日時 :2021年8月1日(日曜)13:00~15:00
テキスト:アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』(ハヤカワ文庫 2004年)
アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』をテキストに、8/1にオンライン学習会を行いました。
クリスティーと言えば推理小説ですが、この作品では殺人事件は起きません。
主に家庭での出来事や、家族の関係が描かれています。
ところが、なんとも恐いのです。
誤魔化して生きていくことの恐さでしょうか。
主人公のように生きているつもりはないものの、どこまで誤魔化さずに生きることができているのかということになると、他人ごととは思えません。
学習会の参加者からも同様の声があり、自分にも思いあたってグサグサ来たという方もありました。
他方、主人公たちが哀れだという感想や、この小説はリアルではなく、いかにも作り話だという声もありました。
読む人によって評価が大きく分かれる作品のようです。
さて、以下私(田中)の感想と、運営委員の山元さん感想を掲載します。
1.ジョーンの気付き
第二次世界大戦、開戦間近、イギリスの田舎町の中流家庭が舞台だ。
主人公のジョーンは48歳の主婦、夫は弁護士である。
一男二女の子どもたちの思春期以降、夫婦や子どもたちに様々な問題が現れていく。
しかし、ジョーンは、たとえば、彼女が蔑んでいる女性への、夫の熱い想いに、気づきたくない。
また、妻のある年配の男性との長女の熱愛に苦慮しながらも、たんに「汚らしい」関係だとしか解さない。
彼女にとっては、すべては偶然おかしなことが降ってわいただけである。
だから、問題はさらさらと流れ去って行き、「すばらしかったわ、わたしたちの人生は」と言う彼女の容姿は、歳不相応に若い。
夫との会話は常にかみ合わず、子どもからの辛辣な批判も、難しい年頃の彼らの問題だとしか考えない。
むしろ、自分の才覚と気遣いでよい家庭を築いてきたと自負している。
経済的に豊かな階層に暮らしていることに満足し切っているようだ。
ところが、バグダッドで暮らす末娘を見舞った帰り道、悪天候のため砂漠の駅で足止めになった数日間に、彼女は回想を繰り返すことになり、自らの人間性や生き方の薄っぺらさに徐々に気付いていく。
夫や子、その他の誰とも深く理解し合うことのない人生。
末娘に自殺未遂があったらしきことにも、ようやく思い至る。
そうした生き方のぞっとするような孤独と、その本質を、クリスティーは小説の最後の最後までをかけて見事に描き切っている。
2.夫、ロドニーの欺瞞
ジョーンは、早く家に帰って夫に会い、自分の悔いる思いを話したいと、はやる気持ちで汽車に乗る。
生き直そうと。
ところが、いざ帰宅したジョーンは、結局すべてを無かったことにする。
そのとき、夫、ロドニーも、無かったことにすることに、それとなく手を貸す。
妻が留守中の、心休まる「休暇」が終わったことを、残念に、また煩わしくさえ思いながらも。
また、妻がどこかいつもと違うと感じながらも。
その日、二人の会話がふとかみ合う。
夫の何気ないからかいに、彼女が表情をゆがめた。
やっとかみ合った、そのとき、ロドニーは驚きを隠して、話題を変える。
それまでも、彼は、ジョーンが他人の境遇を「かわいそうな人」と憐れむことを嫌っていながら、彼自身も、妻との話がかみ合わないとき、彼女を見やって微笑み、「かわいそうなリトル・ジョーン」とからかってきた。
妻のものの見方が表面的だからだ。
たしかに、ロドニーは、妻に比べればはるかに見識が高い。
しかし、二人の生き方に、どれほどの違いがあるだろう。
そして、小説の最後の場面でも「かわいそうなリトル・ジョーン」、「ひとりぼっちのリトル・ジョーン」。
否、私にはあなたがいるわと言って駆け寄るジョーンに、「そう、ぼくがいる」と彼は応える。
しかし、彼の独白は、「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように」。
一見優し気で頼りになる夫の裏の顔にぞっとさせられるのは、それが彼の精一杯の愛情であり、また彼がどこにでもいそうな男だからである。
