カテゴリー別アーカイブ: 学習会の報告

『苦海浄土』学習会報告

石牟礼道子著『苦海浄土』(講談社文庫)
2018年12月15日(日曜)14:00~16:00

 

これまでの学習会では、直接子育てや思春期がテーマでしたが、はじめて社会問題に関するテキストを取り上げました。

子どもをどういう大人へと育て上げたいのかを考えるとき、私たちが今どういう時代に生きていて、この先どこを目指すのかということが土台になります。
だから、水俣病問題が何だったのかを深く問う『苦海浄土』を、ぜひこの学習会で読みたいと思いました。

60年以上も前に始まった水俣病問題は、たんに加害企業が悪いというような問題ではなく、行政も真っ当に対処できませんでした。
また、地域で壮絶な差別がありました。
その問題が今も私たちの日々の生活、生き方の中に根強く残っています。
学校でのいじめや差別意識、そして福島原発事故がそれを証明していると思います。

 

また、子育ては突き詰めれば、親自身がどう生きるのかという問題以外のなにものでもありません。
石牟礼の生き方から学びたいと思ったのも、このテキストを取り上げた理由です。

 

以下に、当日配布したレジュメの一部を掲載し、その後に私の感想や問題提起、そして最後に参加者の感想を掲載します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<学習会当日配布のレジュメより>
I        本書の全体の構成

(1)背景:水俣病問題の発生から、漁民たちの怒りの暴発まで   (1953-59)
一章:個人 ―患者や家族、地域の人や医者―
二章:社会 ―漁民たちvsチッソ、行政などの政治的動き―

(2)山:当事者の語り
三章:女性患者の語り ―家族内の話―
四章:患者家族の「家長」(男性)の語り  ―社会的な話―

(3)その後の運動:問題の進展、深まり ―患者、漁民、市民の運動、組織―(1956-68)
五章:マスコミや市民、行政や医学など外部と、患者互助会結成という内部の動き
六章:石牟礼の人生                           七章: 「水俣病対策市民会議」結成

II       『苦海浄土』の本質

(1)『苦海浄土』は、たんに水俣病問題を告発するためのルポルタージュではなく、公害とは何か、人間とは何か、その本質を深く問う文学である。

漁村に多数の患者や死者が出ても、水俣病問題への対応は遅れに遅れたが、本書によって、ようやく全国に広く知られた。

しかし、本書はたんに加害企業であるチッソを糾弾するものではなく、むしろ、加害企業であるチッソが貧しい時代の人々の希望であったことも描き出す、客観性と全体性、公平性が担保されている。

(2)本書の山は、患者や家族の魂の声を代弁する三・四章の語りであり、詩である。

病のために発語の難しい患者に代わって、また、病ゆえに地域で差別され、孤立した患者家族に代わって、その思いが、抑圧から解き放たれるように生き生きと語られる。

病による悲しみや不安だけではなく、かつて自分の手足で働き、生きていた喜びと誇りが豊かに表現されている。

彼らの内面の葛藤に深く迫り、その語りは、ものごとの本質が突き詰められ、表現された詩である。

(3)随所に医学や行政の原資料が差しはさまれている。

石牟礼が、患者や家族に一体化し、代わって語るだけではなく、その一体化を壊して、彼らを突き放し、相対化するかのようである。

そうして問題との一体化と対象化を行き来することによって、水俣病問題がどういう問題であるのかを、静かに深く問うている。

III      石牟礼道子の本質

(1)水俣病問題が起こった時代に、その水俣で生きる一人の人間、家庭を持つ一女性として、水俣病問題を「見とどける」ことを使命とした文学者である。

チッソの企業城下町だった水俣で、長年捨て置かれた患者や家族に当初から寄り添い、とりつかれたように筆を執った。

代用教員としての軍国主義教育や、敗戦後は一転して教科書に墨を塗るというような誤魔化し等々、様々な問題に疑問を抱いていた彼女は、水俣病患者たちと出会ったとき、自らの使命を見定めたようである。

「患者さんたちにつかまっていったとしか言いようがない」と語っている。

水俣病問題に向き合うことが、彼女が生きる意味であり、その中で彼女の人生の意味を深め、成長していくことによって、その使命を全うした。

つまり、「自分とは何か」をさいごまで追求し続けた人である。
※『苦海浄土』の副題は、「わが水俣病」

(2)患者を支える市民運動や、研究会に尽力し、患者や家族のチッソ本社前の座り込みなどにも同行した。

(3)殊に女性がそういった仕事をすることに多くのあつれきがありながらも、全うし、彼女の仕事には、女性の一生活者としての視点が貫かれている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<感想、および問題提起>
1.公害問題の意味

公害問題は、人間の歴史の中で、自然と人間の関係が逆転したことを知らしめた。

つまり、近代の工業化、生産力の急拡大で、人間の力が自然の力を上回ったのだ。
たとえば、それ以前は人間が海に何を棄てようと、広い海がそれを希釈し、浄化し、問題は起こらなかった。
ところが、人間の生産力が、自然が自ら回復する力を超えてしまった。

水俣病問題が起こったとき、その人類史上初の事態に、企業も行政も真っ当に対処できなかった。

そして、経済成長の過程で出てきた公害問題は、今も未解決である。
水俣病の加害企業、チッソが国策企業だったのと同様に、やはり実質的に国策企業である東京電力が福島原発問題を起こした。
昨今は海洋汚染によるマイクロプラスチックも問題になっている。
私たちは、自然と人間の関係が逆転した、その新たな状況に対応した人間社会をつくらなければならない。

それは根本的には、私たちの民主化、主体化の問題ではないだろうか。
人が主体的に調査、判断する能力を持ち、差別や抑圧を許さず、問題を隠ぺいしないような能力と制度を持たなければならない。
それは、たとえば学校でのいじめ問題に対しても求められる普遍的な課題である。

水俣病問題は、甚大な被害の一方で、患者や家族、また石牟礼たち市民が運動して裁判で勝訴を勝ち取った、民主化への一つの動きだった。
そのことを、私たちは受け継がなければならない。

2.高度経済成長時代から、私たちは発展しているか

高度経済成長時代は、戦中戦後、またそれ以前からの貧困の解決がテーマだった。
満足に食べられない、娘を売らなければならないといった状況の克服だ。

そして、それは達成された。
ここ二十年以上経済が停滞しているとはいえ、絶対的には裕福になり、食糧は国全体としては足りている。
福祉もある程度整えられた。

ところが、私たちの生き方は根本的には発展していないのではないか。

つまり、満足に食べられるようにという目標が達成されたのに、まだ同じところで汲々としているのではないか。
将来が見通せない今、何とか今の豊かさや階層を維持したいという守りの姿勢には、経済成長時代にはなかった悲壮感すらある。
中高生たちは夢を持てず、その自己の希薄さが、表面的な、また余裕のない人間関係に反映されている。
私たち大人がそのように生きていることの結果である。

本来は、食べていくためだけではなく、人間としてどう生きるのかを追求できるのが今の時代ではないか。
そのために私の親の世代は経済成長を成し遂げたのではなかったか。
人間は、食べて命をつなぐという動物と同様のテーマだけではなく、自分の一生をどう生きるのかという、人間としてのテーマを問わずにはいられない。
自分は何者なのか、何のために生きるのか。
どういう仕事をして死にたいのか。

それを存分に追求する生き方へと発展するところにだけ希望があり、それが私たちの使命なのではないか。

3.女性の自立は進んでいるか

高度経済成長時代、多くの家庭で夫婦は仕事と家庭に完全分業していた。
私の親の世代に、夫は仕事で不在がちで、子育ては妻に任せきりという家庭のパターンは実に多い。
家庭での問題に夫婦が共に取り組んでいく中でも、それぞれの人格を築いていくのではなく、個々バラバラなまま、暗黙の了解の内に「共依存」していたのではないか。

それに対して、現在は女性の社会進出が進み、また「個性」の時代と言われるが、果たして女性の自立は進んでいるのだろうか。
女性が自立できるかどうかは、そのまま男性や子どもの自立の問題と一つながりである。

自立するとは、前節で述べた、何のためにどう生きるのかを存分に追求し、自分の人生のテーマや夢を持って生きる生き方だと思う。

石牟礼はそれをやり遂げた女性である。
彼女のような文学の才能が誰にもある訳ではない。
でも、私たちは今の時代の問題の一つに取り組むことはできる。
その中でそれに必要な能力は獲得されていくと信じたい。
石牟礼も、水俣病問題という大きな問題に取り組む中で、度々自分自身を超えていったにちがいない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<学習会参加者の感想>

大学生の母 Aさん
『苦海浄土』は、水俣市に住む一人の女性が水俣病問題の実態に迫ることだけを目的に書かれた本ではない。筆者は、医師でもなく、ジャーナリストでもない。また、彼女自身や彼女の家族も水俣病患者ではないため、命が壊され脅かされていく中で、追い詰められてペンを執ったり、「水俣病対策市民会議」を立ち上げたりしたのでもない。では、水俣病問題に人生をかけて向き合った筆者を強く突き動かしたものは何であったのだろうか。

本書に、水俣病特別病棟に初めて訪れた「わたくし」が、漁師だった患者、釜鶴松と一方的な出会いをした時の様子が書かれている。一方的とあるのは、鶴松は、「まさに死につつある人々の中にまじって」、「まさに死なんとして」いた状態だったからである。その「彼がそなえているその尊厳さ」を目前にして、「これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられ」たとある。さらに、「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがた」く、鶴松の「決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」と書かれている。筆者自らが水俣病患者として、壮絶な苦しみ、無念さ、せつなさや戸惑いを訴えることはできないが、患者に代わって記録を残す使命をこの時から背負ったのである。しかし、患者の力になりたいという思いだけでは、水俣病という底知れぬ大きな問題に、筆者の一生をかけて向き合うことはできなかったと思う。

学習会のレジュメに、『苦海浄土』の本質の1つに、「問題との一体化、対象化を行き来することによって、水俣病問題がどういう問題であるのかを、静かに深く問うている」とあった。まさに、時代の狭間で、また、矛盾や問題の狭間で、「行き来」して苦しんだのが筆者の人生だったのではないか。高度経済成長を遂げた時代に、利便性を追求して生活は豊かになったが、一方で壊された自然や犠牲になった人々がいる現実、季節ごとに移ろう自然の恵みを受けて暮らす漁師の「栄華」と、他方で貧困や水俣病患者への差別に苦しむ人々。筆者は、急速に変わっていくこの時代や女性差別が色濃く残る社会の思想の狭間に立たされて、常に矛盾や問題を強く感じながらも、妻として母として、また、嫁として生活をしていかなくてはならない現実と「行き来」していた。この「自分とは何か」という、人間の本質を問う深い問題意識を自分で解決していかなくては、彼女自身が生きていけなかったのではないかと思う。

高度経済成長の時代はとうに終わっているが、矛盾や問題は山積みである。いまだに、女性であるという理由で、医大の入学基準が変わり、不利になる歪んだ社会に生きている。そして、その問題が大きくなればなるほど、隠し誤魔化したくなる私たちがいる。自分自身を振り返ると、私は家庭内の矛盾や問題から目を背けてきた。特に、私と子供、私と母、私と姉、私と夫の共依存関係の問題は、子供の今後の人生にも私自身の人生にも関わる大きな問題だが、だからこそ、この関係性を断ち切れずに、これまで誤魔化し逃げ続けてきたのだから、国やチッソのとった態度と同じである。私が自立できていなかった問題に対して、その「おかしさ」と向き合う問題意識が弱く浅かった。

この本の自然描写や人間の本質を捉えた文章は胸を打つ。美しい自然と壊れていく自然、希望と絶望、生と死、成長と退行、平等と差別など、たくさんの狭間で「行き来」しながら苦しみ、問題意識を深めた筆者そのものである。

高校生の父 Bさん
ここ数年の間に、映像を通じたコミュニケーションが急激に広がっている。写真がすべてを伝えるような、若者間の情報のやり取りにある種の危機感を感じる。写真は、事実を写している。しかし、事実のすべてを写していない。写真は人間の五感のうち視覚にしか訴えていない。だから必然的に、視覚に過度に依存するコミュニケーションが活発になる。

文字は不自由なものだ。ただそれを見ただけでは、人間の感覚の何をも刺激をしない。しかし、それを読むことにより、脳がその状況を想像し五感を駆り立てる。その素晴らしさを、時間を取って感じる機会を、若者のみでなく親世代も意識的に持つ必要があるのであろう。

苦海浄土は、五感を刺激する文章だ。人間の想像力の閾値を試されるものだと感じる。水俣病の壮絶な病状と対比される、日常の健康で平和な暮らし。豊かな海と工場排水に汚染された海。巨大な工場と貧しい漁村の生活。この絶対的な対比において、水俣病というものが読者の前に浮き彫りになる。

しかし、筆者の目は一方的に患者に向いているわけではない。水俣市のおかれた環境や一般市民と患者の対立を冷静な視点で見つめている。これは、単に「公害病は悪だ」という単純な視点で語れない社会の複雑さを筆者自身が意識し、その解決にもがき苦しむ姿勢の表れなのかもしれない。

筆者が示す、患者と向き合いながらも、客観的な視点を維持する姿勢は、現代のわれわれの問題解決にとって欠かせないものだと感じる。社会で生きていくためには多面的な視点を持つ必要があると言われる。しかし、人はどうやって多面的な視点を確保したらよいのか。本を読めばよいのか。しかし、読書は筆者と読者の対話に過ぎない。そういう意味で、一つの本を題材として、いろいろな視点で意見を持ち、話し合うという場は重要なものだ。サラリーマンが多忙な仕事の合間に課題図書を読破し、貴重な休日の昼間を使って、参加する価値があるのか。私は、十分価値があると感じる。

大学生の母 Cさん
今までこの学習会では思春期をテーマとした本が選ばれることが多かったので、久しぶりの学習会でこの本が課題本と聞いて、とても意外だった。と同時に、NHK100分de名著に「苦海浄土」が取り上げられていて、気にはなりつつも、今まで見ないままにしていたことを思い出した。この学習会で課題本となったことを何かの巡り合わせと思い、まずはNHKの同番組を見た(最初から本を読むのは大変そうだったので)。

一番驚いたのは、自分がこの本、この作者の存在を今まで知らずにいたこと。この本は、普通の日本人なら、たとえ読んだことはなくても少なくとも名前だけは聞いたことがある、という範疇の本であって然るべきではないだろうか。国語の教科書の文学史のところに太字で載っていて欲しい。でも、私が中高生だった頃に習った記憶はまるでない。試しに今大学生の子どもに聞いてみても、知らないと言っていた。

環境問題を告発した本として有名なレイチェル・カーソンの「沈黙の春」に比して、「苦海浄土」が現在日本でも殆ど知られていないことの理由を考えてみる。

「沈黙の春」は遠いアメリカが舞台になっていて対岸の火事と思えるのに対し、「苦海浄土」は日本で起こったことで今も多くの被害者たちが存在しているリアルな問題である。チッソや行政の責任が裁判で問われているので、私が高校生だった当時にこの本が検定教科書で取り上げられなかった理由は想像できる。でも、それだけではなく、この本の存在を埋れさせたのは、辛くむごたらしい問題から目を背けていたい、自分が解決できる訳でもない問題を考えてどうなるのか、という私たちの意識だろう。誰もが便利で豊かな暮らしを望むが、そのような暮らしを実現するために犠牲となっているものについては考えたくない。犠牲となる弱い立場に置かれた人々、動物、植物、地球環境のことは直視したくない。自分は彼らに悪いことはしていない。

