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『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会報告

テキスト:『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会(岩波ジュニア新書2009年)
(2016年12月11日(日曜))

 

12月の学習会には、中学生、高校生、大学生の保護者の方、6名が参加されました。

今の子どもたちの生活に大きな影響を与えているケータイ・スマホの問題は、私たちにとって新しい問題であり、前々から気になりながらやっと手を付けられたというのが正直なところです。
参加者の方と日頃の悩みや疑問を出し合い、本来この問題はどう考えていくべきなのか、話し合いました。

学習会を終えての私の感想と、参加者の感想の一部を掲載させていただきます。

 

スマホ問題の解決を通して「自分づくり」を
1.   「自分づくり」ができないスパイラル

親や学校にとっての子どものケータイ・スマホの悩みの多くは、使い過ぎによって勉強時間が少なくなるという問題のようだ。
子どもが勉強のためにきちんと「時間管理」をしてほしいというのが多くの保護者の願いである。
実際、最近の高校生のケータイ・スマホ利用時間は、一日平均2時間にもなるという。
3時間、5時間も、また実質的には24時間スマホに「支配」されているような状況も珍しくない。

一方、尾木氏の問題意識の中心は、中高生の最重要課題である「自分づくり」がケータイによって妨げられるのではないかというものだ。
思春期にある中高生が自分自身について深く考えることなく、ケータイでの安易な自己確認や自己顕示に走ることを懸念する。

 

もちろん、勉強も「自分づくり」の大切な要素だが、実際に子どもがスマホやタブレットの「時間管理ができない」と嘆く保護者は多く、「時間管理をしなさい」という指導はあまりうまくいっていないのも事実だ。

彼らは、勉強を怠けてスマホで楽しんでいるというよりも、スマホや、スマホを通しての友人関係に流されないほどの確かな自分自身をまだ持たず、スマホに吸い寄せられているのではないだろうか。

瞬時に友だちとつながる高機能は、思春期の強い自意識や友だち依存の特性とあまりに相性がよい。
下校後にも学校の友人関係に配慮して延々とラインを続けたり、またライン外しのようないじめや陰口の問題もある。
子どもたちが、思春期という不安定な成長過程にあって友人関係に悩むのは当然だが、スマホによって問題はよりややこしくなっている。
そもそも学校での友人関係に問題があるから下校後にまで引きずるのだが、スマホはそれを可能にしてしまう。

「自分づくり」が進まないからスマホやタブレット、またゲームに流れ、ますます「自分づくり」が進まないという悪循環が生じているのではないか。

 

学習会では、中学生の息子にもっと思春期らしく「悩んでほしいのに…」という思いや、大学生の娘が「友人と会って話したナカミなどよりも、写真や動画をSNSやYouTubeにアップすることに忙しい」ことへの心配も語られた。

 

2.  「友情」よりも、自分のテーマ

尾木氏はテキストの中で、大学生のひきこもりが増えているという問題を挙げている。
中高生のときに自分自身の意思で行動した経験がなく、「親の価値観や学校で教えられた価値観」しか持たず、動けなくなる大学生だ。
そうならないように「自分づくり」が必要だと説く。

確かに、ケータイ・スマホ問題に現れている子どもたちの本当の問題は、今現在の問題に留まらず、この先も、大学生、社会人として、周りや社会とどう関係して生きていけるのかという問題だ。

 

ただし、彼の考える「自分づくり」のナカミは、思春期の心、「内面」の成長に偏っているように思われる。
「友情」や「思いやり」、「人を傷付けない」ことを学び、「自分らしく」生きるというところに留まる。
確かに、思春期の葛藤がどれほど大切かという問題提起は重要だが、自分自身として何をテーマとして生きるのかという、「自分づくり」の核心が抜け落ちているのではないか。

それではひきこもり問題も、スマホの問題も解決できない。
子どもたちの多くは人間関係を軽視しているのではなく、むしろそれは重く、「自分づくり」の方は進められずにひきこもり、またスマホにかじりついているのではないか。

 

