『教育虐待・教育ネグレクト』学習会報告

古荘純一・磯崎祐介著『教育虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』(光文社新書 2015年)
2017年7月23日(日曜)

学習会終了直後に、参加者に今後の学習会テーマの希望を聞いたところ、「どうすれば食べていける子に育てられるか」という本音トークがあった。
教育の最終目標はそれだと。
「食べていける」=「生きていける」ということだろう。

しかし、今回のテキストは、その考え方で教育することが正しいのかという問題提起を含んでいる。

親や学校は、子どもに知識や学歴を身に付けさせれば「食べていける」と考えがちであり、 子どもにあれもこれも身に付けさせようとして「教育虐待」やそれに近いことが広く行われている。
しかし、そうして子どもを有名大学に押し込んでも、大学生活や就職活動で挫折する子どもが多いというのだ。
「教育虐待」とは、主に、子どもの成績や受験に関して暴力や暴言によって子どもを追い詰めるような行為である。

テキストの著者、古荘氏は、精神科医であり、青山学院大学で教鞭も取る。
「教育虐待」をたんに特殊な問題として捉えているのではない。
子どもが「食べていける」ようにと願う親や学校の教育の中に、広く、深く巣食うものとして問題提起している。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べている。

 

本書では学校における「教育虐待」にも大事な問題提起がなされているが、この文章では家庭での「教育虐待」を中心に考えたい。

 

 (1)「教育虐待」の広がり

親に叩かれたり、「死ね」などと言われたりするという話を、近年複数の中学生から聞いた。
理由は、勉強や成績である。
小学生のとき、中学受験を前に暴力を受けたという子どももいる。
両親からの場合も少なくない。
経済的には問題のない、むしろ親の教育意識の高い家庭で、この種の虐待が少なからず起こっていることを知り、この本を手に取った。
近年増加傾向にあるようだ。

子どもの能力がどこかストレートに発揮されず、自信がない場合、また体調不良や、学校での人間関係がうまくいかない場合、その裏にこうした暴力の問題が潜んでいることがある。

 

親の「教育熱心」が、思春期の子どものプライドをズタズタにする。
「教育」が虐待の理由であるのは、報道でよく耳にする、主に貧困家庭での子どもの虐待が、しばしば「しつけ」のつもりだったと弁解されるのを思い起こさせる。

また、暴力や暴言は伴わなくとも、子どもの強い管理がいつの間にか急速に進んでいると感じる。
たとえば、親が子どもに次の試験では何点取るのかと理路整然と迫り、子どもは高得点を約束せざるを得ないというようなことが起こっている。
また、結果が悪ければ叱る。
子どもが勉強していなければ親が心配になるのは当然のことだ。
しかし、様々に悩みながら自立を目指さなければならない中高生に対して、成績だけを問題にして、まるで幼い子どもでもあるかのように叱ることが、子どもを成長させるのだろうか。
子どもを別人格として尊重せず、そのプライドや自主性、また能力をも損なうものではないだろうか。

 

また、その大人の価値観や、子どもとの関係のあり方が、彼らの学校での人間関係に反映されているのではないか。
つまり、成績による序列を偏重し、相手の人格に向き合わない「教育虐待」の構造は、同じく序列を第一とするスクールカーストやいじめの構造だ。
子どもが友人との間で「親分子分関係」に甘んじているケースも少なくない。

また、親から虐待を受けた子どもが、学校でもいじめられるケースが多いと感じている。

 

(2)  「傷付けないように」の限界

古荘氏が強調するのは、思春期は精神疾患を発症しやすいピークであるという事実である。
ストレスに弱い時期の子どもが、「教育虐待」によって発病したり、またその下地がつくられたりすることに警鐘を鳴らす。
また、その精神医学的知見が教育現場に行きわたらないことに焦りを感じている。

確かに、「教育虐待」は子どもの成長に甚大なダメージをもたらす。
発達障害の原因になる場合があると主張する学者もある。

また、問題は外からは見えにくく、暴力が伴わない場合でも、子どもは長い時間をかけて深く傷ついていく。
親が子どもに勉強を押し付けるというようなわかりやすい形で問題が見えることはむしろ少ない。
子ども自身が刷り込まれた強迫観念に追い立てられて、自ら大量の勉強や通塾をこなそうとしたり、または、それができなくて追い込まれる。
自分の感情や気力を見失ってしまう様子も見られる。
古荘氏も指摘するように、親は子どものためだと思い込み、また子どもは自分自身を責める。

そういう子どもの苦しみに大人が非常に鈍いという主張にも同感だ。

 

しかし、古荘氏の、子どもを否定するよりも肯定しようという論調には疑問を感じる。
もっと率直には、子どもを「傷付けないように」という考えが底流に感じられ、しかしそれで「教育虐待」や、子育ての悩みが解決するとは思えない。
親たちは、むしろ子どもに将来問題が起きないように、傷付くことがないようにと考えて「教育虐待」に至ったり、また子どもの心配をしているのではないか。