「苦海浄土」を読むと、誰もが犠牲となった人々に対して罪悪感を感じずにいられない。それが、高度成長期を経てバブル経済に入っていく過程で、日本人がこの本を埋もれさせて行った理由だろう。

読むのが辛く苦しい本だが、それでも石牟礼道子という人がこの一冊を書いてくれたことを日本人として誇りに思う。

社会人 Dさん
学習会に参加して、自分ひとりで読んだ時にはわからなかった発見があった。

一つは、ゆき女の語り部分を音読で聞いて「歌」だと感じた。黙読ではわからない。

二つめ。患者と関わり同じ水俣で暮らしていた石牟礼さんが『苦海浄土』を書いたことはリスクがあったろう、という意見から考えた。自分が身近な問題を書いて公にすることを想像した。公にすることで、それまでの人間関係が壊れて自分も孤立するかもしれない。恐い、と思った。

今から70年前に生まれた水俣病患者を巡るできごとを、水俣から遠く離れた東京で読むことができた自分からすれば、よくぞ書いてくれたと思う作品だが、書く側に身をおくと容易なことではなかったろうと想像できる。

三つめ。水俣病が生まれた高度経済成長期と比べると、公害の規制があり福祉の制度も整った現代であるのに、より良い世の中になったとは言えない、という田中さんの問題提起が心に残った。

中学生・高校生の母 Eさん
初めて学習会に参加しました。自分だけで読んでいると気づかなかった部分でも、先生の解説で読み深められました。
水俣病は戦後まもなく起こった問題ですが、現代社会にも通じる所があるなど、考えさせられる内容でした。

参加者の方々の意見を聞いて、色々な見方がある事もわかりました。

今後は忙しい事を言い訳にせず、時間を作り読書をしたいとあらためて思いました。

高校生の母 Fさん
会場でも、別の方が仰っていましたが、私も今回の学習会までは『苦海浄土』という本を知りませんでした。読み応えのある本を教えていただいたことに感謝しております。

水俣病は有名な公害病ですが、実態は想像以上でした。本の描写では、視力を失い、体を思い通りに動かせなくなっても、しっかりした意思とプライドをもって生活していらっしゃる患者の方やそのご家族の様子が生き生きと表現されています。それと併せて公的な記録も散りばめられており、水俣病問題について興味深く考える事ができます。

高1生の教材としても使われたそうですね。若い方がどんな感想をもつのか伺ってみたいです。それから、全然別の話ですが、田中先生の本にはびっしりと付箋や書き込みが‼︎そこまで読み込んだら違う発見が色々あるのではと感心しました。

仕事と育児に追われる毎日でしたが、最近ようやく読書できる時間が増えてきました。私もこれからはじっくりと読み深める時間も取っていきたいと思います。

今回の学習会はとても楽しかったです。機会がありましたら、また参加させてください。

中学生の母 Gさん
著者の石牟礼は、水俣病問題を見届けることを使命と感じ、この作品を世に送り出した。自分の目の前で起きている問題に正面から向き合い、自分が持つ力を活用し、課題を解決する著者の姿勢は、いかに生きるのかという点で大変参考になる。

水俣病の起きた時代に比べると、現代は、生活するため、ただ生きるためだけに、費やす時間やエネルギーは圧倒的に減少し、能動的に生きることが可能になったといえる。どのように生きるのか意識して過ごさないと、メディアや自分のいる環境からのみ受け取る価値を基準に生きてしまう。そこには、私自身は反映されていない。自分の人生を生きるために、著者の姿勢には、学ぶことが多い。

思春期学習会2報告 小説『エイジ』

重松 清 著 『エイジ』(新潮文庫 2004年)
2017年12月3日(日曜)

 

昨年10月の学習会に続いて、12月も「思春期」をテーマとしました。

10月に参加者の一人から、中学生の娘に以前のように明るく活発であってほしいという思いを聞いて、今回は、思春期に葛藤することこそ成長の証だと思えるようなテキストをと考え、小説、『エイジ』を選びました。
主人公の中学生、エイジのように、周りと対立し、また自分自身と葛藤するのが思春期であり、その対立や葛藤こそが大切な成長の芽だと思います。

以下、私の感想と、参加者の方の感想を掲載します。

 

思春期の対立と葛藤が成長の芽

この学習会をスタートして三年目に入り、今回初めて小説をテキストにした。
「思春期」を外側から解説している本ではなく、思春期の子どもの側から何がどんなふうに見えるのかを描いた『エイジ』を選んだ。
当時30代の小説家、重松清が中学生たちの気持ちを代弁しているのだが、リアルに描かれている。

エイジの同級生が「通り魔事件」を起こしたことによって、エイジたちの目に大人や世間の矛盾や悪がくっきりと見える。
事件をなかったことにしたいかのような教師たち、騒ぎ立てるマスコミなどに対してエイジは疑問だらけの中で、彼自身の矛盾や悪にも目覚めていく。
友人が「シカト」されることに対して態度を決めかねたり、その気もないのに女子生徒と付き合い始めたり、親にキレたりと、無様な自分に直面する。
よいことなど一つもないかのようだが、これがエイジの成長の過程だ。

 

他者に疑問を持ち、対立し、また自分自身に疑問を持ち、葛藤する。
外との分裂と、自分自身の中の分裂に足を踏み入れるのが思春期だ。
それ以前の、誰とでも仲良くできて、何にでも溌剌と取り組めるというような子どもには、もう戻れない。
むしろ、他者と対立するのが現実社会であり、その現実を自分で生きていけるような大人に向けて、一歩成長したのだ。
あれは嫌だ、これがいい、こんな人になりたいというような自分の好みや興味関心がはっきりし始める。
成長したから苦しく、しかし苦しいのはさらなる成長の芽だ。
もし、その苦しんでいる思春期の子どもに対して「以前の素直なあなたのほうがよかった」と言うなら、成長するなと言っていることになる。

一旦いくらか自分が壊れることで、親から与えられてきた生活を、自分自身の人生として捉え直し、つくり直し始められるかどうか。
中高生はその転換点に立っている。
エイジのように一時期勉強が手につかなくなるというような「一時停止」があったり、あるいは後退しているように見えることさえある。

ところが、「一時停止」や、疑問や否定、対立はよくないというのが現代のトレンドである。
ぐずぐず悩むよりも「プラス思考」、「ポジティブ」が好まれる。
とにかく大学受験まではと、葛藤には向き合えずに走り続ける子どもも多く、近年大学の学生相談室は利用者の増加が止まらず、どこもパンク状態のようだ。

子どもの思春期の対立や葛藤、「一時停止」の意味を十分に認めて、その苦しい過程を経て自立していけるように、見守り、後押ししたい。
それは、私たち自身が対立や問題に向き合って生きることによってはじめて可能なのではないか。

 

◆ 参加者の感想より

中学生の母、Aさん

今回は小説がテキストということで、専業主婦をしていた母が子育てしながらよく参加していた「読書会」なるもの、自分の仕事を持ってしまい生活とでいっぱいいっぱいの私には全く縁がなく、羨ましく思っていたので、なんだか嬉しい気持ちで出席させていただきました。主人公のエイジが、娘と同じ中学2年生というのも、興味がありました。

エイジやそのクラスメイトたち、描かれるのは男子が多いですが、みな思春期真っ只中の中学2年生、それぞれの人物の揺れる心がよく表されていたと思います。

前回の学習会で学んでから、思春期というのは、自分自身の中に、またそれだけでなくあらゆる物事や人間に二面性を見つけ、悩んでしまうことではないかと考えるようになりました。そうすると不思議なことに、反抗ばかりだと思っていた娘の言動にも納得がいくような気がしてきていました。

今回もそれは、内的二分化という言葉で先生に表していただき、どの登場人物も見事にそう揺れているのがよくわかりました。

エイジを追ってゆくと、なんだかよくわからないけれど理由がある、という思春期の言動がよくわかります。大人たちはそれを、なんだかよくわからないもの、として片づけてしまいます。しかし思い出してみれば自分もそうであったように、なんだかよくわからないけれど理由はあった、のです。そこを、大人はよく理解し忘れないようにしないとならないのではないかと、この本を読んでいて感じました。

ではそのような思春期に、親はどう関わるか、という答えは書かれていません。しかしそれも、登場人物を並べて出来事を追っていくうちに、すこし見えてくる気がしました。思春期の中学生の内面を、理解しないのは学校の先生達。理解しようとするのは、中学生の世界の外にいる、マスコミの大人。それに対して、毎日生活を共にする両親というのは、内面には直接関わらず、距離を保ってしかしそれぞれのスタンスを貫いています。子どもを理解しようと内面に立ち入って、揺れる中学生と一緒に揺れてしまったら、毎日の生活が立ち行かなくなってしまう。親というのは、もしかしたらこれでよいのでしょうか。

いまの思春期という問題には、そんなことを考えさせられた一冊でした。小説としては、それぞれの人物の心理がよく描かれているようで、最後まで興味深く読めました。

 

高校生の母、Bさん

重松清の作品はいくつか読んでいて、好きな作家だったが、エイジが課題図書となって一読してみて、率直に言って、エイジは何とも捉えようがなく、他の重松作品に比べてつまらなく感じた。

でも、子どもに、この作品は中井先生の「日本語トレーニング」でも取り上げられている本だと聞いて、少し関心を持った。

そして、学習会の場で田中先生の解説を聞いているうちに、「あぁ、そういう趣旨だったのか」と気付くことがあり、全く自分の感性が干からびてしまっていたことに気がつく有様だった。50半ばにして堂々のおばさん(夫の言葉で言うとbaba)になっていた私から見て、中学生の感性はなんと繊細なこと! 解説付きじゃなきゃ、わかんない! 私も遠い昔には同じようなことを感じていたのかなー、と言うのが率直な感想だった。

それはともかく、その後に「日本語トレーニング」にも興味がでて読んでみた。冒頭に出てくる「道徳教育でない論理トレーニングが、現実と戦う力になる」という箇所に、少し涙ぐんだ。私の悩みは、何も特別なものではない世間にはありふれた悩みだが、なんとなく説得力を感じたのだった。まだ全部は読めていないが、ちょっとずつでも読んでいこうと思った。

思春期の親子関係 学習会報告

乾  義輝著「豊かな人間性を培う家庭教育の推進―「思春期」家庭の支援の在り方―」
2017年10月15日(日曜)

 

今回は、元県立法隆寺国際高等学校校長、乾 義輝氏の、思春期の親子関係についての論文を読みました。
子どもの思春期における、親自身の課題がテーマです。

学習会では、参加者の皆さんから、子どもの思春期やご自身の悩みが「問題のデパート」のように様々出されて、熱心に意見交換しました。
また、会の最後には、子どものことよりご自身のことを語る方が多かったのも、印象に残りました。

以下、学習会を終えての私の感想と、参加者の皆さんの感想を掲載します。

 

(1)  親の悩みと、変化

参加者から出された悩みは、たとえば、明るく活発だった子どもが、学校でのトラブル以降スマホ片手に勉強も手につかないといった悩み。
子どもとほとんど話ができない、また穏やかに話し合えないこと。
子どもの、友人や部活の顧問との関係。
大学入試を前にしての不安、大学生の息子の恋人や、将来の就職、結婚の不安等々だった。

また、親として、子離れが必要だとわかっていながら、子どもに手をかけ、心配してしまうという悩み。
ドラマ、『過保護のカホコ』で描かれた、母親の娘への過保護の様子が自分にそっくりとの反省。
また、その過保護や心配が、中学受験の「失敗」に親の責任を感じてしまったことから来ていると話した方もあった。

 

また、子どもの思春期を通して親自身の意識が変化したという経験も話していただいた。
明るく活発だった頃の娘に戻ってほしいという参加者の願いに対して、別の参加者から、彼女も以前は娘にキラキラした楽しいだけの世界にいてほしいと思っていたが、娘が二十歳過ぎてから「ママはきれいごとで育てようとしている」と言われたというエピソードが紹介された。
思春期の渦中にはその思いが言葉にもならず、人間関係のドロドロの中で「自分を守るだけで必死だった」とも。
その参加者は、娘は思春期にドクロの柄の服を着たりして、アタシに近付くんじゃないよと自分を守っていたのだろうと振り返った。
また、他の子どもについての見方も変化し、ああいう格好しているから悪い子どもだなどと決めつけるのではなく、思春期の不安を慮れるようになったとのことだった。

また、娘のミニスカートをとがめると、その理由を聞かれ、それに対して「『ご近所様』や『世間様』しか出せなかった、自分が無かった」と振り返った参加者もあった。

 

(2)  生き方の再構築

子どもの思春期には、子ども自身に課題があるだけでなく、親にも課題がある。

乾氏は、親自身の生き方や価値観、生い立ちや夫婦関係を問い直し、再構築する必要があると述べている。
また、その課題は「一人で誰の助けも借りずにやり遂げられる仕事ではない」、「同じ問題を抱える親同士の人間関係に支えられ」てこそできることであり、その中で「子どもとの関係」や「子どもへの願いや期待が組みかえられていく」と。

 

子育ては家庭内の孤独な仕事になりがちだが、本来は、子どもを社会に送り出すことを目的とする、社会的な「仕事」だ。
社会的な「仕事」は、社会的に、つまり他者と学び合い、相対化する中でこそ進めていけるものだと思う。

また、乾氏が、親自身の生き方や人間関係の再構築を「仕事」と表現しているのを読んで、それが「仕事」だと再認識した。
つまり、子どもの生活を支え、教育することだけが子育てではなく、親自身の生き方や考え方をつくり直していくことも、「仕事」だ。
子どもが思春期に自分自身をつくり直さなければならないときに、実は親にも同じ課題がある。
子育ての仕上げとしてその大事な「仕事」をすることが、子育てに重きを置いた生き方から子離れへ、子育て後の人生へと進むことになるのではないだろうか。

 

◆参加者の感想より

中学生の母、Aさん

初めて学習会に参加させていただきました。テーマは思春期と親の関わりでしたが、他の保護者の方々のお話を聞けたのがよかったです。どなたのお話も少しずつ共感できる部分があり、教えていただくこともあり、テキストを読み進めながら先生からいただいたキーワードも心に残り、思春期の我が子に対してすこし、目線が変わりました。

テキストを前にして、思春期真っ只中の我が子が思い浮かび、カッカしてしまいましたが、感じていた自分の問題はそこではなかったことを、帰ってきてから思い出しました。
学習会でも学びましたが、思春期とは、子の課題であると同時に、親の課題でもあるということ。参加者からお話が出ましたが、親自身のトラウマであったり、この先の我が子に対してあるいは社会に対しての漠然とした不安であったり、そういったものを抱えながら、子どもの思春期をどう乗り越えてゆくか。テキストの「研究結果と考察」に書いてある、親の持つべき自信と責任とは、どのような自信と責任なのか。答えのないものかもしれないし、人それぞれなのかもしれませんが、それらをもう少し話し、知りたかったと後になって思いました。

このテーマに限らずまた、学習会に参加してみたいです。

 

中学生の母、Bさん

参加者の皆様のお話を伺っていますと、皆同じように悩みながら、一生懸命子育てをされてこられたのだと感じました。それなのに、何故親が思い描くように、子どもは育ってはいかないのでしょうか?