また、子どもがスマホを持たなければ「自分づくり」が進むという訳でもない。
社会全体が目的を見失った現代における、子どもたちの「自分づくり」の難しさが、スマホ問題によって浮き彫りになっているだけではないか。

尾木氏が現役教師だった時代の、テキストに登場するかつての子どもたちの大人への反抗は、今はぐっと弱まって、そのエネルギーがより多く子どもたちどうしに向けられているように感じる。

本来は、スマホや友人関係に関して今実際に起こっている個々の問題に向き合うことを、彼らの「自分づくり」に組み込まなければならないのではないか。
子どもたちの「自分づくり」は、そういった子どもたちの生活に根付き、そして彼らの生きるテーマをつくっていくようなものでなければならない。
また、そういった「自分づくり」の一環としての取り組みでなければ、スマホにまつわるトラブルも解決しないのではないか。

 

3.   「管理」でも「放任」でもなく

ところが、大方の中学、高校は、建前としてのケータイの持ち込みや使用の「禁止」と、そのルール違反に対する「没収」でお茶を濁している。
当然、ラインのトラブルや下校後のスマホ依存に対しては何もできない。

保護者も戸惑っている。
学習会の参加者は、スマホに関しては子どもの知識の方が親を上回ることへの不安を語った。
尾木氏も、そんなことは「子育てと教育の歴史上はじめてのこと」と述べる。
また、この全く個人的なツールは、子どもが何をしているのか、ナカミが見えないブラックボックスである。子どもが家庭の固定電話を使っていた頃のように、それとなく様子を知ることもできない。
犯罪を含めたトラブルの心配もある。

 

なんと難しい問題が、子育てに登場してしまったのだろう。
容易に管理もできなければ、さりとて様々な危険性に目をつぶる訳にも、また彼らが「自分づくり」を進められないままに放任する訳にもいかない。

尾木氏は、「現実の日本社会をいかに人権尊重とモラルに満ちた民主主義社会に変革することができるのか、その本質的な問いかけが、ネットによるバーチャルタウンの出現によって試されている」と述べる。

つまり、ネット依存やいびつな自己顕示、人権侵害などの問題は、私たちが普段の生活や社会の中で、まだ十分に対等で民主的な人間関係を築けていないことの反映でしかなく、ネット問題解決のためには、現実社会をよりよくする以外にはない。

私たちはいよいよ、子どもの教育についても、これまでの「管理」か「放任」かという二択の教育ではどうにもならないところまで追い詰められたのではないだろうか。
子どもたちが親や学校にこれほど強く管理される現代に、逆に、大人が容易には管理できないようなスマホが現れたのは不思議な矛盾だ。
私たちは、スマホという難しい宿題によって、一方的な管理教育でもなく、「子どもは自由にさせています」でもない、一つ上のレベルの子育てへ進むようにと背中を押されている。

子どもの自立、「自分づくり」を目指す私たちは、スマホ問題に対しても、「禁止」と「没収」、「管理」と「放任」を超える代案を出していかなければならない。

 

※スマホ問題の直接的な具体策については、『スマホチルドレン対応マニュアル』学習会報告をご覧ください。

 

◆参加者の感想より

□思春期の子供たちが抱える問題は、思った以上に深刻であった。思春期という心身ともに不安定な中で、現社会のみならず、大人たちが作り上げたネット社会の中に一旦足を踏み入れたら、もしくは、引きずりこまれたら、自分の知らないもう一人の自分が一人歩きをしてしまうのではないかという怖さがある。「携帯・ネット」の問題は、親である私たちがその全体像を把握できていないところにもある。いじめの手段や中傷の書き込みはどこまでどう広がっていくのかわからないのが怖いのである。このような複雑な環境の中で振り回されずに自分を見つめることはとても難しいと思う。

しかし、ネットの中で繰り広げられているバーチャルな社会も、「れっきとした社会現象にすぎない」と、著者は述べている。「私たちのこのアクチュアル(現実的)な生活そのものなのです」とある。
結局、「携帯・ネット」問題は、現社会に生きる私たちの問題そのものであり、いじめや、自立の問題なのである。これからも、子供たちと一緒に「携帯・ネット」を勉強しながら、自分探しをしていくしかない。