相手が子どもに限らず、「傷付けてはいけない」というのが、今の時代の考え方の一大トレンドだが、その裏で、家庭という密室で子どもを最大限に傷付ける「教育虐待」が起こっていることをどう考えればよいのだろうか。

むしろ、私たちが他人を傷付けることを恐れ、また自分も傷付きたくなくて、他人と深く関わることができないことが問題なのではないだろうか。
子どもの将来や教育に不安を感じても、私たちは夫婦でぶつかることも、学校の問題に踏み込むことも避けがちだ。
学校も、親に対して言うべきことを言わない。
学習会の参加者の一人は、学校は保護者への情報提供などサービスに努めるようになったが、親の顔色を見ている、と感じておられた。
傷付けないことが最優先課題なら、批判などできず、疑問さえ出せない。
学校も親も一向に考えを深めることができず、子どもの教育は改善されることがない。
親は孤立し、先の見えない時代に子どもはどう生きていくのかと不安は高まる。

そのしわ寄せが、一番立場の弱い子どもに及んでいるのではないか。
他人との関係が希薄になる一方で、親子関係の一体化は一層深刻になり、そのことも虐待の一要因だろう。
表向きは何の悩みも傷付け合うこともないかのように繕われ、「プラス思考」がもてはやされる。
しかし、その大人の守りの姿勢の裏で、子どもが傷めつけられている。

 

また、古荘氏は、最近の子どもが些細なことにも傷付き易いことを示唆しているが、それは何故なのだろうか。

これについても、「傷付けてはいけない」というトレンドが、彼らをより傷付き易くしているのではないか。
傷付け、傷付くことを恐れる子どもたちは、むしろ傷付きやすくなっている。

傷付け合ってはいけないのだから、何か問題を感じても、腹を探り合うばかりで思っていることを話し合ったりできない。
教師は率直に話し合えと言うけれども、そんなことをしたら「いじめた」と責められるという子どもの声もある。
大人の守りの姿勢を、子どもが超えることは難しい。
結局、相手への違和感を態度で示すことにもなる。
それはより子どもを傷付け、そして誰も何も学べない。

また、「傷付いた」と感じた後も、相手と話すことも、誰かに相談することもできない。
あってはならないことが起こってしまって、そう感じたら最後、その場に立ちすくむ。
「傷付いた」という結果だけが蓄積されるのではないだろうか。

 

(3) 他人と深く関わって生きる

学習会で印象に残ったのは、大学生の母親である参加者が、大学入試のネット出願を全て親が行なったことを悔いる発言をしたところ、なぜそれが問題なのかという疑問の声があがったことだ。
親自身は皆、かつて大学入試の出願は自分で行ったのに、子どもは勉強で忙しく、また出願ミスをするかもしれないという。

そういうことがまったく珍しくない中で、かんたんに挫折する子どもが増えている。
何のミスもリスクもないようにと、子どもを「勉強」に閉じ込めることが、子どもを自立から遠ざけているのではないか。
親がするべきことは、子どもの「手伝い」ではない。

また、私たちは本来、問題がよくわかるようにオープンにされて、自分の問題に気付き、そうして傷付く中でしか問題を超えていけない。
にもかかわらず、まるで傷付くことを避けられるかのような考えは、問題解決の可能性を消し去ってしまう。

 

私たち大人は、「傷付けないように」という金科玉条をひっくり返し、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、大人が解決すべき問題を解決していかなければならないのではないか。
たとえば、子どもの学校に問題があれば、親は問題提起するべきだ。
部活の顧問などの体罰や暴言、いじめの問題はもちろんのこと、学校がむやみに大量の宿題を出すことや、日々の自宅学習時間を報告させるような管理にも同調していてはならないのではないか。
進学実績を上げなければ経営や運営が成り立たない学校と一体化して子どもを追い立てるのではなく、子どもの成長を真っ直ぐに追求して、学校とは一線を画すべきだ。

また、子どもにも、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、その中で自分をつくっていけるような教育を保障しなければならない。
知識や学歴をたんに足し算のようにいくら身にまとわせても、そうした力はつかない。
もっと知識を、もっと成績をと子どもを追い立てるような教育ではなく、子どもが他人との関係の中でじっくりと自分自身を見つめ、人間として成長する力を引き出す教育だ。

そうして目的を持って生きる人間として自立できれば、「食べていける」。
他者や社会と深く関わって生きていくことを目指してこそ、「食べていける」のではないか。

 

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん

「教育虐待・教育ネグレクト」が行われるキーワードは「代理」である。筆者は、『親自身の満たされない思いを、子どもに投影してしまう-「子どもを自分の代理にしてしまう」という行為なのです』と述べている。私達親は、それぞれの教育方針を立てて子どもを育てていくのだから、自身の過去の体験や思いが子育てに反映されることは当然であり、それ自体は悪いことでは無いと思う。