そんな疑問も会が進んで行く中で、絡まっていた糸がほどけて行くように答えがみえてきました。

振り返ってみれば、私は、子育てに一生懸命になるあまりに、いつも自分を責め、目に見えない何かに縛られていました。

そんな私自身が、解放され癒されなければ、子どものありのままの姿を受け入れる事ができなかったのだと気づかされました。

この学習会の参加を機に、子どもとの関係を今一度、見直していきたいと思います。

 

中学生の母、Cさん

「豊かな人間性を培う家庭教育の推進ー『思春期』家庭の支援の在り方ー」とのタイトルのテキストを事前に頂き、どんな講義を頂けるのか、という気持ちで臨みました。
が、意外にも、参加者全員のスピーチから始まりました。自己紹介、悩んでいること。。。何をお話したらよいのでしょう。。。困りました。が、皆さんの心から出るお言葉を聞くことで自分の悩みが整理され、これまで関わって来た子育てに関し抱いていた漠然とした思いが、形になったような気がします。我が子も思春期を迎え成人していく大事な時です。今日の日本の企業社会が求めているような「よい子」というアイデンティティーではなく、本当に必要なアイデンティティーとは何なのかを模索しつつお勉強を続けていきたいと思いました。

また、我が子には国語が好きになってほしく、最近鶏鳴学園に入園させましたが、テキストにそったお勉強だけでなく、自分の持つ悩みについて生徒全員で分かち合うというお勉強もしているとのこと。今日、私が体験したように、我が子も自分のことが整理でき、他の生徒さんのことを知ることにより感想・意見をもち、それが言葉にできる。とてもよい経験をさせて頂けていると思いました。

 

高校生の母、Dさん

今回は思春期がテーマだった。原稿を読みながら自分自身のことを振り返り、また他の参加者のお話を聞くことで、自分のことを相対化して考えてみる良い機会となった。

子どもは成長につれて、行動範囲が広がり、いろいろな人と接するようになり、親の影響範囲から次第に出て行く。子どもが小さい時期、親や先生は子どもを、建て前の綺麗事の世界に閉じ込めておこうとしがちだが、子どもが思春期に入ると、現実と建て前の矛盾に敏感に気がつき、大人たちに反発したくなる。やがて踏み出していかなくてはならない大人の世界に不安を感じる難しい時期が思春期なのだと、自分の遠い過去を振り返った。子どもたちには現実社会を過度に悲観的に見ることのなく、希望をもって自分の進む道を見つけ出して欲しいと思う。

また、「母親業はもう失業」という言葉も印象に残った。親と子の関係は終わることはないが、子どもを庇護する役割としての母親業は確かにもう終わりの時期で、子どもとの新しい関係、おそらくは、大人同士の対等の関係を気づいていかなければならない時期に来ているのだということに気がついた。

 

高校生の母、Eさん

「思春期は親子関係の作り直しをする時期」という田中先生のお話が一番印象深かったです。私達親も成長する事が必要だと思いました。

また、育児の先輩ママの話を伺って、悩みはその渦中にいると先がみえなく不安になるけど、解決策がわからないなりにも向き合い続けることが大切だと私なりに感じました。

子供の事を真剣に考え悩みもがいている同士とシェアできて、孤独から少し解放され、明日も頑張ろう!と思えました。

 

高校生の母、Fさん

今日は初参加させて頂きました。みなさん悩みや問題の大小はありますが やはり子育てや自分育てに向き合っている方々や 田中先生の温かい雰囲気にいい時間を持てたと思っています。

ともあれ やはり今の社会で生きて行く私達。今を受け入れて変わっていく勇気 変えてはいけない勇気をもらえました。

 

大学生の母、Gさん

今回のテキストに、『過酷な競走社会に脅され、見捨てられる不安に駆り立てられて生きる親が、わが子を脅して「よい子」競走に駆り立てる』、また、『自分の生き方や価値観をもう一度問い直しそれを再構築していくことを迫られる時期でもある。この時期を思春期に対して思秋期と呼ばれている』とあった。どちらもまさに私のことである。子供たちは既に高校を卒業しているので、一応子育ては卒業したが、現役の時は、「よい子」を目指した子育てであった。私にとっての「よい子」とは、どのような子供であったのであろうか。また、思秋期をどのように生きていけば良いのであろうか。

私の場合、「よい子」とは一般的によく言われるような、親のいうことを聞く子供のことではない。その考え方は、自身の幼少期の経験からきている。私の母は厳しい躾をする人で、口答えや言い訳はもちろんのこと、説明をすることさえ許されなかった。母の言うことが絶対であり、自分の意思に関係なく親の言うことを聞く、私自身が「よい子」であったのである。自分が子供を育てる時には、まずは子供の意見を聞いてから物事を判断しようと決め、そして、子供にも他人の意見を聞くように伝えた。それが相手への優しさであると信じていたからである。相手の意見を聞き、誰にでも優しく接していれば、いじめなどの過酷な問題にも立ち向かえる強さが身につくと真剣に思っていたのだから、我ながら単純過ぎた。思っていた以上に幼少期の経験が大きく影響していた。私は優しさであったので子供に求めることは違ったが、結局、母と同様に「よい子」を強制してしまった。

今、思秋期になって自身の生い立ちや子育てを振り返り、やっと自分探しをしている。母の裏返しではなく、自分はどのように思うのか、ハッキリと自分の意見を持てるようになるためにこれからも学習会を続けたい。

『教育虐待・教育ネグレクト』学習会報告

古荘純一・磯崎祐介著『教育虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』(光文社新書 2015年)
2017年7月23日(日曜)

学習会終了直後に、参加者に今後の学習会テーマの希望を聞いたところ、「どうすれば食べていける子に育てられるか」という本音トークがあった。
教育の最終目標はそれだと。
「食べていける」=「生きていける」ということだろう。

しかし、今回のテキストは、その考え方で教育することが正しいのかという問題提起を含んでいる。

親や学校は、子どもに知識や学歴を身に付けさせれば「食べていける」と考えがちであり、 子どもにあれもこれも身に付けさせようとして「教育虐待」やそれに近いことが広く行われている。
しかし、そうして子どもを有名大学に押し込んでも、大学生活や就職活動で挫折する子どもが多いというのだ。
「教育虐待」とは、主に、子どもの成績や受験に関して暴力や暴言によって子どもを追い詰めるような行為である。

テキストの著者、古荘氏は、精神科医であり、青山学院大学で教鞭も取る。
「教育虐待」をたんに特殊な問題として捉えているのではない。
子どもが「食べていける」ようにと願う親や学校の教育の中に、広く、深く巣食うものとして問題提起している。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べている。

 

本書では学校における「教育虐待」にも大事な問題提起がなされているが、この文章では家庭での「教育虐待」を中心に考えたい。

 

 (1)「教育虐待」の広がり

親に叩かれたり、「死ね」などと言われたりするという話を、近年複数の中学生から聞いた。
理由は、勉強や成績である。
小学生のとき、中学受験を前に暴力を受けたという子どももいる。
両親からの場合も少なくない。
経済的には問題のない、むしろ親の教育意識の高い家庭で、この種の虐待が少なからず起こっていることを知り、この本を手に取った。
近年増加傾向にあるようだ。

子どもの能力がどこかストレートに発揮されず、自信がない場合、また体調不良や、学校での人間関係がうまくいかない場合、その裏にこうした暴力の問題が潜んでいることがある。

 

親の「教育熱心」が、思春期の子どものプライドをズタズタにする。
「教育」が虐待の理由であるのは、報道でよく耳にする、主に貧困家庭での子どもの虐待が、しばしば「しつけ」のつもりだったと弁解されるのを思い起こさせる。

また、暴力や暴言は伴わなくとも、子どもの強い管理がいつの間にか急速に進んでいると感じる。
たとえば、親が子どもに次の試験では何点取るのかと理路整然と迫り、子どもは高得点を約束せざるを得ないというようなことが起こっている。
また、結果が悪ければ叱る。
子どもが勉強していなければ親が心配になるのは当然のことだ。
しかし、様々に悩みながら自立を目指さなければならない中高生に対して、勉強や成績だけを問題にして、まるで幼い子どもでもあるかのように叱ることが、子どもを成長させるのだろうか。
子どもを別人格として尊重せず、そのプライドや自主性、また能力をも損なうものではないだろうか。

 

また、その大人の価値観や、子どもとの関係のあり方が、彼らの学校での人間関係に反映されているのではないか。
つまり、成績による序列を偏重し、相手の人格に向き合わない「教育虐待」の構造は、同じく序列を第一とするスクールカーストやいじめの構造だ。
子どもが友人との間で「親分子分関係」に甘んじているケースも少なくない。

また、親から虐待を受けた子どもが、学校でもいじめられるケースが多いと感じている。

 

(2)  「傷付けないように」の限界

古荘氏が強調するのは、思春期は精神疾患を発症しやすいピークであるという事実である。
ストレスに弱い時期の子どもが、「教育虐待」によって発病したり、またその下地がつくられたりすることに警鐘を鳴らす。
また、その精神医学的知見が教育現場に行きわたらないことに焦りを感じている。

確かに、「教育虐待」は子どもの成長に甚大なダメージをもたらす。
発達障害の原因になる場合があると主張する学者もある。

また、問題は外からは見えにくく、暴力が伴わない場合でも、子どもは長い時間をかけて深く傷ついていく。
親が子どもに勉強を押し付けるというようなわかりやすい形で問題が見えることはむしろ少ない。
子ども自身が刷り込まれた強迫観念に追い立てられて、自ら大量の勉強や通塾をこなそうとしたり、または、それができなくて追い込まれる。
自分の感情や気力を見失ってしまう様子も見られる。
古荘氏も指摘するように、親は子どものためだと思い込み、また子どもは自分自身を責める。

そういう子どもの苦しみに大人が非常に鈍いという主張にも同感だ。

 

しかし、古荘氏の、子どもを否定するよりも肯定しようという論調には疑問を感じる。
もっと率直には、子どもを「傷付けないように」という考えが底流に感じられ、しかしそれで「教育虐待」や、子育ての悩みが解決するとは思えない。
親たちは、むしろ子どもに将来問題が起きないように、傷付くことがないようにと考えて「教育虐待」に至ったり、また子どもの心配をしているのではないか。

相手が子どもに限らず、「傷付けてはいけない」というのが、今の時代の考え方の一大トレンドだが、その裏で、家庭という密室で子どもを最大限に傷付ける「教育虐待」が起こっていることをどう考えればよいのだろうか。

むしろ、私たちが他人を傷付けることを恐れ、また自分も傷付きたくなくて、他人と深く関わることができないことが問題なのではないだろうか。
子どもの将来や教育に不安を感じても、私たちは夫婦でぶつかることも、学校の問題に踏み込むことも避けがちだ。
学校も、親に対して言うべきことを言わない。
学習会の参加者の一人は、学校は保護者への情報提供などサービスに努めるようになったが、親の顔色を見ている、と感じておられた。
傷付けないことが最優先課題なら、批判などできず、疑問さえ出せない。
学校も親も一向に考えを深めることができず、子どもの教育は改善されることがない。
親は孤立し、先の見えない時代に子どもはどう生きていくのかと不安は高まる。

そのしわ寄せが、一番立場の弱い子どもに及んでいるのではないか。
他人との関係が希薄になる一方で、親子関係の一体化は一層深刻になり、そのことも虐待の一要因だろう。
表向きは何の悩みも傷付け合うこともないかのように繕われ、「プラス思考」がもてはやされる。
しかし、その大人の守りの姿勢の裏で、子どもが傷めつけられている。

 

また、古荘氏は、最近の子どもが些細なことにも傷付き易いことを示唆しているが、それは何故なのだろうか。

これについても、「傷付けてはいけない」というトレンドが、彼らをより傷付き易くしているのではないか。
傷付け、傷付くことを恐れる子どもたちは、むしろ傷付きやすくなっている。

傷付け合ってはいけないのだから、何か問題を感じても、腹を探り合うばかりで思っていることを話し合ったりできない。
教師は率直に話し合えと言うけれども、そんなことをしたら「いじめた」と責められるという子どもの声もある。
大人の守りの姿勢を、子どもが超えることは難しい。
結局、相手への違和感を言葉で伝えるのではなく、態度で示すことにもなる。
それはより子どもを傷付け、そして誰も何も学べない。

また、「傷付いた」と感じた後も、相手と話すことも、誰かに相談することもできない。
あってはならないことが起こってしまって、そう感じたら最後、その場に立ちすくむ。
そうして「傷付いた」という結果だけが蓄積されるのではないだろうか。

 

(3) 他人と深く関わって生きる

学習会で印象に残ったのは、大学生の母親である参加者が、大学入試のネット出願を全て親が行なったことを悔いる発言をしたところ、なぜそれが問題なのかという疑問の声があがったことだ。
親自身は皆、かつて大学入試の出願は自分で行ったのに、子どもは勉強で忙しく、また出願ミスをするかもしれないという。

そういうことがまったく珍しくない中で、かんたんに挫折する子どもが増えている。
何のミスもリスクもないようにと、子どもを「勉強」に閉じ込めることが、子どもを自立から遠ざけているのではないか。
親がするべきことは、子どもの「手伝い」ではない。

また、私たちは本来、問題がよくわかるようにオープンにされて、自分の問題に気付き、そうして傷付く中でしか問題を超えていけない。
にもかかわらず、まるで傷付くことを避けられるかのような考えは、問題解決の可能性を消し去ってしまう。

 

私たち大人は、「傷付けないように」という金科玉条をひっくり返し、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、大人が解決すべき問題を解決していかなければならないのではないか。
たとえば、子どもの学校に問題があれば、親は問題提起するべきだ。
部活の顧問などの体罰や暴言、いじめの問題はもちろんのこと、学校がむやみに大量の宿題を出すことや、日々の自宅学習時間を報告させるような管理にも同調していてはならないのではないか。
進学実績を上げなければ経営や運営が成り立たない学校と一体化して子どもを追い立てるのではなく、子どもの成長を真っ直ぐに追求して、学校とは一線を画すべきだ。

また、子どもにも、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、その中で自分をつくっていけるような教育を保障しなければならない。
知識や学歴をたんに足し算のようにいくら身にまとわせても、そうした力はつかない。
もっと知識を、もっと成績をと子どもを追い立てるような教育ではなく、子どもが他人との関係の中でじっくりと自分自身を見つめ、人間として成長する力を引き出す教育だ。