 

□まず、学習会に参加して良かったと思うことがあります。それは普段、忙しさを理由になかなか読書に手が届かない日々を過ごしてきましたが、このように期限と課題があると時間の合間をぬってできるものだと痛感いたしました。
そして読書した後もテーマについてあれこれ考えることが、今までに無い時間を過ごすことができとても有意義でした。

子供たちの携帯の所持率が上がりつつある頃、私は好ましいこととは思いませんでした。学校で友達と会っている時に話せることを家に帰ってから何故わざわざ携帯を使って連絡し合わなければならないのかと。
その後も携帯が及ぼす悪影響についてばかりが耳に入り、この先子供たちは大丈夫なのかと不安にさえなりました。
しかし、我が家の息子達は今となっては携帯が及ぼす悪影響についてもだいぶ熟知し、逆に便利なツールについての知識が増えてきて上手く付き合えるようになってきました。
著者も語っていたように携帯を子供たちから塞ぎ込むのではなく充分に子供たち自身に携帯について考えたり話し合う機会を設け、それは家庭から学校、地域で取り組むべきなのだと共感いたしました。
そして親も一緒に学ぶ努力も必要だと改めて思いました。

 

□デジタル時代に生きるということで、インターネットやラインなどは当然主要なコミュニケーション手段です。ただ、あまりにも簡単につながれるということから、依存してしまうのも理解できます、自分自身のことも含めて。
今日の会では、自分づくりに思春期のなかで、どう取り組んでいくかが最重要だなと感じました。コピペ、絵文字が簡単に使え、画一的な表現、自分づくりしかできなくなっているのかも、それにこそ、危機感を持つべきじゃないかと感じました。
個の確立をどう手助けできるかということで、これから高校生になった時、スマホを与える機会を、単に使用のノウハウだけでなく、アナログ時代の親とデジタル時代の息子との、それぞれの思い、心配、期待などをシェアする場にしたいと思いました。
自分づくりは、一生涯の仕事ということは、日頃から私自身痛感することでもあります。それはデジタルで気軽な方法だけではできないということをなるべく早く気づいて欲しいと感じました。一人っ子、男子校、共働きと、リアルな生活も非常に限定的な中で、夢中になれるものが一つでも見つかってほしいです。

 

□親でも扱うことの難しいスマートフォン。まだ持っていない息子にとてもタイムリーな話題でしたので、今回参加をさせていただきました。

本書では、中高生の成長を通しての携帯との付き合い方について書かれていました。中でも気になったのは、現在の「大学生」についてでした。私の中の「大学生」という存在は、完成された大人のイメージでしたが、最近の大学生は引きこもりなど問題があるように思います。「本当の自分」がわからず、あるのは親の人生観や学校で教えられた価値観ばかりと気付いた子達が心のバランスを崩してしまうようです。
そうならないためには、中高生時代の「新しい自分づくり」が大切だと本書では言っています。壁にぶつかったときに身軽に検索で答えを求めてしまう、またはメールやラインで友だちと共感を得るなど、現代の子達は簡単に回答を手に入れてしまいます。とても便利であると思う反面、自分と向き合う大切な時間を見失ってしまう可能性もあります。
この情況は子供だけに限ったことではないと思います。自分の学生時代を振り返ると、今みたいに便利ではなかったこともあり、何かしら不安を抱え込んでいて、自問自答を繰り返していたように思います。しかし、大人になり、スマートフォンという便利なものに出会ってからは、簡単に回答を得てしまう自分がいました。そして何の解決にもなっていない自分にも気が付きました。今の子供達はより慎重に上手に付き合うことが大切だと思います。

『「個性」を煽られる子どもたち』学習会報告

『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット2004年)学習会
(2016年10月30日(日曜))

10月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者の方と、卒塾生の保護者、および卒塾生が参加されました。
休憩時間中もお話し合いが絶えず、ひとりで悩むことの多い子育ての問題について、他の保護者と話し合えてよかった、気が楽になったとの声もありました。