この二人のように、結局のところ夫婦が真剣に対立することも、高め合うこともなく、バラバラに生きているケースは少なくないように思われる。
たしかに、日常生活を生きる夫婦が互いに向き合うのは面倒なこと業であり、また、ロドニーは、子どもの問題の要所、要所では妻とかみ合わずとも話し合い、父親としての役割を果たしてきたと言える。
だから、ジョーンは薄々問題に気づいていた。
しかし、ロドニーに彼自身を超えていく気はなく、妻の気付きの芽を二人して摘み取ってしまう。
そもそも、ジョーンが何食わぬ顔で問題に蓋をしてきたのは、夫も共犯であり、彼の人間としての覚悟に欠ける弱い面を、彼は妻に託して生きさせて、彼自身の問題にはしない。
3.「自分本位」とは
ジョーンは「自分本位」ではなく、夫のことを第一に、また「子ども本位」に考えてきたのだと自画自賛する。
しかし、果たして「自分本位」がよくないことであり、「子ども本位」がよいことなのか。
その後、彼女は砂漠の駅で、自分が夫第一でも子ども第一でもなく、また、彼女自身のことも置き去りにして、向き合えないできたことに気付く。
つまり、「自分本位」でも「子ども本位」でもなかったのだ。
また、彼女は、夫が働いてきたから子どもたちに「最高」の生活や教育を与えることができたのであり、「お父さまはあなたたちのために犠牲になってくださったのよ」と子どもたちに説いてきた。
それが親の義務であり、どこの親もそういう苦労をしているのだと。
この考え方は、子育ての目標を何だと考えてのことなのか。
本来の親の使命は、子どもを、今の社会を超えていけるような、自立した一個人をして育て上げ、社会に送り出すことだ。
そのためには、親は誰かの「犠牲」になるのではなく、この社会を超えていこうとする、自立した一個人として生きるしかない。
ロドニーが、第一子が生まれた頃に農場経営への転職を思い留まったのは、子どもの「犠牲」になったのだろうか。
妻の反対が理由だろうか。
彼は後々、その時の妻の反対を持ち出しては、冗談めかしてなじっているが、彼に本気で農場経営をする覚悟などあっただろうか。
彼には国の農業政策に問題があるという認識があり、弁護士の知識まで持っているにもかかわらず、問題を多少とも解決して、農業を成り立たせていこうという覚悟は無かった。
だから、生活も成り立たないような農業は選べなかったという彼自身の問題だ。
妻と同様の価値観で、代々の弁護士業という階層に留まる方を選んだだけだ。
なのに、彼が子どもや妻の「犠牲」になったと考えるなら、それは二重、三重の嘘である。
クリスティーは、そういうごく普通の人の、どこにでもある嘘やごまかしを浮かび上がらせている。
「自分本位」とは、たとえば、農業経営に憧れるから選ぶというようなことではなく、その農業経営が成り立つような社会をつくるという自分のテーマ、その闘いを生きることなのではないか。
運営委員、山元さんの感想
山元比呂子
自分だけだったら、まずこの本は読まないし、読んだとしても1回読んだだけで打ち捨てていたと思う。
読書会で取り上げられたために、2回目を読んで、参加者の皆様とお話ができて、結果、新たな発見があった。
1回目はジョーンの描写を中心に読み進んだ。
「最後まで自分の作り上げた虚構を信じたまま死ねればよかったのにね。なまじ途中で気がつくことはなかったんじゃない? 周りの人もジョーンにあれこれ言うのは余計なお世話でしょ。」というだけの感想だった。
で、大して感銘は受けなかった。
でも、2回目を読んでみてジョーンズ以外の脇役のブランチ、レスリー、サーシャ、校長先生などの描写を丁寧に読んでみると、いろいろ面白いことが書いてあるのに気が付いた。
私はこの本のテーマは、「情熱と分別」だと思う。
ジョーンのように分別ばかりの人生は虚しいものになるし、情熱を追い続けると、現実世界ではいろいろな困難に出くわす。
結局、どっちを取るかはその人次第。人それぞれに分別と情熱の折り合いをつけながら生きていくしかない。
人生を豊かにするのは情熱だし、社会に適合し自分の身を守るのは分別。
この小説は、世の中の多くの分別だけを信じて生きている人たちに対するアガサクリスティの痛烈な批判だと思う。