そうして目的を持って生きる人間として自立できれば、「食べていける」。
他者や社会と深く関わって生きていくことを目指してこそ、「食べていける」のではないか。

 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

「教育虐待・教育ネグレクト」が行われるキーワードは「代理」である。筆者は、『親自身の満たされない思いを、子どもに投影してしまう-「子どもを自分の代理にしてしまう」という行為なのです』と述べている。私達親は、それぞれの教育方針を立てて子どもを育てていくのだから、自身の過去の体験や思いが子育てに反映されることは当然であり、それ自体は悪いことでは無いと思う。

私の場合、子育ての中心にはいつも母親がいた。私の母親は厳しくしつけをする人であった。私が子供だった頃は、少しでも母親に反抗的な態度や生意気な言葉遣い(こちらの意図とは関係なく母親が生意気かどうかを決める)をすると、一週間でも二週間でも口をきいてもらえなかった。これが母親流しつけであり、ことの重大さの差異はあるであろうが、現代であれば筆者のいう「教育ネグレクト」である。許して貰えるまで何回も「ごめんなさい」と言い続けた経験から、私は子どもを叱っても無視をすることはしないようにした。他にも、相手の言葉に敏感に反応してすぐに怒り出す母親が理解出来ないまま大人になった私は、誰にでも優しく接するように子どもに伝え続けた。人に優しくして傷つけてはいけないという考えは、「教育虐待・教育ネグレクト」とは一見真逆である。

しかし、今、私は子育てを振り返り反省している。何故か。相手を傷つけないようにすることが親切であると伝え続けて、我慢をしていい子にしていることが美徳であるかのように強いて来たからである。常に母親とのことが思い出されて、子どもの意思を尊重しない子育てをした私は、結局、「満たされない思いを子どもに投影して」しまっていた。相手を傷つけないようにすることばかりを考えて、人と深く関わる機会を奪っていたのである。

では、筆者の言うとおり、「教育虐待・教育ネグレクト」の問題を、「子どもの意思を尊重する」ことや「指示をする、子どもを評価するのではなく、子どもを自由にさせて」みることで、解決することに繋がるのであろうか。そうは思わない。見守っているだけでは子どもの成長は限界があると思う。

子どもに自分の思いを投影してしまったのは、私自身自分がないからである。自身の生きる目的やテーマがはっきりとしていれば、それを子どもに示すことができたであろう。そうすれば、強いることなく子どもに考えや思いを伝えることができたのではないか。

 

高校生の母、Bさん

どの家庭でも大なり小なりの問題を抱えているのではないかと思うが、家庭の枠組みを超えてそれらの問題を共有する場が少なく、親は思春期の子どもを抱えて堂々巡りをしているケースが多いのではないか。少なくとも我が家はそうだ。この学習会に参加して、自分の心配事を話せて救いになった。夫以外の人と子育てのことを話し合えるということは、それだけでストレス解消効果が大きかった。

今回のテーマは「教育虐待」だった。教育が虐待になり得る背景には、先行き不透明な世の中で生きていくため「せめて教育だけでも」と思う親の心があると思う。親の過剰な心配が問題をこじらせるような気がする。

生きていく上で教育が必要なことは勿論だが、不透明な世の中を生きていくためには「学歴」以外のものもそれ以上に重要になる。コミュニケーション能力、ストレスをやり過ごすスキル、多様な価値観を受け入れる能力、希望を持ち続ける力等々いろいろなものが考えられるが、親にとって、子どもに良い教育を受けさせ学歴を与えることが、子どもに一番してあげやすいことなのかもしれない。幼少時からの受験産業の隆盛がこのことを示している。「学歴」以外の人間力とも云うべきものは、結局、親の生き方が問われるので、我が身を振り返ると結構辛い。子どもに向かって文句を言うことは、天に向かって唾をはくことに他ならず。今回の学習会はいろいろと反省する機会となった。

 

高校生の母、Cさん

「『教育虐待・教育ネグレクト』という大変衝撃的なタイトルでしたが、習い事や部活動、そして進学等の場面において、どの家庭でも起こりうることだと感じました。
一度立ち止まって考える。
一歩離れたところから観察する。
そんな気持ちを忘れずに子供と向き合っていきたいと思います。
学習会に参加するのは初めてでしたが、終始和やかな雰囲気の中で話も大いに弾みました。
このような学びの機会に恵まれましたことに感謝いたします。

 

中学生の母、Dさん

テキストをみんなで読み込む会の参加は人生で初めてだったので脱線しがちになってしまって失礼しました。
でも、海外での教育状況、高校、大学、就職活動での様子など色々なお話を聞くことができて、とても参考になりました。

学校で塾でと日々頑張っていて「お疲れ」の我が子は せめて家庭ではゆっくりさせてあげなければと思いはするのですが、だらけている姿とみると ついついあれこれ言ってしまいます。

成績が中から下でも、一芸に秀でていなくても、まじめに働けば人並みの生活が送れるような世の中であれば、こうも親がしゃかりきになって学歴をつけさせようとはしないかもしれません。

子育ては20年もの長い期間(場合によってはそれ以上?)続き、しかも正解がわかりません。
自分たちが育ってきた時と比べて世の中の変化が速すぎて、10年先のことも予測できないのに、子どもの将来を見据えて教育をしていくことの不安。

筆者のいう、「ありのままを受け入れる」のは、親である自分こそが「あなたの子育ては間違っていないよ、大丈夫だよ」と認めてほしいのかもしれません。

『親にできるのは「ほんの少し」ばかりのこと』学習会報告

山田太一著『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(PHP新書 2014年)
2017年5月14日(日曜)

 

今回は、参加者の一人が思春期の子どもとの切実な葛藤を話してくださったことによって、大いに学ぶことができた学習会でした。
子どもが親にあれこれと嘘をついていたことが発覚し、子どもと衝突したという経験です。

ちょうど今回のテキストで、山田太一は、子どもが嘘をつくことについて親はどう考えるべきかを語っています。

学ぶべきところはあるのですが、思春期の子どもの問題に太刀打ちするには不十分だということが、参加者のみなさんの意見を聞いていてよくわかりました。

以下、思春期の子どもの「嘘」の意味や、私たち自身の課題について、学習会を通して考えたことです。

 

(1)  思春期の子どもの「嘘」

今回は、参加者の一人、Aさんの、息子との衝突の経験に圧倒された学習会だった。
山田太一も、そのテキストを選んだ私も、その問題の前に非力だった。
あらかじめ選んであった箇所を学習会の中で音読していて、これではAさんの問題に手が届かないと思って、焦った。

Aさんの息子は、最近塾をさぼり、しかし行ったふりをして遅い時間に帰宅していた。
学校も休み、通院と薬代をでっち上げた。
先週その嘘の数々が明らかになり、もめにもめたとのこと。
本人は、母親のAさんも彼に嘘を話したことがあるとか、Aさんのプライドのために自分の成績を上げようとしているなどと批判したらしい。
Aさんはそれも一理あると、悩んでおられた。

 

今回のテキストの著者、山田太一は、子どもは「親の目の届かない暗闇をなくしてしまったら育たなくなる」と述べる。
子どもの「内面の汚れをないかのごとく思ったりしてはいけない」、「子供が汚れを持ったときに、それにとても驚いてしまうとか、厳しく排除してしまうということは、人間を知らない愚かで傲慢な所行」であり、親の側に「少し正直に自分を見る目があれば、子供に公明正大、清潔などを求めなくなる」とも。

つまり、大人が自らの悪は直視せずに、子どもの悪を責め立てては、子どもは成長しないというのだ。
そのとおりだと思う。

しかし、Aさんの子どもの嘘については、個人の内面の悪という道徳的な捉え方では、問題に迫れない。
思春期の子どもの場合、子どもがこの先どう生きていくのか、自分で生きていけるのかという、実存的、また社会的な不安が、本人にも親にもあるからだ。

そういう子どもの嘘を、どう考えればよいのだろうか。

 

(2)  分裂を経て、成長する

Aさんの息子は成長したのだ。
学習会を終えてから、そう整理できた。

勉強しなければならないとは思っているから、この英語塾はどうかと説明会を見せられると、行くと言ったのだろうが、一回行ったきりだった。
Aさんにしてみれば、彼が自分で通塾を決めたのに、なおさら納得できないとのことだった。

しかし、だから彼は嘘をつくほかなかったのではないか。
自分がその塾に行くと言ったのだけれど、それがどこまで自分の意思なのか、思春期以前の親子の意思の区別は曖昧だ。
人間の子どもは、親にたくさんのことを決めてもらい、手助けしてもらって人間に育つ以外に、育ちようがない。

ところが、そういう自分を含めた現状に、何かがおかしいと疑問を感じ始めるのが思春期である。
今回彼は、たんに勉強をさぼるために嘘をついたのではなく、混沌としながらも親の意思と自分の意思とを区別したのではないか。
もはや何とか親離れしなければ生きていけないという直観があって、もがいていて、だから嘘をついたのではないか。
自分で生まれ直さなければならないときに、親に嘘をつくかどうかが問題になるような自分自身に、無意識にも一石を投じたのではないか。

 

思春期に子どもは他者を強く意識し、自分を意識し、その対立がはっきりする。
そして、自分は他者にどう見られるのか、認められるのかと、自分を見る自分が現れてくる。
つまり、他者との間にも、また自分自身の中にも、自己確認の要求をめぐる葛藤が様々な形で始まる。
嘘や、いじめの問題が思春期にはっきりしてくるのは、子どもの成長の必然だ。

そのとき子どもは行き詰まり、立ちすくみ、いや後退しているようにさえ見えることがある。
子ども自身にも自分に何が起こっているのかわからず、親子でほとんど話し合えないことも多い。
子どもは、親を騙すことも、自分自身を騙し、誤魔化すこともできる。

しかし、その分裂だらけの混沌の中に、子ども自身が自分の人生を自分のものとして統一していく可能性もある。
親に与えてもらってきた生活や人生を、誰のせいでもない自分の人生として、分けて捉え直す可能性だ。
そのために、今回Aさんの息子は、親に何を与えてもらい、自分はどうしたいのかを分けてみたのではないか。
そうして親に嘘をついたり、反発したりする中に、じゃあ自分としては何を求めてどう生きるのかという問いが潜んでいる。
嘘をつけるような分裂の能力を持ったからこそ、自分の人生を自分でつくっていく可能性も手にしたのだ。

 

(3)  未来の目標を示せない、私たちの課題

しかし、もう一つ、時代の先が見えないという大きな問題がある。
子どもたちはこの先どんな社会で生きていき、どうすればそこでしっかりと生きていけるのだろうか。
私たち大人がその目標や夢を示せないでいる。
その目標が見えないことには、子どもの分裂を成長として認めて見守るのも難しい。

 

私の親の世代は、敗戦後の国を建て直し、生活を豊かにするという明確な目標を持って生きた。
また、自身の生活をよくすることが、そのまま社会全体を豊かにすることでもあり、個人と社会が一体の高度経済成長時代だった。

一方、私の世代以降には、そういうわかりやすく、社会全体で共有できる価値観はない。
成長は頭打ちし、私たちはその次の目標や夢をつくれないまま、労働環境は厳しくなるばかりだ。

下り坂の時代でも何とか子どもに生き残ってほしいと思う私たちは、とりあえず「いい大学」や「いい会社」、「資格」を打ち出す。
私自身を振り返って、上り坂の時代に自信を持って生きていた両親の延長線上を生きてきた。
それで社会が完全に壊れるということはなかったからか、家庭でも学校でも、その当時の価値が今も圧倒的に優勢だ。

 

しかし、子どもがこのあとの50年、100年を、その価値観で幸せに生きていけるという確信が、私たちにある訳でもない。

子どもたちも、それで本当に何とかなるのか、今の学校もうまくいっていないよと、様々な問題という形で、私たちのとりあえずの答えに疑問を投げかけている。
勉強も部活も、その上習い事に英検、漢検等々と、とにかくたくさん頑張れという根性論が以前以上に幅を利かせ、しかし先は見えない。
下り坂で何とか生き残れという、未来の目標を語らないメッセージには、子どもは希望を持てない。

子どもたちの問題提起を真っ直ぐに受け止め、また私たち自身の悩みを共有して、新たなものの見方や親子関係のあり方、社会の展望をつくっていきたい。
それが、子どもに強く生きていってほしいと願う私たちにできることなのではないだろうか。

下り坂社会は問題だらけだが、上り坂社会よりも前に進んだ面もある。
たとえば、男は仕事、女は家庭という当時の男女完全分業制に代わる家庭のあり方を、私たちは探っている。
だからこそ今家庭は混乱の最中だが、子どもたちと同じく、前に進んだから分裂していて、分裂を経て前へ進もうとしている。

『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告

テキスト:竹内和雄著『スマホチルドレン対応マニュアル』(中公新書ラクレ2014年)
2017年3月19日(日曜)

 

3月の学習会では、昨年12月に引き続き、再びスマホ問題を取り上げました。
今回も、参加された鶏鳴学園の生徒の保護者の方から、子どものスマホの使い過ぎや、ラインでの友人関係の問題など、様々な悩みが出されました。

中高生の間はスマホは持たせないというのも一つの対策ですが、大学生になってスマホ依存に陥っても困ります。

 

今回はその具体策を考えました。

いつから子どもにスマホを持たせるのか、持たせないのか、ネット犯罪やトラブル、スマホ依存にどう備えるのか、親に何ができるのか。
その具体策です。

 

以下、一つの案として、参考になさってください。

また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

 

子ども自身に安全対策や使い方の案を出させよう

 

子どものスマホ問題について肝心なのは、フィルタリング方法などよりも、子ども自身のトラブル対処の意識の問題です。
その主体的な意識を高められなければ、親が何をしようがスマホ依存もネット犯罪も防げません。
子どもといたずらにもめるばかりで、そのいたちごっこにへとへとになるばかりです。

しかし、子どもが意識を高めるために、参考になりそうな資料はなかなかありません。
今回のテキストも、子どもたちのリアル社会の問題をベースとしてスマホ問題を論じ、また最近のネット犯罪などをわかりやすくまとめている点ではよいのです。
しかし、対策案は「大人の常識を普段から教えよう」、「子どもの言い分をしっかり聞いてあげよう」といった、思春期や自立といった視点の無いものです。

親子で交わす「使用ルール」も、他の本やネット情報と同様、利用時間や場所、禁止事項を並べたお決まりのパターンです。
たとえば、「夜9時~朝6時は電源を切る」、「夜9時に居間の充電器に置く」、「自分の個室では使わない」等々。

思春期、反抗期の子どもに対して、こういうルールが有効に機能するはずがありません。

親や教師が何を言おうが、本人自身の意志がなければ本気では動けなくなるのが思春期です。
この大事な成長に後戻りはないのですから、子どもが自分で本気で考え、自分の人生を生きようとする、自立に向けて、試行錯誤を重ねるしかありません。
そんなことがすぐには実現しないということ、しかし目標は見失わないという二つの覚悟が必要でしょう。

 

そこで、スマホ問題の結論として、子ども自身にスマホ問題を調査、学習させ、安全対策、使い方、契約形態などの案を出させた上で、親子で話し合うのがよいと考えました。
使用時間についても、子どもの案に対して親は意見を述べ、しかし強制や管理はできません。
その前提の上で買い与えるのかどうかを判断し、見守る覚悟が必要です。