また、参加者の方から、学習会の感想として、「個性」とは結局何なのかという戸惑いの声と共に、それぞれの答えが寄せられました。

今回、「個性」という難しいテーマが焦点になりましたが、みなさんの関心の高さに背中を押されました。
子どもたちももちろん悩んでいますが、それがはっきりするまでに相当時間がかかるのに対して、私たち大人はすでにいろいろな問題意識がコップ一杯になってあふれていると感じました。
そのことに十分応えられるように、より一層よく話し合えて、学び合える学習会にしていきたいと思います。

以下に、学習会を終えての私の感想、特に個性についての考えを掲載します。
また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

 

問題意識こそ、個性
1. 友人関係の息苦しさ

今の多くの子どもたちの友人関係は、とても息苦しいもののようだ。
その状況を知る入門書として、本書を取り上げた。
参加者の一人は、初めてその状況が少しわかって、以前子どもに、その友人関係について的外れなことを話したと振り返った。
時代の変化は早く、私たち大人が今の子どもたちのことを理解するのは難しい。

土井氏は、彼らの「友だち関係の重さ」や「優しい関係」、その息苦しさを的確に指摘する。
また、特殊な事件の根底にある、広く一般の子どもたちに共通する問題が、調査に基づいてわかりやすく説明されている。

2. 生きる目標や指針がない

ただし、本書には問題解決の展望がない。

子どもたちの「親密圏の重さ、公共圏の軽さ」という現象を現象のまま捉えたのでは不十分であり、その本質は、「親密圏」、「公共圏」を問わず、あらゆる人間関係の「軽さ」、「他者の不在」である。

また、それは子どもたちだけの問題ではなく、大人社会の同じ問題の反映でしかない。
たとえば、現在保護者と学校は、学校や家庭の問題について十分に話し合えるような状況にはなく、同じく、子どもたちどうしも互いの対立やトラブルが表立たないように気を遣い合って、深くは関わり合わない。

それでも、人間は本来他者との関係の中でしか自分を展開できず、大人も子どもも手近な親密圏の人間関係に頼りがちである。
その重くて薄い関係には、問題があると同時に、潜在的には外とつながる本来の生き方への希求があるのではないか。

しかし、私たちにはまだその指針がない。

経済成長を目的に生きた祖父母や、親の、次の世代として、何を目標に生きればよいのか、私たち自身が戸惑っている。
今の社会には、皆で共有できる、わかりやすい目標はない。
たとえば、偏差値の高い学校を目指すことも、かつては社会全体の経済発展という目的を共有することでもあったが、経済発展の難しい今は、たんなるお互いの競争になりがちだ。

子どもたちもどう生きたらよいのかわからず、彼らの意識が人間関係や処世術に吸い寄せられ、その苦しみが「いじめ」やその特質としても現れているのではないか。

3. 問題意識こそ、個性

私は、土井氏の主張する、個性が「社会規範」と化しているという矛盾が問題だとは思わない。
問題は、個性のナカミだ。

また、個性が他人との比較による相対的なものだという土井氏の考えに反対だ。
「比較」は、子どもたちが自分の生き方を考え始めるために必要だが、その一契機でしかない。

彼らが「自分の感覚こそが、ともかく最優先」という状況だとも、それを個性だと本気で考えているとも思わない。
表面的な感覚を優先していたとしても、肝心な感覚は抑圧し、それをおいそれとは外に出せないのが、子どもたちの実態だ。

私の考える個性とは、他ならぬその人自身が、自分のそれまでの人生をどう理解し、この後の人生をどうつくっていきたいのかという自己理解である。
また、これからどう生きていくのかを考える中で、それまでの人生への理解を深めていく、その全体が、自己理解=個性だ。

また、それは単に自己満足的なものではなく、客観的、具体的なものでなければ、個性とは言えない。
自分は他者や社会とどう関係してきたのかを具体的に振り返り、そして今後はどう関係して生きていくのか、という客観性や具体性だ。

