乾 義輝著「豊かな人間性を培う家庭教育の推進―「思春期」家庭の支援の在り方―」
2017年10月15日(日曜)
今回は、元県立法隆寺国際高等学校校長、乾 義輝氏の、思春期の親子関係についての論文を読みました。
子どもの思春期における、親自身の課題がテーマです。
学習会では、参加者の皆さんから、子どもの思春期やご自身の悩みが「問題のデパート」のように様々出されて、熱心に意見交換しました。
また、会の最後には、子どものことよりご自身のことを語る方が多かったのも、印象に残りました。
以下、学習会を終えての私の感想と、参加者の皆さんの感想を掲載します。
(1) 親の悩みと、変化
参加者から出された悩みは、たとえば、明るく活発だった子どもが、学校でのトラブル以降スマホ片手に勉強も手につかないといった悩み。
子どもとほとんど話ができない、また穏やかに話し合えないこと。
子どもの、友人や部活の顧問との関係。
大学入試を前にしての不安、大学生の息子の恋人や、将来の就職、結婚の不安等々だった。
また、親として、子離れが必要だとわかっていながら、子どもに手をかけ、心配してしまうという悩み。
ドラマ、『過保護のカホコ』で描かれた、母親の娘への過保護の様子が自分にそっくりとの反省。
また、その過保護や心配が、中学受験の「失敗」に親の責任を感じてしまったことから来ていると話した方もあった。
また、子どもの思春期を通して親自身の意識が変化したという経験も話していただいた。
明るく活発だった頃の娘に戻ってほしいという参加者の願いに対して、別の参加者から、彼女も以前は娘にキラキラした楽しいだけの世界にいてほしいと思っていたが、娘が二十歳過ぎてから「ママはきれいごとで育てようとしている」と言われたというエピソードが紹介された。
思春期の渦中にはその思いが言葉にもならず、人間関係のドロドロの中で「自分を守るだけで必死だった」とも。
その参加者は、娘は思春期にドクロの柄の服を着たりして、アタシに近付くんじゃないよと自分を守っていたのだろうと振り返った。
また、他の子どもについての見方も変化し、ああいう格好しているから悪い子どもだなどと決めつけるのではなく、思春期の不安を慮れるようになったとのことだった。
また、娘のミニスカートをとがめると、その理由を聞かれ、それに対して「『ご近所様』や『世間様』しか出せなかった、自分が無かった」と振り返った参加者もあった。
(2) 生き方の再構築
子どもの思春期には、子ども自身に課題があるだけでなく、親にも課題がある。
乾氏は、親自身の生き方や価値観、生い立ちや夫婦関係を問い直し、再構築する必要があると述べている。
また、その課題は「一人で誰の助けも借りずにやり遂げられる仕事ではない」、「同じ問題を抱える親同士の人間関係に支えられ」てこそできることであり、その中で「子どもとの関係」や「子どもへの願いや期待が組みかえられていく」と。
子育ては家庭内の孤独な仕事になりがちだが、本来は、子どもを社会に送り出すことを目的とする、社会的な「仕事」だ。
社会的な「仕事」は、社会的に、つまり他者と学び合い、相対化する中でこそ進めていけるものだと思う。
また、乾氏が、親自身の生き方や人間関係の再構築を「仕事」と表現しているのを読んで、それが「仕事」だと再認識した。
つまり、子どもの生活を支え、教育することだけが子育てではなく、親自身の生き方や考え方をつくり直していくことも、「仕事」だ。
子どもが思春期に自分自身をつくり直さなければならないときに、実は親にも同じ課題がある。
子育ての仕上げとしてその大事な「仕事」をすることが、子育てに重きを置いた生き方から子離れへ、子育て後の人生へと進むことになるのではないだろうか。
◆参加者の感想より
中学生の母、Aさん
初めて学習会に参加させていただきました。テーマは思春期と親の関わりでしたが、他の保護者の方々のお話を聞けたのがよかったです。どなたのお話も少しずつ共感できる部分があり、教えていただくこともあり、テキストを読み進めながら先生からいただいたキーワードも心に残り、思春期の我が子に対してすこし、目線が変わりました。
テキストを前にして、思春期真っ只中の我が子が思い浮かび、カッカしてしまいましたが、感じていた自分の問題はそこではなかったことを、帰ってきてから思い出しました。
学習会でも学びましたが、思春期とは、子の課題であると同時に、親の課題でもあるということ。参加者からお話が出ましたが、親自身のトラウマであったり、この先の我が子に対してあるいは社会に対しての漠然とした不安であったり、そういったものを抱えながら、子どもの思春期をどう乗り越えてゆくか。テキストの「研究結果と考察」に書いてある、親の持つべき自信と責任とは、どのような自信と責任なのか。答えのないものかもしれないし、人それぞれなのかもしれませんが、それらをもう少し話し、知りたかったと後になって思いました。
このテーマに限らずまた、学習会に参加してみたいです。
中学生の母、Bさん
参加者の皆様のお話を伺っていますと、皆同じように悩みながら、一生懸命子育てをされてこられたのだと感じました。それなのに、何故親が思い描くように、子どもは育ってはいかないのでしょうか?