問題は、そもそも親子での話し合い自体がムズカシイことでしょう。

しかし、失敗しながらも、お互いに冷静に話し合おうとしていくことが、子どもの自立に向けた歩みになると思います。
料金のことなど親が最終決定権を持つ事項はきちんと示した上で、対等に話し合っていく試みです。

スマホ問題も、親が子どもを管理する形から、子どもの自立へとシフトしていくための、親子双方の試練であり、またチャンスなのではないでしょうか。

 

以下、具体策の考え方、進め方をまとめてみました。
一つのたたき台として、参考にしてください。


目標
  1. 子どもの安全(ネット犯罪、トラブル、依存対策など)。
  2. この問題を通して、子どもの自立を図ること。
 対策

(1)親自身がこの問題について学習し、方針と覚悟を固める。

①いつから使わせ、どう使わせたいのか。

  • 子どもがスマホ問題について自分で調査、学習できるようになってから、携帯またはスマホを使わせることを検討する。おそらく中学生以上。小学生はキッズ携帯。
  • 子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態、料金等についての案をもとに、親子で話し合い、合意すれば持たせる。

②安全対策と教育、そしてトラブル対処をどう行うのか。

  • 子どもがスマホやアプリの仕組み、ネット犯罪や依存の現状についてのテキストを選んで学び、対策案を出す。親も学習した上で話し合い、必要なら補足する。
  • フィルタリングは犯罪対策として年齢に応じてかける。Wi-Fi対応やアプリ制限も。(携帯ゲーム機、iPad、音楽プレーヤー等も対策が必要)
  • トラブルが起こることを想定し、その際は親に相談するように伝え、かつ学校や児童相談所、警察、子どもの人権110番、その他の相談機関への連絡方法も伝える。

 

(2)子どもと話し合う

①親として、子どもが中高生時代をどう生きてほしいのか、何を望むのか伝える。(できれば、子どもが調査、学習、立案する前提として、前もって伝える)

  • 「自分づくり」をしっかりやってほしい。どのように生きていきたいのか、大学で何を勉強したいのか、夢をつくっていくことを望む。

 

②子ども自身の、安全対策、使い方、契約形態案をもとに話し合う。

  • 子どもの安全対策とその意識を確認し、また高める。
  • 以下についても話し合うが、最終決定権は親が持つことをきちんと示す。
    *親の名義で契約し、それを子どもに貸与する形にする。
    *契約形態と月々の料金の上限を定め、超過分は子どもが小遣いから支払う。課金の制限、または禁止。
    *個人情報入力やアプリのダウンロードの制限、フィルタリング。
  • 使用時間や場所についても意見交換するが、中高生に対してそれを逐一管理することはできないし、するべきではない。
  • 子どもの意識や親子関係の状態をもとに使わせるかどうかを判断し、使わせた後は、基本的にはゆったりと見守る覚悟を持つ。

③使わせる場合は(1)②はすべて実行し、使い始めてからも必要に応じて話し合い、またトラブルに対処する。


 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

それぞれの家族にそれぞれのスマホに対するルールがあるであろう。
ガラ携から当たり前のようにスマホに買い換えた我が家の場合、大したルールも無くこれまでの暗黙の了解が通用すると思っていた。
しかし、子供たちはもはや、スマホは電話の機能以外の使い方しかしていない。
時間があればLINEやSNSをして、インターネットとにらめっこをしている時に何を言っても聞く耳を持たない。
違う時間の過ごし方をしてくれないものかとやきもきするが、子供たち自身がどう過ごしたいのか、自分たちは何を求めているのかを考えて具体的に自立に向けて実行していくしかない。

親が時間を管理しようとする前に、もっと話し合っておくべきであった。
例えば、料金やトラブル対策等についてである。何も話し合っていない、何も調べていない、何も考えていない。
反省すべき点は、スマホとの付き合い方ではなく、私たち親子の関係、また、私の生き方そのものであった。

 

高校生の母、Bさん

スマホにまつわる悩みついては、子供の成長とともに少しずつその内容は変化しながらも、常に漠然と頭の中に存在してきました。
今回、テキストを読み、いろいろな意見や体験などを聞き、自分の考えを言葉にすることによって、この問題への向き合い方が少し整理されたような気がします。

皆さんとの話し合いを通して改めて感じたことは、子供たちの抱える真の問題は別のところにあり、それらがスマホを通して浮かび上がっているに過ぎないということです。
依存を防ぐために時間や場所を決め、フィルタリングをしたとしても、それらは対処療法に過ぎず、結局のところ、それらの問題に向き合うこと無しに本当の解決への道筋は見えないのだと思いました。

大学が研究から社会人教育の場へと変化する中、その余波が高校、中学、小学校にまでも及び、親が感じる不安やプレッシャーが子供の時間や自信を奪っているのかもしれません。
その逃げ場として、深夜のゲームやLINEが機能している側面もあるのではないでしょうか。
スマホに溺れず、ツールとして自在に使いこなせる強さを育てるためにどうすれば良いのか、これからも試行錯誤を重ねて行きたいと思います。

 

高校生の母、Cさん

高校生男子の親として、学校の保護者会でもママ友との会話でも頻繁に話題に上がるスマホ。
私も頭を痛めていたのだが、この問題を取り上げた本があることも知らなかったし、当然ここまで考察されたものを読んだことはなかった。
私はスマホやネットを、これからの時代なしでは生きていかれないものである一方で、ついつい依存してしまう危険があり、勉強時間が確保できなくなるリスクがあるもの、と思っていた。
正直、自分自身の学生時代にはスマホはおろかネットすらなかったので、この問題をどのように考えたら良いのかという視座もなかった。

今回学習会で、この本を読んで、学習会で参加者の皆さんとお話をして気がついたことは次の二つだった。

  1. 今の子どもたちは、リアルで知っている人たちとの対面でのコミュニケーション、電話でのコミュニケーション、文章でのコミュニケーション、という段階を十分に踏むことなく、未成熟な年齢で世界中と繋がっているとも言えるネット上のSNSの世界にデビューしてしまう。
  2. 思春期は、友達から自分がどう見られているか、友達との関係性に過敏になる時期であるので、LINEなど友達とのSNSは子どもの生活に大人が想像できないほど大きな影響力を持つ。

いずれもとても難しい問題だが、このような状況に子どもたちが置かれているという点についての理解がなければ、子どもと話し合うことは難しいだろう。
そして、今回の学習会で改めて気づいたことは子育ての最終目標は「子どもの自立」だということ。
スマホ問題も、勉強時間の確保という視点だけではなく、最終的には、スマホやネットとの付き合い方を自分で考えて自律できる大人になるという視点から考えることが大切だ。
スマホとの付き合い方は私自身難しい。
でも、学習会に参加して2時間以上たっぷりと皆さんとお話できて、新しい視座を発見できて少し気が楽になった。

『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会報告

テキスト:『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会(岩波ジュニア新書2009年)
(2016年12月11日(日曜))

 

12月の学習会には、中学生、高校生、大学生の保護者の方、6名が参加されました。

今の子どもたちの生活に大きな影響を与えているケータイ・スマホの問題は、私たちにとって新しい問題であり、前々から気になりながらやっと手を付けられたというのが正直なところです。
参加者の方と日頃の悩みや疑問を出し合い、本来この問題はどう考えていくべきなのか、話し合いました。

学習会を終えての私の感想と、参加者の感想の一部を掲載させていただきます。

 

スマホ問題の解決を通して「自分づくり」を
1.   「自分づくり」ができないスパイラル

親や学校にとっての子どものケータイ・スマホの悩みの多くは、使い過ぎによって勉強時間が少なくなるという問題のようだ。
子どもが勉強のためにきちんと「時間管理」をしてほしいというのが多くの保護者の願いである。
実際、最近の高校生のケータイ・スマホ利用時間は、一日平均2時間にもなるという。
3時間、5時間も、また実質的には24時間スマホに「支配」されているような状況も珍しくない。

一方、尾木氏の問題意識の中心は、中高生の最重要課題である「自分づくり」がケータイによって妨げられるのではないかというものだ。
思春期にある中高生が自分自身について深く考えることなく、ケータイでの安易な自己確認や自己顕示に走ることを懸念する。

 

もちろん、勉強も「自分づくり」の大切な要素だが、実際に子どもがスマホやタブレットの「時間管理ができない」と嘆く保護者は多く、「時間管理をしなさい」という指導はあまりうまくいっていないのも事実だ。

彼らは、勉強を怠けてスマホで楽しんでいるというよりも、スマホや、スマホを通しての友人関係に流されないほどの確かな自分自身をまだ持たず、スマホに吸い寄せられているのではないだろうか。

瞬時に友だちとつながる高機能は、思春期の強い自意識や友だち依存の特性とあまりに相性がよい。
下校後にも学校の友人関係に配慮して延々とラインを続けたり、またライン外しのようないじめや陰口の問題もある。
子どもたちが、思春期という不安定な成長過程にあって友人関係に悩むのは当然だが、スマホによって問題はよりややこしくなっている。
そもそも学校での友人関係に問題があるから下校後にまで引きずるのだが、スマホはそれを可能にしてしまう。

「自分づくり」が進まないからスマホやタブレット、またゲームに流れ、ますます「自分づくり」が進まないという悪循環が生じているのではないか。

 

学習会では、中学生の息子にもっと思春期らしく「悩んでほしいのに…」という思いや、大学生の娘が「友人と会って話したナカミなどよりも、写真や動画をSNSやYouTubeにアップすることに忙しい」ことへの心配も語られた。

 

2.  「友情」よりも、自分のテーマ

尾木氏はテキストの中で、大学生のひきこもりが増えているという問題を挙げている。
中高生のときに自分自身の意思で行動した経験がなく、「親の価値観や学校で教えられた価値観」しか持たず、動けなくなる大学生だ。
そうならないように「自分づくり」が必要だと説く。

確かに、ケータイ・スマホ問題に現れている子どもたちの本当の問題は、今現在の問題に留まらず、この先も、大学生、社会人として、周りや社会とどう関係して生きていけるのかという問題だ。

 

ただし、彼の考える「自分づくり」のナカミは、思春期の心、「内面」の成長に偏っているように思われる。
「友情」や「思いやり」、「人を傷付けない」ことを学び、「自分らしく」生きるというところに留まる。
確かに、思春期の葛藤がどれほど大切かという問題提起は重要だが、自分自身として何をテーマとして生きるのかという、「自分づくり」の核心が抜け落ちているのではないか。

それではひきこもり問題も、スマホの問題も解決できない。
子どもたちの多くは人間関係を軽視しているのではなく、むしろそれは重く、「自分づくり」の方は進められずにひきこもり、またスマホにかじりついているのではないか。

 

また、子どもがスマホを持たなければ「自分づくり」が進むという訳でもない。
社会全体が目的を見失った現代における、子どもたちの「自分づくり」の難しさが、スマホ問題によって浮き彫りになっているだけではないか。

尾木氏が現役教師だった時代の、テキストに登場するかつての子どもたちの大人への反抗は、今はぐっと弱まって、そのエネルギーがより多く子どもたちどうしに向けられているように感じる。

本来は、スマホや友人関係に関して今実際に起こっている個々の問題に向き合うことを、彼らの「自分づくり」に組み込まなければならないのではないか。
子どもたちの「自分づくり」は、そういった子どもたちの生活に根付き、そして彼らの生きるテーマをつくっていくようなものでなければならない。
また、そういった「自分づくり」の一環としての取り組みでなければ、スマホにまつわるトラブルも解決しないのではないか。

 

3.   「管理」でも「放任」でもなく

ところが、大方の中学、高校は、建前としてのケータイの持ち込みや使用の「禁止」と、そのルール違反に対する「没収」でお茶を濁している。
当然、ラインのトラブルや下校後のスマホ依存に対しては何もできない。

保護者も戸惑っている。
学習会の参加者は、スマホに関しては子どもの知識の方が親を上回ることへの不安を語った。
尾木氏も、そんなことは「子育てと教育の歴史上はじめてのこと」と述べる。
また、この全く個人的なツールは、子どもが何をしているのか、ナカミが見えないブラックボックスである。子どもが家庭の固定電話を使っていた頃のように、それとなく様子を知ることもできない。
犯罪を含めたトラブルの心配もある。

 

なんと難しい問題が、子育てに登場してしまったのだろう。
容易に管理もできなければ、さりとて様々な危険性に目をつぶる訳にも、また彼らが「自分づくり」を進められないままに放任する訳にもいかない。

尾木氏は、「現実の日本社会をいかに人権尊重とモラルに満ちた民主主義社会に変革することができるのか、その本質的な問いかけが、ネットによるバーチャルタウンの出現によって試されている」と述べる。

つまり、ネット依存やいびつな自己顕示、人権侵害などの問題は、私たちが普段の生活や社会の中で、まだ十分に対等で民主的な人間関係を築けていないことの反映でしかなく、ネット問題解決のためには、現実社会をよりよくする以外にはない。

私たちはいよいよ、子どもの教育についても、これまでの「管理」か「放任」かという二択の教育ではどうにもならないところまで追い詰められたのではないだろうか。
子どもたちが親や学校にこれほど強く管理される現代に、逆に、大人が容易には管理できないようなスマホが現れたのは不思議な矛盾だ。
私たちは、スマホという難しい宿題によって、一方的な管理教育でもなく、「子どもは自由にさせています」でもない、一つ上のレベルの子育てへ進むようにと背中を押されている。

子どもの自立、「自分づくり」を目指す私たちは、スマホ問題に対しても、「禁止」と「没収」、「管理」と「放任」を超える代案を出していかなければならない。

 

※スマホ問題の直接的な具体策については、『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告をご覧ください。

 

◆参加者の感想より

□思春期の子供たちが抱える問題は、思った以上に深刻であった。思春期という心身ともに不安定な中で、現社会のみならず、大人たちが作り上げたネット社会の中に一旦足を踏み入れたら、もしくは、引きずりこまれたら、自分の知らないもう一人の自分が一人歩きをしてしまうのではないかという怖さがある。「携帯・ネット」の問題は、親である私たちがその全体像を把握できていないところにもある。いじめの手段や中傷の書き込みはどこまでどう広がっていくのかわからないのが怖いのである。このような複雑な環境の中で振り回されずに自分を見つめることはとても難しいと思う。

しかし、ネットの中で繰り広げられているバーチャルな社会も、「れっきとした社会現象にすぎない」と、著者は述べている。「私たちのこのアクチュアル(現実的)な生活そのものなのです」とある。
結局、「携帯・ネット」問題は、現社会に生きる私たちの問題そのものであり、いじめや、自立の問題なのである。これからも、子供たちと一緒に「携帯・ネット」を勉強しながら、自分探しをしていくしかない。

 

□まず、学習会に参加して良かったと思うことがあります。それは普段、忙しさを理由になかなか読書に手が届かない日々を過ごしてきましたが、このように期限と課題があると時間の合間をぬってできるものだと痛感いたしました。
そして読書した後もテーマについてあれこれ考えることが、今までに無い時間を過ごすことができとても有意義でした。