つまり、自分を含めた人間というものや、人間の人生を、またこの人間社会をどう理解し、どんな価値基準を持って生きるのか、その自己理解=他者理解=個性だ。

たとえば、中高生がどんな職業に就きたいのかが、個性や夢ではない。
個性や夢とは、医者になりたいという思いではなく、どんな医者になりたいのか、医者になって今の社会のどんな問題を解決したいのかという問題意識だ。

また、個性は若者だけの課題でも、夢でもない。
私たちは誰もが、自分の存在や人生は何だったのか、何なのかを死ぬまで問い続ける。
その日常生活の中での具体的な問題意識が個性であり、またそれが、自分の個性を全面展開する唯一の源だ。

現実にぶつかって心が折れる中にこれからの自分があると、自分に言い聞かせる毎日である。

田中由美子

 

◆参加者の感想より

卒塾生の保護者、Aさん

この春、高校を卒業して4月から大学生になった娘は、新しい環境で新しい友達と新しい付き合いが始まっている、はずであった。しかし、実際には、スマホを片手に以前と何も変わらない、差し障りのない言葉のやり取りをするその場しのぎのお付き合いが夜中を過ぎてもほぼ毎日続いている。

作者のいう、「優しい関係」である。

良好な関係を築くため(壊さないため)に、自分の気持ちよりもその場の空気を優先して、その時を乗り切っていく刹那的な関係は、常に気が休まらずにさぞかし疲れるであろう。

実は、親である私自身が言葉遣いに気を配り、極力波風を立てないような対人関係を目指し、「優しい関係」を築いて過ごしてきた。母親にでさえ、未だにストレートに本音や感情を表すことができずにいる。その結果、今になって、もどかしさや息苦しさが溢れ出して自分に大きくのしかかってきている。家庭論学習会に参加させていただき、少しでも何かを学びたいと思ったきっかけの一つである。

子供たちが小さい頃から、「たくさんのお友達を作って、みんなに優しくしてね。」と、伝え続けてきた子育てを振り返り、その言葉の意味を改めて深く考え、遅ればせながら親が子に与えた影響を学習会を通して考える機会をいただいた。今後、母と、そして、子供たちとどのように関わって過ごしていきたいのか。何より、子供たち自身は、本当は私とどのように付き合っていきたいと思っているのか、または、本当はどのようなことに負担を感じているのであろうか。

この、本当はどうしたいのか、本当は何をしたから辛かったのか、という心の奥底の声に素直に耳を傾けると、自分の「個性」が見えてくるのであろう。

 

生徒の保護者、Bさん

テキストについては答えが見つからずに終了したように思いましたが、私にとっては初めて皆さんとあのようにお話し合いができたことにとても意味のあった会でした。

現代の子供たちの友達関係は確かに複雑化しているように思いますが、1人1人は自分の目的を探す為に必死になっていてそれがなかなか見つからず友達との関係に固執してしまう傾向にあるのかな?と思いました。

我が家の息子達も今、自分のやるべきことが見えている時は友達とのLINEなどそれ程気にする事もなく上手く距離を置いて付き合っているように思いました。

大人も忙しくしている時は周りの人間関係をさほど気にせずにいて、時間を持て余すと余計なことまで考えてしまうように思います。

子供たち1人1人が自分のことに関心を持ってこれからのことを真剣に考えていけるような機会や場所が学校の中だけでなく、もっとたくさんあったら少しずつでも変わっていけたらなと願うばかりです。

 

生徒の保護者、Cさん

素の自分の表出・・・自分の思いを優先しストレートに発露する
装った自分の表現・・・自らの感情に加工を施して示す

本書では、この二つを対比させていましたが、私は「自分の思いを、偽ることなく 相手が理解したい、聞いてみようかな と思うような表現をする。」のが理想的だと思いました。娘がこんな風にできれば、いずれ社会に出たときに、苦労があったとしても 理解者を得て頑張れるのではないかと思っています。

自身を振り返ると 若いときは、伝えたい自分の思いがあったけれど、表現ができず 遠回りをして それでも伝わらず あきらめたり。今は経験で多少器用に、マシになったはずなのに 「自分はどうしたい?どう思う?」中身がわからなくて悩みます。