そんな疑問も会が進んで行く中で、絡まっていた糸がほどけて行くように答えがみえてきました。
振り返ってみれば、私は、子育てに一生懸命になるあまりに、いつも自分を責め、目に見えない何かに縛られていました。
そんな私自身が、解放され癒されなければ、子どものありのままの姿を受け入れる事ができなかったのだと気づかされました。
この学習会の参加を機に、子どもとの関係を今一度、見直していきたいと思います。
中学生の母、Cさん
「豊かな人間性を培う家庭教育の推進ー『思春期』家庭の支援の在り方ー」とのタイトルのテキストを事前に頂き、どんな講義を頂けるのか、という気持ちで臨みました。
が、意外にも、参加者全員のスピーチから始まりました。自己紹介、悩んでいること。。。何をお話したらよいのでしょう。。。困りました。が、皆さんの心から出るお言葉を聞くことで自分の悩みが整理され、これまで関わって来た子育てに関し抱いていた漠然とした思いが、形になったような気がします。我が子も思春期を迎え成人していく大事な時です。今日の日本の企業社会が求めているような「よい子」というアイデンティティーではなく、本当に必要なアイデンティティーとは何なのかを模索しつつお勉強を続けていきたいと思いました。
また、我が子には国語が好きになってほしく、最近鶏鳴学園に入園させましたが、テキストにそったお勉強だけでなく、自分の持つ悩みについて生徒全員で分かち合うというお勉強もしているとのこと。今日、私が体験したように、我が子も自分のことが整理でき、他の生徒さんのことを知ることにより感想・意見をもち、それが言葉にできる。とてもよい経験をさせて頂けていると思いました。
高校生の母、Dさん
今回は思春期がテーマだった。原稿を読みながら自分自身のことを振り返り、また他の参加者のお話を聞くことで、自分のことを相対化して考えてみる良い機会となった。
子どもは成長につれて、行動範囲が広がり、いろいろな人と接するようになり、親の影響範囲から次第に出て行く。子どもが小さい時期、親や先生は子どもを、建て前の綺麗事の世界に閉じ込めておこうとしがちだが、子どもが思春期に入ると、現実と建て前の矛盾に敏感に気がつき、大人たちに反発したくなる。やがて踏み出していかなくてはならない大人の世界に不安を感じる難しい時期が思春期なのだと、自分の遠い過去を振り返った。子どもたちには現実社会を過度に悲観的に見ることのなく、希望をもって自分の進む道を見つけ出して欲しいと思う。
また、「母親業はもう失業」という言葉も印象に残った。親と子の関係は終わることはないが、子どもを庇護する役割としての母親業は確かにもう終わりの時期で、子どもとの新しい関係、おそらくは、大人同士の対等の関係を気づいていかなければならない時期に来ているのだということに気がついた。
高校生の母、Eさん
「思春期は親子関係の作り直しをする時期」という田中先生のお話が一番印象深かったです。私達親も成長する事が必要だと思いました。
また、育児の先輩ママの話を伺って、悩みはその渦中にいると先がみえなく不安になるけど、解決策がわからないなりにも向き合い続けることが大切だと私なりに感じました。
子供の事を真剣に考え悩みもがいている同士とシェアできて、孤独から少し解放され、明日も頑張ろう!と思えました。
高校生の母、Fさん
今日は初参加させて頂きました。みなさん悩みや問題の大小はありますが やはり子育てや自分育てに向き合っている方々や 田中先生の温かい雰囲気にいい時間を持てたと思っています。
ともあれ やはり今の社会で生きて行く私達。今を受け入れて変わっていく勇気 変えてはいけない勇気をもらえました。
大学生の母、Gさん
今回のテキストに、『過酷な競走社会に脅され、見捨てられる不安に駆り立てられて生きる親が、わが子を脅して「よい子」競走に駆り立てる』、また、『自分の生き方や価値観をもう一度問い直しそれを再構築していくことを迫られる時期でもある。この時期を思春期に対して思秋期と呼ばれている』とあった。どちらもまさに私のことである。子供たちは既に高校を卒業しているので、一応子育ては卒業したが、現役の時は、「よい子」を目指した子育てであった。私にとっての「よい子」とは、どのような子供であったのであろうか。また、思秋期をどのように生きていけば良いのであろうか。
私の場合、「よい子」とは一般的によく言われるような、親のいうことを聞く子供のことではない。その考え方は、自身の幼少期の経験からきている。私の母は厳しい躾をする人で、口答えや言い訳はもちろんのこと、説明をすることさえ許されなかった。母の言うことが絶対であり、自分の意思に関係なく親の言うことを聞く、私自身が「よい子」であったのである。自分が子供を育てる時には、まずは子供の意見を聞いてから物事を判断しようと決め、そして、子供にも他人の意見を聞くように伝えた。それが相手への優しさであると信じていたからである。相手の意見を聞き、誰にでも優しく接していれば、いじめなどの過酷な問題にも立ち向かえる強さが身につくと真剣に思っていたのだから、我ながら単純過ぎた。思っていた以上に幼少期の経験が大きく影響していた。私は優しさであったので子供に求めることは違ったが、結局、母と同様に「よい子」を強制してしまった。
今、思秋期になって自身の生い立ちや子育てを振り返り、やっと自分探しをしている。母の裏返しではなく、自分はどのように思うのか、ハッキリと自分の意見を持てるようになるためにこれからも学習会を続けたい。