子供たちの携帯の所持率が上がりつつある頃、私は好ましいこととは思いませんでした。学校で友達と会っている時に話せることを家に帰ってから何故わざわざ携帯を使って連絡し合わなければならないのかと。
その後も携帯が及ぼす悪影響についてばかりが耳に入り、この先子供たちは大丈夫なのかと不安にさえなりました。
しかし、我が家の息子達は今となっては携帯が及ぼす悪影響についてもだいぶ熟知し、逆に便利なツールについての知識が増えてきて上手く付き合えるようになってきました。
著者も語っていたように携帯を子供たちから塞ぎ込むのではなく充分に子供たち自身に携帯について考えたり話し合う機会を設け、それは家庭から学校、地域で取り組むべきなのだと共感いたしました。
そして親も一緒に学ぶ努力も必要だと改めて思いました。

 

□デジタル時代に生きるということで、インターネットやラインなどは当然主要なコミュニケーション手段です。ただ、あまりにも簡単につながれるということから、依存してしまうのも理解できます、自分自身のことも含めて。
今日の会では、自分づくりに思春期のなかで、どう取り組んでいくかが最重要だなと感じました。コピペ、絵文字が簡単に使え、画一的な表現、自分づくりしかできなくなっているのかも、それにこそ、危機感を持つべきじゃないかと感じました。
個の確立をどう手助けできるかということで、これから高校生になった時、スマホを与える機会を、単に使用のノウハウだけでなく、アナログ時代の親とデジタル時代の息子との、それぞれの思い、心配、期待などをシェアする場にしたいと思いました。
自分づくりは、一生涯の仕事ということは、日頃から私自身痛感することでもあります。それはデジタルで気軽な方法だけではできないということをなるべく早く気づいて欲しいと感じました。一人っ子、男子校、共働きと、リアルな生活も非常に限定的な中で、夢中になれるものが一つでも見つかってほしいです。

 

□親でも扱うことの難しいスマートフォン。まだ持っていない息子にとてもタイムリーな話題でしたので、今回参加をさせていただきました。

本書では、中高生の成長を通しての携帯との付き合い方について書かれていました。中でも気になったのは、現在の「大学生」についてでした。私の中の「大学生」という存在は、完成された大人のイメージでしたが、最近の大学生は引きこもりなど問題があるように思います。「本当の自分」がわからず、あるのは親の人生観や学校で教えられた価値観ばかりと気付いた子達が心のバランスを崩してしまうようです。
そうならないためには、中高生時代の「新しい自分づくり」が大切だと本書では言っています。壁にぶつかったときに身軽に検索で答えを求めてしまう、またはメールやラインで友だちと共感を得るなど、現代の子達は簡単に回答を手に入れてしまいます。とても便利であると思う反面、自分と向き合う大切な時間を見失ってしまう可能性もあります。
この情況は子供だけに限ったことではないと思います。自分の学生時代を振り返ると、今みたいに便利ではなかったこともあり、何かしら不安を抱え込んでいて、自問自答を繰り返していたように思います。しかし、大人になり、スマートフォンという便利なものに出会ってからは、簡単に回答を得てしまう自分がいました。そして何の解決にもなっていない自分にも気が付きました。今の子供達はより慎重に上手に付き合うことが大切だと思います。

『「個性」を煽られる子どもたち』学習会報告

『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット2004年)学習会
(2016年10月30日(日曜))

10月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者の方と、卒塾生の保護者、および卒塾生が参加されました。
休憩時間中もお話し合いが絶えず、ひとりで悩むことの多い子育ての問題について、他の保護者と話し合えてよかった、気が楽になったとの声もありました。

また、参加者の方から、学習会の感想として、「個性」とは結局何なのかという戸惑いの声と共に、それぞれの答えが寄せられました。

今回、「個性」という難しいテーマが焦点になりましたが、みなさんの関心の高さに背中を押されました。
子どもたちももちろん悩んでいますが、それがはっきりするまでに相当時間がかかるのに対して、私たち大人はすでにいろいろな問題意識がコップ一杯になってあふれていると感じました。
そのことに十分応えられるように、より一層よく話し合えて、学び合える学習会にしていきたいと思います。

以下に、学習会を終えての私の感想、特に個性についての考えを掲載します。
また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

問題意識こそ、個性
1. 友人関係の息苦しさ

今の多くの子どもたちの友人関係は、とても息苦しいもののようだ。
その状況を知る入門書として、本書を取り上げた。
参加者の一人は、初めてその状況が少しわかって、以前子どもに、その友人関係について的外れなことを話したと振り返った。
時代の変化は早く、私たち大人が今の子どもたちのことを理解するのは難しい。

土井氏は、彼らの「友だち関係の重さ」や「優しい関係」、その息苦しさを的確に指摘する。
また、特殊な事件の根底にある、広く一般の子どもたちに共通する問題が、調査に基づいてわかりやすく説明されている。

2. 生きる目標や指針がない

ただし、本書には問題解決の展望がない。

子どもたちの「親密圏の重さ、公共圏の軽さ」という現象を現象のまま捉えたのでは不十分であり、その本質は、「親密圏」、「公共圏」を問わず、あらゆる人間関係の「軽さ」、「他者の不在」である。

また、それは子どもたちだけの問題ではなく、大人社会の同じ問題の反映でしかない。
たとえば、現在保護者と学校は、学校や家庭の問題について十分に話し合えるような状況にはなく、同じく、子どもたちどうしも互いの対立やトラブルが表立たないように気を遣い合って、深くは関わり合わない。

それでも、人間は本来他者との関係の中でしか自分を展開できず、大人も子どもも手近な親密圏の人間関係に頼りがちである。
その重くて薄い関係には、問題があると同時に、潜在的には外とつながる本来の生き方への希求があるのではないか。

しかし、私たちにはまだその指針がない。

経済成長を目的に生きた祖父母や、親の、次の世代として、何を目標に生きればよいのか、私たち自身が戸惑っている。
今の社会には、皆で共有できる、わかりやすい目標はない。
たとえば、偏差値の高い学校を目指すことも、かつては社会全体の経済発展という目的を共有することでもあったが、経済発展の難しい今は、たんなるお互いの競争になりがちだ。

子どもたちもどう生きたらよいのかわからず、彼らの意識が人間関係や処世術に吸い寄せられ、その苦しみが「いじめ」やその特質としても現れているのではないか。

3. 問題意識こそ、個性

私は、土井氏の主張する、個性が「社会規範」と化しているという矛盾が問題だとは思わない。
問題は、個性のナカミだ。

また、個性が他人との比較による相対的なものだという土井氏の考えに反対だ。
「比較」は、子どもたちが自分の生き方を考え始めるために必要だが、その一契機でしかない。

彼らが「自分の感覚こそが、ともかく最優先」という状況だとも、それを個性だと本気で考えているとも思わない。
表面的な感覚を優先していたとしても、肝心な感覚は抑圧し、それをおいそれとは外に出せないのが、子どもたちの実態だ。

私の考える個性とは、他ならぬその人自身が、自分のそれまでの人生をどう理解し、この後の人生をどうつくっていきたいのかという自己理解である。
また、これからどう生きていくのかを考える中で、それまでの人生への理解を深めていく、その全体が、自己理解=個性だ。

また、それは単に自己満足的なものではなく、客観的、具体的なものでなければ、個性とは言えない。
自分は他者や社会とどう関係してきたのかを具体的に振り返り、そして今後はどう関係して生きていくのか、という客観性や具体性だ。

つまり、自分を含めた人間というものや、人間の人生を、またこの人間社会をどう理解し、どんな価値基準を持って生きるのか、その自己理解=他者理解=個性だ。

たとえば、中高生がどんな職業に就きたいのかが、個性や夢ではない。
個性や夢とは、医者になりたいという思いではなく、どんな医者になりたいのか、医者になって今の社会のどんな問題を解決したいのかという問題意識だ。

また、個性は若者だけの課題でも、夢でもない。
私たちは誰もが、自分の存在や人生は何だったのか、何なのかを死ぬまで問い続ける。
その日常生活の中での具体的な問題意識が個性であり、またそれが、自分の個性を全面展開する唯一の源だ。

現実にぶつかって心が折れる中にこれからの自分があると、自分に言い聞かせる毎日である。

田中由美子

 

◆参加者の感想より

卒塾生の保護者、Aさん

この春、高校を卒業して4月から大学生になった娘は、新しい環境で新しい友達と新しい付き合いが始まっている、はずであった。しかし、実際には、スマホを片手に以前と何も変わらない、差し障りのない言葉のやり取りをするその場しのぎのお付き合いが夜中を過ぎてもほぼ毎日続いている。

作者のいう、「優しい関係」である。

良好な関係を築くため(壊さないため)に、自分の気持ちよりもその場の空気を優先して、その時を乗り切っていく刹那的な関係は、常に気が休まらずにさぞかし疲れるであろう。

実は、親である私自身が言葉遣いに気を配り、極力波風を立てないような対人関係を目指し、「優しい関係」を築いて過ごしてきた。母親にでさえ、未だにストレートに本音や感情を表すことができずにいる。その結果、今になって、もどかしさや息苦しさが溢れ出して自分に大きくのしかかってきている。家庭論学習会に参加させていただき、少しでも何かを学びたいと思ったきっかけの一つである。

子供たちが小さい頃から、「たくさんのお友達を作って、みんなに優しくしてね。」と、伝え続けてきた子育てを振り返り、その言葉の意味を改めて深く考え、遅ればせながら親が子に与えた影響を学習会を通して考える機会をいただいた。今後、母と、そして、子供たちとどのように関わって過ごしていきたいのか。何より、子供たち自身は、本当は私とどのように付き合っていきたいと思っているのか、または、本当はどのようなことに負担を感じているのであろうか。

この、本当はどうしたいのか、本当は何をしたから辛かったのか、という心の奥底の声に素直に耳を傾けると、自分の「個性」が見えてくるのであろう。

 

生徒の保護者、Bさん

テキストについては答えが見つからずに終了したように思いましたが、私にとっては初めて皆さんとあのようにお話し合いができたことにとても意味のあった会でした。

現代の子供たちの友達関係は確かに複雑化しているように思いますが、1人1人は自分の目的を探す為に必死になっていてそれがなかなか見つからず友達との関係に固執してしまう傾向にあるのかな?と思いました。

我が家の息子達も今、自分のやるべきことが見えている時は友達とのLINEなどそれ程気にする事もなく上手く距離を置いて付き合っているように思いました。

大人も忙しくしている時は周りの人間関係をさほど気にせずにいて、時間を持て余すと余計なことまで考えてしまうように思います。

子供たち1人1人が自分のことに関心を持ってこれからのことを真剣に考えていけるような機会や場所が学校の中だけでなく、もっとたくさんあったら少しずつでも変わっていけたらなと願うばかりです。

 

生徒の保護者、Cさん

素の自分の表出・・・自分の思いを優先しストレートに発露する
装った自分の表現・・・自らの感情に加工を施して示す

本書では、この二つを対比させていましたが、私は「自分の思いを、偽ることなく 相手が理解したい、聞いてみようかな と思うような表現をする。」のが理想的だと思いました。娘がこんな風にできれば、いずれ社会に出たときに、苦労があったとしても 理解者を得て頑張れるのではないかと思っています。

自身を振り返ると 若いときは、伝えたい自分の思いがあったけれど、表現ができず 遠回りをして それでも伝わらず あきらめたり。今は経験で多少器用に、マシになったはずなのに 「自分はどうしたい?どう思う?」中身がわからなくて悩みます。

どの世代のどんな人も子どもたちの様に 自分自身を表現することは 難しく、勇気がいることだと思います。

ただ、娘が本書のように自分を偽って学生生活を送らなければならないなら 頭のどこかに本当の自分を消し去らないでおいてほしいと思いました。いつか、自分を表現できる時が来るまであきらめないでほしいです。苦しいこともあると思いますが そういうものを心に抱えながら生きていくことで、工夫をしたり、周りの人の気持ちに共感したり、想像したりできるようになるのではないかと個人的に思っているからです。

この学習会をきっかけに「個性」について、じっくり考えましたが、個性=性格なのか、個性的 と言われるちょっと人とは違った特別な何かなのか、混乱しました。はっきりとした正解がないことを深く考えるのは、普段とは違う感覚でした。

『主婦論争を読む』学習会報告

上野千鶴子編『主婦論争を読むⅠ』『 〃 Ⅱ』(勁草書房1982年) 学習会
 (2016年5月22日(日曜)・ 7月17日(日曜))

 

私が専業主婦だったとき、漠然と「主婦」であるということに問題があるように感じていました。
じゃあいったい何が問題なのかというと、よくわからないという漠然さでした。

家事や育児はなくてはならない仕事であり、 それが大事な仕事だなどと言われると、当たり前すぎてかえって反発を感じるくらいでしたが、それでいて、自分に自信や誇りが持てませんでした。
多少外で働いてみても、大きくは何も変わらず、しかし経済的な問題が無関係だとも言い切れない…何をどう考えればよいのやら、霧のなかでした。

60年も前の「主婦論争」は、私のその当時の混乱そのままでした。
この60年間で社会は大変化を遂げたけれども、主婦の悩みや混乱にはまだ解決策が出されていないだけではなく、それがどういう悩みなのか、その正体すら明らかになっていないのではないでしょうか。
また、子育てはますます難しくなってきているように思います。

以下、学習会を終えての感想です。

最後に、参加者の感想も一部をご紹介します。

 

目次
(1)  主婦の生き方ってどうなのか?
(2)  主婦論争と、残された問題
(3)  自分の基準をつくるかどうかという問題

 

(1)  主婦の生き方ってどうなのか?