どの世代のどんな人も子どもたちの様に 自分自身を表現することは 難しく、勇気がいることだと思います。

ただ、娘が本書のように自分を偽って学生生活を送らなければならないなら 頭のどこかに本当の自分を消し去らないでおいてほしいと思いました。いつか、自分を表現できる時が来るまであきらめないでほしいです。苦しいこともあると思いますが そういうものを心に抱えながら生きていくことで、工夫をしたり、周りの人の気持ちに共感したり、想像したりできるようになるのではないかと個人的に思っているからです。

この学習会をきっかけに「個性」について、じっくり考えましたが、個性=性格なのか、個性的 と言われるちょっと人とは違った特別な何かなのか、混乱しました。はっきりとした正解がないことを深く考えるのは、普段とは違う感覚でした。

『主婦論争を読む』学習会報告

上野千鶴子編『主婦論争を読むⅠ』『 〃 Ⅱ』(勁草書房1982年) 学習会
 (2016年5月22日(日曜)・ 7月17日(日曜))

 

私が専業主婦だったとき、漠然と「主婦」であるということに問題があるように感じていました。
じゃあいったい何が問題なのかというとよくわからない、漠然とした思いでした。

家事や育児はなくてはならない仕事であり、 それが大事な仕事だなどと言われると、当たり前すぎてかえって反発を感じるくらいでしたが、それでいて、自分に自信や誇りが持てませんでした。
多少外で働いてみても、大きくは何も変わらず、しかし経済的な問題が無関係だとも言い切れない…何をどう考えればよいのやら、霧のなかでした。

60年も前の「主婦論争」は、私のその当時の混乱そのままでした。
この60年間で社会は大変化を遂げたけれども、主婦の悩みや混乱にはまだ解決策が出されていないだけではなく、それがどういう悩みなのか、その正体すら明らかになっていないのではないでしょうか。
また、子育てはますます難しくなってきているように思います。

以下、学習会を終えての感想です。

最後に、参加者の感想も一部をご紹介します。

 

目次
(1)  主婦の生き方ってどうなのか?
(2)  主婦論争と、残された問題
(3)  自分の基準をつくるかどうかという問題

 

(1)  主婦の生き方ってどうなのか?

今回読んだ主婦論争は1955年から始まる。
私の母が結婚して主婦になる3年ほど前だ。

まだ家電もなくて家事に手間のかかった時代なのに、そのときすでに主婦という生き方について、これほどの論争があったというのは驚きだ。
60年代末期に主婦がマジョリティになるずっと前である。

 

当時、安い既製服がある訳でもなかったから、母は私と妹の服を縫い、初めて既成服を買ってもらったのは小学5年の時だった。
髪もずっと母に切ってもらっていて、散髪屋に初めて行ったのも、その頃だ。

また、父の仕事関係での主婦の役割も多かった。
たとえば、年始の挨拶といった特別な時に限らず、父が職場の同僚と飲みながら話すのも、自宅でだった。
社宅での主婦どうしの付き合いも、絶対に問題を起こしてはいけないと父にくぎを刺された上での、母の「仕事」だった。

つまり、当時主婦はたくさんの家事をこなし、家計をやりくりし、また「内助の功」にも励んだ。
主婦の仕事はなくてはならないものであり、母は生き生きと働いていた。

ところが、まだそれほど主婦が忙しかった時代に、主婦という生き方についての論争がこれほど盛り上がったのだ。
なぜだろうか。

まず、「主婦」という話題以前のこととして、この時代、戦中戦後の混乱を経験してきた人々が、まだ貧しい生活をなんとか成り立たせていこうという熱気があったのではないか。
反戦や反核、生活改善のための社会運動をしていた主婦が少なくなかったことも、この本で知った。

その背景の上で、はやり、その主婦論争の盛り上がりは、何よりも主婦自身が自分の生き方について、何かもやもやするものを抱えていたからだろう。
母も、私たち子どもが育ちあがるにつれて、自分の人生に焦りを感じていた。
戦後、職場と家庭の分断が進んでいく中で、男たちは当時の最大の問題であった「貧しさ」に、仕事を通して日々直接取り組んでいたのに対して、主婦たちには取り残された感もあったのではないか。
戦争中に、大家族の下、男も女も子どももなく総出で働いていたところから解放されたが、しかし、取り残された。

