお話し合いができたことにとても意味のあった会でした。

現代の子供たちの友達関係は確かに複雑化しているように思いますが、1人1人は自分の目的を探す為に必死になっていてそれがなかなか見つからず友達との関係に固執してしまう傾向にあるのかな?と思いました。

我が家の息子達も今、自分のやるべきことが見えている時は友達とのLINEなどそれ程気にする事もなく上手く距離を置いて付き合っているように思いました。

大人も忙しくしている時は周りの人間関係をさほど気にせずにいて、時間を持て余すと余計なことまで考えてしまうように思います。

子供たち1人1人が自分のことに関心を持ってこれからのことを真剣に考えていけるような機会や場所が学校の中だけでなく、もっとたくさんあったら少しずつでも変わっていけたらなと願うばかりです。

 

生徒の保護者、Cさん

素の自分の表出・・・自分の思いを優先しストレートに発露する
装った自分の表現・・・自らの感情に加工を施して示す

本書では、この二つを対比させていましたが、私は「自分の思いを、偽ることなく 相手が理解したい、聞いてみようかな と思うような表現をする。」のが理想的だと思いました。娘がこんな風にできれば、いずれ社会に出たときに、苦労があったとしても 理解者を得て頑張れるのではないかと思っています。

自身を振り返ると 若いときは、伝えたい自分の思いがあったけれど、表現ができず 遠回りをして それでも伝わらず あきらめたり。今は経験で多少器用に、マシになったはずなのに 「自分はどうしたい?どう思う?」中身がわからなくて悩みます。

どの世代のどんな人も子どもたちの様に 自分自身を表現することは 難しく、勇気がいることだと思います。

ただ、娘が本書のように自分を偽って学生生活を送らなければならないなら 頭のどこかに本当の自分を消し去らないでおいてほしいと思いました。いつか、自分を表現できる時が来るまであきらめないでほしいです。苦しいこともあると思いますが そういうものを心に抱えながら生きていくことで、工夫をしたり、周りの人の気持ちに共感したり、想像したりできるようになるのではないかと個人的に思っているからです。

この学習会をきっかけに「個性」について、じっくり考えましたが、個性=性格なのか、個性的 と言われるちょっと人とは違った特別な何かなのか、混乱しました。はっきりとした正解がないことを深く考えるのは、普段とは違う感覚でした。

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