今回読んだ主婦論争は1955年から始まる。
私の母が結婚して主婦になる3年ほど前だ。

まだ家電もなくて家事に手間のかかった時代なのに、そのときすでに主婦という生き方について、これほどの論争があったというのは驚きだ。
60年代末期に主婦がマジョリティになるずっと前である。

 

当時、安い既製服がある訳でもなかったから、母は私たち子どもの服をすべて縫い、私が初めて既成服を買ってもらったのは小学5年の時だった。
母に髪を切ってもらうのではなく、散髪屋に初めて行ったのも、その頃だ。

また、父の仕事関係での主婦の役割も多かった。
季節の挨拶や贈答の他に、普段父が職場の同僚と宴会をするのも自宅だった。
社宅での主婦どうしの付き合いも、絶対に問題を起こしてはいけないと父にくぎを刺された上での、母の「仕事」だった。

つまり、当時主婦は十分な量の家事をこなしてやりくりし、また「内助の功」にも励んだ。
主婦の仕事はなくてはならないものであり、母は生き生きと働いていた。

ところが、主婦がまだそれほど忙しい時代に、主婦という生き方についての論争がこれほど盛り上がったのだ。
なぜだろうか。

この論争の活気は、まず主婦という話題がどうかということの前に、戦中戦後の混乱を経験してきた人々が、まだ貧しい生活をなんとか成り立たせていこうという熱気だろうか。
また、社会の中の大方の人々がその同じ問題に取り組んでいるという協同的な熱気だろう。
反戦や反核、生活改善のための社会運動をしていた主婦が少なくなかったことも、この本で知った。

しかし、主婦論争の盛り上がりは何よりも、主婦自身が自分の生き方について、何かもやもやするものを抱えていたからだろう。
母も、私たち子どもが育ちあがるにつれて、自分の人生に焦りを感じていた。
戦後、職場と家庭の分断が進んでいく中で、男たちは当時の最大の問題であった「貧しさ」に、仕事を通して日々直接取り組んでいたのに対して、主婦たちには取り残された感もあったのではないか。
戦中に、大家族の下、男も女も子どももなく総出で働いていたところから解放され、しかし取り残された。

私自身はどうだったかというと、子どもの服を縫う必要も、母ほどの内助の功も必要ない中で、やはり戸惑った。
この本を読みながら、かつての、主婦ってどこへ行っても「お客様」だという焦燥感を思い起こした。

 

そもそも、一般庶民が社会的生産に直接関わらずに生きて、家事や育児に専念するという主婦の存在は、人類史上初である。
生産性が格段に上がったからだ。
先進国では、女も子どもも家族総出で働かなければ食べていけないほど生産性が低い時代を終えた。
また、高度経済成長時代、まだ家電も安いお惣菜もない時代にさらに生産性を上げるために、企業戦士を支えるための専業主婦という形が効率が高かったのだ。

その登場以来、私たちは戸惑っている。
その後日本社会は圧倒的に豊かになり、また女性の社会進出が進んで専業主婦は減り続けても、基本的な家庭の枠組みや、男女分業の意識に大きな変化はない。
また、娘として、主婦である母親との関係のあり方を模索する人も少なくない。

主婦の生き方にどんな問題があり、どんな解決策があるだろうか。

 

(2)  主婦論争と、残された問題

55年からの第一次主婦論争は、まず女性も職業を持ち、もっと張りを持って生きるべきだという問題提起から始まる。
女性の従属的地位からの解放のためにも、まず経済的自立が必要だと主張する、職場進出論派である。

それに対して、主婦の仕事の重要性を主張し、また他の職業と並べてお金の問題としては考えられないというような「神聖さ」を主張する派が対抗する。

当時の状況は、主婦も職業を持たざるを得ない階層があると同時に、職場進出などできないという状況の主婦が大半だった。
また、今現在もこの問題が解決された訳ではない。

この二派とは別に、主婦は、社会的な問題意識を高く持った市民として生きているという主張もあった。
そういう勢いもある時代だったのだ。

 

60年代の第二次主婦論争では、家事労働をきちんと経済的に評価すべきだという主張が登場し、社会保障として「主婦年金」を制度化すべきだという問題提起もなされる。

この「主婦年金」は、四半世紀後の86年になって、国民年金第三号被保険者制度として実現された。

共働き世帯は70年代から増え始め、90年代に専業主婦世帯数と拮抗し、2000年代に逆転した後、現在も増加中である。
「主婦年金」の是非が、今大きな問題だ。

しかし、家事労働がまだ大幅には産業化されず、また主婦がマジョリティであった60年代に、主婦の生活保障として「主婦年金」が提案されたこと自体は道理だったのだと学んだ。

 

70年代の第三次主婦論争では、「生産」よりも「生活」に価値を置く生き方が提唱される。

主婦こそ「生活」中心の解放された人間であるという主張には賛成できないが、男も「生活」中心に解放されるべきだという方向性はうなずける。

高度経済成長期の企業戦士の娘だった私の場合は、社会的生産がともかく第一で、それ以外の、例えば家庭のことなどは付け足しのような意識だった。
父だけがそういう意識だったのではなく、母も私も同じ意識にどっぷりつかっていたことを自覚していなかった。
それは大きな問題だったと思う。

しかし、では一体どう生きることが「生活」を重視する生き方なのか。
主婦論争の中には、まだその代案は無い。

 

なお、主婦論争を収録した今回の二冊のテキストの中で、子育ての問題を取り上げているのは梅棹忠夫だけだった。
それが奇異に思えた。
主婦の問題は、その労働の中心、子育てに集約して現れ、その問題をいかに解決していくかが問われるのではないか。

また、梅棹が半世紀余りも前に提起した母子一体化の問題は、その後深刻度を増し続け、現在も子育ての問題の核心だろう。

ただし、梅棹の解決案は、女性の「職場進出論」でしかなかった。

しかし、母子一体化の問題は、主婦による子育てに限った話ではなかった。
親子の一体化が進み、子どもを自立させられないという問題は、主婦だけではなく、働く女性も含み、また父親をも含む問題となっている。

 

(3)  自分の基準をつくるかどうかという問題

「生活」を重視する生き方とは、自分自身の考え方の基準をつくって生きているのかどうかという問題ではないだろうか。

それは、主婦かどうかには関係がない。

むしろ、主婦という立場から基準をつくるべきだが、主婦に問題があるとすれば、そういう責任から一歩引いてしまうところにあるのではないか。
今回、参加者の一人の主婦が、自分は主婦だから夫や子どもを媒介としてしか社会と関わってこなかったと語った。
私自身もそう考えてきて、 そこには個人的な問題だけではなく、社会的な背景もある。
しかし、その一歩引いた捉え方自体を、私たちは克服していかなくてはならないのではないか。
それが今の私の答えだ。

 

夫が社会的生産を行う一方で、主婦として家庭を担っていた母の場合も、私の場合も、また、妻も職業を持つ場合も、単に社会的生産を第一義として、自分の立場からのものの見方をつくらないなら、家庭での問題を解決できない。
また、解決しようという過程は、自分の基準をつくっていく過程でなければならないのだとも言える。

そのことは、何よりも子育てにおいて問われるのだと思う。

例えば、子どもが学校や部活の基準に合わせなければならないと考えてくたびれ切っているのに、親が学校と全くの一枚岩で、子どもを追い詰めることがある。
また、子どもが本当に困っていることは、親の勉強についての心配などとはたいてい別のところにあり、またより厳しい困り方をしているように思う。
しかし、子ども自身も、親と一体化しているために、自分が本当に困っていることを本当に困っていることとして捉えることさえ難しい。

また、中学受験に失敗したと感じている子どもが、陰に陽に「リベンジ」を求められて、追い詰められることもある。
「偏差値」という基準に染め抜かれた子ども自身が、親の認識以上に傷付いているのに、その気持ちがきちんと受け止められることは少ないように思う。
受験の結果はよくなかったけれども、それは問題ないと言う親も多い。しかし、それでいて、親に「偏差値」以上の基準や価値観がなく、結局は受験の結果が絶対的なことだから、子どもの心は行き場がない。

親の価値観が多少とも更新されたときにはじめて、子どもは委縮から解放されて、自分の問題に取り組んで本来の力を発揮することもできるのではないか。

 

主婦も含めた親のやるべきことは、子どもの成長過程の中で、現実の具体的な問題に取り組むことを通して自分の価値観を更新し続けることではないか。

そうせざるを得ないような状況が、まさに子どもが苦しんでいることの中に現れている。
子どもが今どういう問題を抱えているのか、よく見なければならない。

でも、私の経験では、それは自分自身の問題を見ることを通してしかできない。
具体的な問題に取り組む中で、自身の問題にぶつかってはじめて、他者の抱えている問題にも少しずつ目が開かれていくように思う。

 

また、子育ては本来、子どもを媒介に社会と関わるのではなく、親が直接社会に関わる覚悟を持つべきことなのではないか。

もちろん、子育ての目的は子どもの自立であるから、そこに矛盾のある難しい課題だ。

しかし、まず、子育ての責任は親にある。

また、社会や学校と対等な立場にあるのは、子どもではなく、大人である親である。
例えば、子どもの学校と対等に話し合えるのは親だけである。
特に中学くらいまでは実質的には親が選択した学校であることからも、その学校にどういう問題があり、それをどう解決するのかといったことに関わる覚悟が必要だったのではないかと振り返る。
保護者として、ただ授業料を払うだけで、学校の言いなりなら、親の責任を果たしているとは言えないのではないか。

 

 

◆  参加者の感想より

<五月学習会>
主婦、Aさん

主婦業ほど様々に議論がなされる仕事もそう多くはないであろう。 石垣綾子は、主婦という立場を、「第二の職業」として厳しい目を向け、主婦の心がいかにふやけているか、「朝から晩まで、同じ仕事を永遠に繰り返している主婦は、精神的な成長を喰いとめられる。」ことによって、知的な鋭さを次第に失っていくなどと指摘し、主婦の仕事内容だけではなく、主婦の存在そのものを安易、怠慢だと批判している。この論文が書かれたのは、1955年のことだが、現在でも、生活が向上して、さらに時間的に余裕ができた主婦たちへの批判的な意見が消えることは無い。

私は専業主婦であるので、この文章を読んだ時には、そんなに批判をしなくてもと思いながらも、確実に自身の中に空虚感を抱えていることも否めないと思った。家事や育児は、社会に対しては大切な生産的仕事であるはずなのに、なぜ、社会に働きに出てものを生産することだけが自立であり、ものを消費する立場の主婦は、「男に寄りかかる。」ことになるのであろうか。

平塚らいてうは、「ものを作るのが人生の目的ではなく、消費されない限り生産の意義がない。」としている。しかし、大切なことは、単に、経済的に生産する、消費するということではないと思う。社会で働いて生産し(第一職業)、経済的に自立している主婦も、精神的に自立していなければ、「人間として生きて行く。」ことにはならない。

この家庭論学習会で学びたいと思っていることは、社会の一員である私の、主婦としてのこれからの人生の目的意識をはっきりとさせることである。そうすれば、建設的ではない消費に感じていた後ろめたさは少なくなるのではないか。また、主婦業が安易で怠慢だと言われても、自信を持って過ごすことができるのではないか。

 

<七月学習会>
主婦、Aさん

前回に引き続いて、今回も主婦という特殊な立場を掘り下げて考えた。その中でも、職業を持たない主婦は、武田京子によると、「自由で人間的な生き方をしている」らしい。それは、「働かないですむこと、なまけものであることを主体的に選んで生きている」から、というのが理由である。武田はさらに、「社会的生産労働など、まったくしないですむのがより理想に近いかもしれない。それは義務でしかないのであるから。」としている。さすがに、それは言い過ぎだと思うが、専業主婦が、「自由で人間的な生き方をしている」のであれば、羨まれるような立場であるはずなのだが、なぜ、専業主婦自身が自分たちの仕事や立場に疑問やコンプレックスを抱き、論争など起こるのであろうか。

専業主婦である私の場合、主婦の仕事のほとんどが子育て中心に回っていた。主婦の仕事=子育てだと思い込んでいた、と言っても過言ではない。武田の言う、「なまけものである」か、ないかは別問題として、「自由な生き方をしている」などとは、今までこれっぽっちも思ったことはない。むしろ、子供たちのことを優先して、自分のことは後回しにしてきたからである。そして、子供たちが巣立った今、私の仕事は一応終わったのであるが、働く女性であれば、定年時に支払われる退職金にあたるものが専業主婦にはない。退職金は、自分が社会で積み上げてきたことの証である。私が、今まで積み上げてきたものは何か。何もないのではないか。そこに、矛盾や疑問、やるせなさが溢れ出てくるのであろう。

これは、決して経済的な問題だけではない。子供と一体化し、依存し過ぎた結果、自分がないと感じている私の生き方の問題である。さらに、専業主婦だけではなく、働く主婦たちも子供に依存した生活を送っていれば、働く女性としての退職金は手にしても、主婦として何が残ったのか、と私と同じ疑問を持つのであろう。

主婦にとって退職金に当たるものは何か。主婦の仕事の証と言えるものは何か。それは、これから社会で活躍するであろう、成長した子供たちなのであろうか。

さらに、この先、主婦として、女性としてどう生きるのかという問題にも正解はない。自分自身の人生の過ごし方を探したい。

 

社会人ゼミ生、Bさん

主婦自身が自分を抑圧しているという武田論文の指摘が心に響いた。抑圧から抜け出そうと外に出ても、それで抑圧がなくなる訳ではない。

また、多くの論文が掲載された雑誌、『婦人公論』は、今は女性週刊誌の高級版のようになっているが、当時、主婦も投稿して本格的な論戦があり、また、マルクスを実際に読み、それをもとに意見を述べている人が多いことに驚き、おもしろかった。

『女と自由と愛』学習会報告

松田道雄著『女と自由と愛』(岩波新書)学習会
(第3回 2016年3月13日(日曜))

3月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者、社会人ゼミ生、卒塾した大学生が参加されました。

テキストの前半を読みながら、結婚や恋人、家庭について、若い人と年配者、社会で働く人と主婦というような、異なる立場の思いが語られました。
例えば、若い女性に、仕事の厳しさから逃れたい思いから主婦願望があるのに対して、子どもが巣立つ喪失感に戸惑う主婦の思いです。
また、子どもが不登校になるまでは、父親は、稼いで来ればそれで家庭に対する責任を果たしていると考えていたのではないかという、家庭のあり方への振り返りもありました。

さて、テキストですが、松田氏は、女性にとって厳しい現実社会との闘い方を指南しながらも、女性一般の意識の問題を指摘しています。

まず、結婚は自立した市民間の対等な契約であるべきだが、女性にそういう人権意識が弱いのではないかという問題提起、また、社会で出世することを重視する「上昇志向」のために、家庭での仕事に誇りを持てないのではないかという問題提起です。

 

確かに、男女平等の教育は受けても、「対等な契約」の上に、夫婦というチームで家庭経営や子育てにあたるという意識は、私には弱かったです。
また、社会のことに比べて、家庭内のことなど私事に過ぎないというような意識もありました。

しかし、家庭の仕事も、他の職業がそうであるように、同じ仕事に取り組む仲間と共に、その仕事について学んで能力を高め、一つ一つ問題解決していってこそ、プロ意識や誇りを持つことが出来るのではないかと思いました。

以下、詳しい感想です。

参加者の感想も、一部をご紹介します。

 

女性の意識と、家庭の仕事
目次
(1)  問題は、仕事と結婚の両立なのか
(2)  女性の人権意識、価値観の問題
(3)  家庭の仕事の孤独
(4)  変革意思
(1)  問題は、仕事と結婚の両立なのか

女性の生き方を論じる本書を、松田は「はたらく女と専業主婦」という章から始める。

松田は、その二者の対立が女性の問題の根本ではないと考えるが、その対立が存在するのも事実である。

今回の学習会でも、主婦の不全感やコンプレックス、また、若い女性の、上司の独身女性に対する「そうはなりたくない」という気持ちや、処遇についての憶測など、リアルな感情が実感された。
同じ女性の生き方に自分の人生を重ねてみて、どんな働き方をするのか、また未婚か既婚かが、複雑な感情を伴って強く意識される。

女性にそれだけの対立が存在するのには、現実社会にそれ相応の問題があるのだと思う。
つまり、特に女性には、仕事と結婚の両立が難しいという現実である。
それゆえ、仕事を選ぶ者と結婚を選ぶ者、双方にコンプレックスも生じやすく、対立が起こりやすい。
少なくとも近年まで、その両方を選ぶことに何の問題の無かった男性には、こうした対立は起こらない。
結婚して働くのも、結婚せずに働くのも、今も女性特有の困難があるのだ。

その現実の十分な認識なしには、女性の生き方は語れないだろう。

 