私の場合、子育ての中心にはいつも母親がいた。私の母親は厳しくしつけをする人であった。私が子供だった頃は、少しでも母親に反抗的な態度や生意気な言葉遣い(こちらの意図とは関係なく母親が生意気かどうかを決める)をすると、一週間でも二週間でも口をきいてもらえなかった。これが母親流しつけであり、ことの重大さの差異はあるであろうが、現代であれば筆者のいう「教育ネグレクト」である。許して貰えるまで何回も「ごめんなさい」と言い続けた経験から、私は子どもを叱っても無視をすることはしないようにした。他にも、相手の言葉に敏感に反応してすぐに怒り出す母親が理解出来ないまま大人になった私は、誰にでも優しく接するように子どもに伝え続けた。人に優しくして傷つけてはいけないという考えは、「教育虐待・教育ネグレクト」とは一見真逆である。

しかし、今、私は子育てを振り返り反省している。何故か。相手を傷つけないようにすることが親切であると伝え続けて、我慢をしていい子にしていることが美徳であるかのように強いて来たからである。常に母親とのことが思い出されて、子どもの意思を尊重しない子育てをした私は、結局、「満たされない思いを子どもに投影して」しまっていた。相手を傷つけないようにすることばかりを考えて、人と深く関わる機会を奪っていたのである。

では、筆者の言うとおり、「教育虐待・教育ネグレクト」の問題を、「子どもの意思を尊重する」ことや「指示をする、子どもを評価するのではなく、子どもを自由にさせて」みることで、解決することに繋がるのであろうか。そうは思わない。見守っているだけでは子どもの成長は限界があると思う。

子どもに自分の思いを投影してしまったのは、私自身自分がないからである。自身の生きる目的やテーマがはっきりとしていれば、それを子どもに示すことができたであろう。そうすれば、強いることなく子どもに考えや思いを伝えることができたのではないか。

 

高校生の母、Bさん

どの家庭でも大なり小なりの問題を抱えているのではないかと思うが、家庭の枠組みを超えてそれらの問題を共有する場が少なく、親は思春期の子どもを抱えて堂々巡りをしているケースが多いのではないか。少なくとも我が家はそうだ。この学習会に参加して、自分の心配事を話せて救いになった。夫以外の人と子育てのことを話し合えるということは、それだけでストレス解消効果が大きかった。

今回のテーマは「教育虐待」だった。教育が虐待になり得る背景には、先行き不透明な世の中で生きていくため「せめて教育だけでも」と思う親の心があると思う。親の過剰な心配が問題をこじらせるような気がする。

生きていく上で教育が必要なことは勿論だが、不透明な世の中を生きていくためには「学歴」以外のものもそれ以上に重要になる。コミュニケーション能力、ストレスをやり過ごすスキル、多様な価値観を受け入れる能力、希望を持ち続ける力等々いろいろなものが考えられるが、親にとって、子どもに良い教育を受けさせ学歴を与えることが、子どもに一番してあげやすいことなのかもしれない。幼少時からの受験産業の隆盛がこのことを示している。「学歴」以外の人間力とも云うべきものは、結局、親の生き方が問われるので、我が身を振り返ると結構辛い。子どもに向かって文句を言うことは、天に向かって唾をはくことに他ならず。今回の学習会はいろいろと反省する機会となった。

 

高校生の母、Cさん

「『教育虐待・教育ネグレクト』という大変衝撃的なタイトルでしたが、習い事や部活動、そして進学等の場面において、どの家庭でも起こりうることだと感じました。
一度立ち止まって考える。
一歩離れたところから観察する。
そんな気持ちを忘れずに子供と向き合っていきたいと思います。
学習会に参加するのは初めてでしたが、終始和やかな雰囲気の中で話も大いに弾みました。
このような学びの機会に恵まれましたことに感謝いたします。

 

中学生の母、Dさん

テキストをみんなで読み込む会の参加は人生で初めてだったので脱線しがちになってしまって失礼しました。
でも、海外での教育状況、高校、大学、就職活動での様子など色々なお話を聞くことができて、とても参考になりました。

学校で塾でと日々頑張っていて「お疲れ」の我が子は せめて家庭ではゆっくりさせてあげなければと思いはするのですが、だらけている姿とみると ついついあれこれ言ってしまいます。

成績が中から下でも、一芸に秀でていなくても、まじめに働けば人並みの生活が送れるような世の中であれば、こうも親がしゃかりきになって学歴をつけさせようとはしないかもしれません。

子育ては20年もの長い期間(場合によってはそれ以上?)続き、しかも正解がわかりません。
自分たちが育ってきた時と比べて世の中の変化が速すぎて、10年先のことも予測できないのに、子どもの将来を見据えて教育をしていくことの不安。

筆者のいう、「ありのままを受け入れる」のは、親である自分こそが「あなたの子育ては間違っていないよ、大丈夫だよ」と認めてほしいのかもしれません。

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