また、学習会の中で、私たちの娘の世代もやはり、女性が働く場合、家庭に関しても大きな負担を負わざるを得ないのではないかという不安が出された。
松田は女性に向けて、結婚後仕事をするもしないも自由に選べる結婚をしなさいと説きながらも、家庭の運営は女性が主役だと考えているのではないか、実際に男性側の意向もあり、どれほどのサポートを期待できるのかという疑問である。

やはり、女性の問題の核心は、仕事と結婚の両立の問題なのだろうか。

 

(2)  女性の人権意識、価値観の問題

本書は小説仕立てになっている。
教会傘下の幼稚園の園長として、独身のまま先進的な教育に取り組んできた女性と、保守的な教会側、という対立が背景である。
その園長の側に立つ若い女性が、協会側に立つ主婦のことを「なんて料簡が狭いのか」と息巻くのを、筆者がなだめるところから話が始まる。
松田がその女性と手紙のやり取りを重ね、女性の問題の全体を説いていく。

結婚より仕事に気持ちの向かうこの若い女性と、片や、結婚して主婦になったものの、家庭の仕事をすることに誇りを持てない多くの女性との間に、松田は、対立よりも、むしろ共通する問題を重く見ているのである。

 

松田は、結婚は自立した市民間の平等な契約であるべきだと述べる。
ところが、女性が、人権意識や職業人意識の低さから、対等な男女としての契約なしに結婚し、無条件に家庭に入ることが多いことを問題視する。
結婚前の職業を辞めることに対しても、また「主婦」という家庭経営の職業に就くこと、結婚に対しても、責任感が薄く、また、自分の権利も主張しないという問題だ。

学習会の参加者の一人は、自分が家庭を守る役割を引き受けるという契約の意識を持って結婚したと語った。
彼女の意識は、松田が問題にしているような単なる恋愛礼讃的なふわふわしたものではなかった。
ただし、彼女に夫と対等であるという意識はなかったという。
私には、契約の意識も、対等との意識もなく、また長くそれに気付かなかった。

女性が、「女も男のするように自分の生き方は自分で選んでいいのだという現代の人権について無知だ」と松田は述べる。
自覚や覚悟を持って「選ぶ」べきだという主張だと思う。

また、「男女平等」の学校教育は受けても、自分の人権を日々自分で獲得して生きていく覚悟を学んできた女性は、今も少ないのではないか。私は、相手が誰であれ、対等に話をしていくことを、今ようやく練習中である。

 

もう一つの問題として、松田は、社会で出世することを重視する「上昇志向」の問題を挙げる。
主婦の不満や卑屈さの原因の一つは、その立場が「上昇志向」の欲求を満たさないことだろうと述べる。
「大多数の市民は昇進もなく、社会的評価もしてもらえないところで生きています」という松田の指摘は、私が自覚していなかった「上昇志向」に不意に光を当てた。

少し話が逸れるが、そもそも主婦という生き方は、妻が働かなくても生活できるような階層だから成り立つという面がある。(最近は、貧困層に専業主婦が増えているが。)
それは、夫が社会的に「評価」されたことの結果であり、しかし、妻自身への評価ではないという歪みも、私の中にあったかもしれない。

ともあれ、「上昇志向」的価値観の貧弱さを、松田は結婚しない若い女性にも、また結婚した女性にも見ていたのだろう。

私は家事が好きだったが、家庭内のことは私事に過ぎないというような意識があった。
それは、高度経済成長期に仕事をした父の意識であっただけではなく、母も含めた家族の意識だったことに最近になって気付いた。
外で夫がバリバリ働くことや、子どもがバリバリ勉強することが表舞台であるのに対して、日常や家庭は楽屋裏であるだけではなく、半ば仮の世界だった。
家族の日々の生活の根底を具体的に支え、彩り続けてきた誇りと喜びと、そして「仮の世界」に生きる空虚さがない交ぜになっていた。

 

(3)  家庭の仕事の孤独

主婦としての不安を振り返ってみると、松田が挙げる個人的な意識の問題と併せて、家庭内の仕事や問題を、大きな社会的な視点で捉えて相対化することが難しい状況が問題だったと思う。
目の前の問題が一体どれほどの問題なのか、あるいは問題ではないのか、また問題であるとすれば、どう解決すればよいのか。
それらが言葉にもならないまま、一人で悩んでいた。

自分が社会的に評価されるかどうか以前に、他の職業がそうであるように、同じ仕事に取り組む仲間と共に、その仕事について学び、その能力を高めていくことができればよかったのではないか。
家庭の問題は、それだけ重要で、難しい仕事だ。
人の子の親になるというような新しい仕事に対して、また子どもの成長と共に学び続けながら、一つ一つ自覚的に問題解決していってこそ、プロ意識や誇り、また自分自身の価値観を育てていくことができるのではないか。

 

松田は主婦の生き方の例として、料理教室やボランティアといった活動を挙げているが、的を外していると思う。

誰か他の人のために活動するよりも、まずは自分自身の仕事の能力を高めるような活動が必要だ。
主婦自身が、料理のテクニックなどで悩んではいるのではなく、子どもを社会に送り出すという、社会的な仕事としての子育てについて悩んでいるのである。
子育てだけではなく、家族の関係や病気、老後等々の家庭内の問題は、それを家庭内に留めずに、社会的に学び、解決しなければ、解決の難しい仕事である。

特別な社会的活動が先にあるのではなく、まずは自分の家庭や社会的関わりを直接に変革していく過程の中に、女性が社会に出ていくことの必然性があるのではないか。

 

(4)  変革意思

松田には、自然でも社会でも、それが人間が生きるのに不便なら、「人間の都合のいいように人為をもって変えていくのが人間」だという信念がある。
「人類の半分の女に不都合にできていたら、つくりかえればいい」、「それができるのが民主主義」だという変革精神だ。

だから、女性にとって、仕事と結婚の両立が難しいことについては、松田はその現実をしつこいくらい強調しながら、しかし、闘って変革すべきだということが前提である。
厳しい現状を甘く見ずに、社会が男本位なら闘い、また、家庭の中では男女平等を実現できると説く。
松田が、結婚を勧めるというようなおせっかいをするのは、生活の中で地道に闘うための戦略であり、闘うことが前提になっているのだ。
厳しい状況や、他者の意向が前提になるのではなく、変革が前提である。

問題は、そういう変革の意識が私たちにあるのかということだ。
松田はそれを問題にしている。

 

また、松田は子育てについて、「自分の生き方を大事にする母親」が、「自由の喜びを知った自立した人間を育てられる」のだと、母親の生き方を問う。

一方で、松田は、母親のやさしさが子どものやさしさ、良心を育てるとも述べる。
「あれこれの戒律を教えるのが家庭の道徳教育ではありません。人からやさしくされることがどんなにいいことかを、あかちゃんの時代から教わるのが家庭です」。
社会主義の「家庭不用論」の失敗を目の当たりにし、また、小児科医として長年、子育てや家庭の意味を考えてきた松田らしい言葉だ。

しかし、私たちが考えるべきは、後者のような、母親の「やさしさ」といった自然的傾向の礼讃ではなく、前者の、母親がその人為をもって、いかに一個人としての「生き方」をつくれるのかという問題である。

子どもが自分自身を尊重するような強いやさしさを育むのは、前者によるだろう。

「自由の喜びを知った自立した人間を育てる」とは、現状に適合するような人間に育てようとするのではなく、身近なところから変革して生きていけるような人間を育てることではないか。
母親自身がそのように生きているのかが問われる。

 

管理社会に呑み込まれるのではなく、個人を守り、確立するような家庭経営を松田は主張する。

単に現在の社会に適合し、また適合する人間を育てようとして、会社や学校に振り回されるような家庭ではなく、逆に個人の砦になるような家庭。
例えば、子どもが学校で問題を起こしたら、親が学校と同じ側に立って子どもを責めたり、また単に子どもに同調するのでもなく、学校と十分に話し合って、学校と親の変革に取り組むような姿勢ではないか。

私たちの多くが経験した、戦後の男女の完全分業も、その役割を果たし終えて行き詰った。
そこから出てくる答えは、対等な男女がチームとして家庭を経営し、また、「上昇志向」を変革意思へ切り替えていくことではないだろうか。

 

◆参加者の感想より

生徒の保護者、Aさん

少し前であれば、「主婦の生きがいは何か。」という問いに、「家族の幸せを願い、支え、応援し続けること。」と、何の疑問も抱かずに答えていたと思います。それが良い母、良い妻であり、私自身の幸せでもあると信じていたからです。勿論、今でも著者の言うように、「家庭が精神を安定させる」場所になることは大切だと思っていますが、問題は、私自身の生きがいがそこにしかなかった点にあった、と学習会を通して認識することが出来ました。

主婦の生きがいについて、「私が問題にしているのは、ふつうの女の人が主婦になることと、自分のえらぶ人生を生きることと両立させられるかということです」と著者は書いています。子育てや家事などの仕事をしている主婦としての自分、プラス、一人の個としての自分があるべきだったにも関わらず、いつの間にか、主婦がイコール自分の全てであり、主婦の仕事の中にしか生きがいを見つけられなくなっていました。

子供たちが成長し、手助けを全く必要としなくなった今、この先の人生をどう生きるのか、これからも学習会に参加して答えを探したいと思っています。もしもこのまま、家族に依存した状態で過ごすのであれば、自分がないままに生きることになるからです。以前、主婦として同じような悩みを抱えていた参加者が、例え仕事をして収入を得て経済的に自立をしたとしても、精神的に自立をしない限り何も変わらなかったという意見が胸に響きました。

 

社会人ゼミ生、Bさん

専業主婦の時期に自分がどんどん卑屈になり、再就職したこと、再就職して卑屈な気持ちが軽減した、と知人の体験として聞いたことがあった。自分自身も収入を得たことで気持ちが安定したことを思った。だから、「稼ぐ」ことは自分が胸を張って生きるための確かな要素だと思っていた。しかし、学習会の中で田中さんが、過去にパートに出て自分に現金収入を得たが気持ちの辛さは何も変わらなかった、と話すのを聞いて、自分を支えるために、収入は大きな要素の一つだが、それだけでは自分の空虚感を解決できないのだと思った。そして、現在鶏鳴学園で中学生クラスを持ち、家庭論学習会を主催する田中さんが、今は過去の気持ちの辛さとは全く違う、もっと良い授業をしたい、授業も学習会も辛いけれど、と力強く話すのを聞いて、勇気をもらった。そして自分の中の穴を埋めるのは自分でしなければならないのだ、と改めて思った。

 

生徒の保護者、Cさん

この本が出版された1979年以来、日本は、男女雇用均等法、バブル経済とその崩壊後の不景気、就職超氷河期、格差問題、SNSの普及、アベノミクなどいろいろな時代を経てきました。

結婚後も働き続ける女性が増えたり、女性を取り巻く環境は大きく変わっているようにも見えますが、 一人一人が抱える問題は本質的にはあまり変わっていないと感じました。それが、一人一人の内面の問題なだけに、公の場では語られる機会がありません。

主婦として家の中で働くのか、外で働くのか、いずれにしても誇りを持って生活できるように選び取っていけないと思いました。

 

社会人ゼミ生、Dさん

意見交換の時間こそが、この学習会では重要だと感じた。意見交換でいかに自分の経験をこの場で話すか、言葉にしていくか。学習会を使ってそれぞれの自己理解を深めることこそが重要ではないか。具体的に言えば、自分が果たした子育てはなんだったのか、自分にとって家庭とは何なのか、本来どうあるべきか、に対する答えを自分で出すことだ。

また、50代の参加者が「これから20年生きなくてはいけない」と言っていた言葉が重く心に響いた。課題は盛りだくさんなのだ。大変だ。私自身も生きるうえで必ず答えを出さなくてはならない問題が立ちはだかっていることを今回自覚した。

 

社会人ゼミ生、Eさん

私のように社会に出たばかりの女子の中には、仕事を持つことで背負う責任やプレッシャーを感じ、そこから解放されたくて専業主婦に憧れる人も少なくない。私も、転職先に合格するまでは、現状が辛すぎて専業主婦もいいかもしれないな、と安直に考えていた。しかし、専業主婦も配偶者のお金でランチを食べること、自分が常にお客様であることへの違和感など、経済的、精神的にコンプレックスを抱えているということを知り、楽な道などないのだと心を戒めた。

専業主婦になるにせよ、仕事を持つにせよ、いずれにせよ、「楽になりたい」とただ流されているだけでは、家事と仕事の両立がむずかしい現代の社会においては、自分の人生への不満が大きくなってしまうのだろう。

松田の本には、結婚時の財産契約などの提案があったが、これらの提案から読み取れるように、自覚的に家庭を運営する、自分の道を選ぶ、自立する、ということは、家庭を持つ女性の必須課題であると感じた。

また、本の中で随所に見られる、家庭を持つことによる「安定」という言葉に引っかかりを感じた。私の年代の日常会話においても、「早く安定したい」=「早く結婚したい」であるということは、結婚を安定の手段と考えることが世間認識では一般的なのではないか。結婚すれば安定するという神話があるのではないか。しかし、裁判所で働く私の実感としては、家庭を運営する覚悟を持たない人が家庭を持つことによって、かえって家庭の深刻な紛争といった、安定と真逆なことが生じている。

結婚とは安定ではなく、互いが協力して、個々の人生の質を高めながら、一緒に生きていく(家庭を自覚的に運営していく)ことではないか。今回の学習会を通じて、本や意見交換が鏡となり、自分を深められたこと、それがなによりの収穫だ。

 

卒塾生、大学生、Fさん

今回の家庭論学習会では、専業主婦や働く主婦の区別を問わず、主婦一般が社会で自立するにはというテーマだった。この自立というのは、実は主婦、女だけでなく男の方にも関わっている問題、即ち人全体に関わっている問題だと思う。

私は大学生の男で、2月、3月は春期休業なので専ら家にいた。そこで私は家にいるとよく「自分はこれからどうやって生きていくのだろうか」という不安を持ち、それしか考えられなくなる。不安を紛らわすために美術館や本屋に行っても、帰ってくればまた不安になる。

多くの主婦もまた、日常の中で自らの人生や社会的な意義について悩んでいる。そしてその悩みは、非日常によっては解決されない。

こうして見ると、主婦が悩む「どう生きるか」という問題の根底は、女性だけの問題ではなく、「人の自立とは何か」という普遍的な問題だ思う。

それが主婦独特のように思えるのは、第一に近代以来の男女分業の名残があって「主として男が稼ぐ」という考えが一定数あること、第二に女性が現実的に男女不平等の風習に苦しんでいることの二点からだ。

因みに、第一の分業精神は「4低」という言葉の流行に象徴されるように、少しずつ変わっていると思う。勿論、分業の崩壊に対し「男は女から求められすぎている」という反対の声が多く上がっている現実もある。このような声を挙げるのはもっとものように感じられるが、これは建前としての男女平等に男も惑わされ、本音としての身体的な宿命等に起因する第二の問題、即ち風習としての男尊女卑という現実を見据えていない意見ではないか。

まとめると、主婦の生きがいという問題は人の自立とは何かという人間の普遍的な問題と、女性が家庭の内外で直面する男尊女卑という問題が重なった問題だ。