私自身も、子どもの服を縫う必要も、母ほどの内助の功も必要ない中で、やはり戸惑った。
今思えば不勉強なことだが、主婦ってどこへ行っても「お客様」だという焦燥感を抱えていた。

 

そもそも、一般庶民が社会的生産に直接関わらずに生きて、家事や育児に専念するという主婦の存在は、人類史上初である。
生産性が格段に上がったからだ。
先進国では、女も子どもも家族総出で働かなければ食べていけないほど生産性が低い時代を終えた。
また、高度経済成長時代、まだ家電も安いお惣菜もない時代にさらに生産性を上げるために、企業戦士を支えるための専業主婦という形が効率が高かったのだ。

その「主婦」の登場以来、私たちは戸惑っている。
その後日本社会は圧倒的に豊かになり、また女性の社会進出が進んで専業主婦は減り続けても、基本的な家庭の枠組みや、男女分業の意識に大きな変化はない。
また、娘として、主婦である母親との関係のあり方を模索する人も少なくない。

主婦の生き方にどんな問題があり、どんな解決策があるだろうか。

 

(2)  主婦論争と、残された問題

55年からの第一次主婦論争は、まず女性も職業を持ち、もっと張りを持って生きるべきだという問題提起から始まる。
女性の従属的地位からの解放のためにも、まず経済的自立が必要だと主張する、職場進出論派である。

それに対して、主婦の仕事の重要性を主張し、また他の職業と並べてお金の問題としては考えられないというような「神聖さ」を主張する派が対抗する。

当時の状況は、主婦も職業を持たざるを得ない階層があると同時に、職場進出などできないという状況の主婦が大半だった。
また、今現在もこの問題が解決された訳ではない。

この二派とは別に、主婦は、社会的な問題意識を高く持った市民として生きているという主張もあった。
そういう勢いもある時代だったのだ。

 

60年代の第二次主婦論争では、家事労働をきちんと経済的に評価すべきだという主張が登場し、社会保障として「主婦年金」を制度化すべきだという問題提起もなされる。

この「主婦年金」は、四半世紀後の86年になって、国民年金第三号被保険者制度として実現された。

共働き世帯は70年代から増え始め、90年代に専業主婦世帯数と拮抗し、2000年代に逆転した後、現在も増加中である。
「主婦年金」の是非が、今大きな問題だ。

しかし、家事労働がまだ大幅には産業化されず、また主婦がマジョリティであった60年代に、主婦の生活保障として「主婦年金」が提案されたこと自体は道理だったのだと学んだ。

 

70年代の第三次主婦論争では、「生産」よりも「生活」に価値を置く生き方が提唱される。

主婦こそ「生活」中心の解放された人間であるという主張には賛成できないが、男も「生活」中心に解放されるべきだという方向性はうなずける。

高度経済成長期の企業戦士の娘だった私の場合は、社会的生産がともかく第一で、それ以外の、例えば家庭のことなどは付け足しのような意識だった。
父だけがそういう意識だったのではなく、母も私も同じ意識にどっぷりつかっていたことを自覚していなかった。
それは大きな問題だったと思う。

しかし、では一体どう生きることが「生活」を重視する生き方なのか。
主婦論争の中には、まだその代案は無い。

 

なお、主婦論争を収録した今回の二冊のテキストの中で、子育ての問題を取り上げているのは梅棹忠夫だけだった。
それが奇異に思えた。
主婦の問題は、その労働の中心、子育てに集約して現れ、その問題をいかに解決していくかが問われるのではないか。

また、梅棹氏が半世紀余りも前に提起した母子一体化の問題は、その後深刻度を増し続け、現在も子育ての問題の核心だろう。

ただし、彼の解決案は、女性の「職場進出論」でしかなかった。
母子一体化の問題は、主婦による子育てに限った話ではない。
その後親子の一体化はさらに進み、子どもを自立させられないという問題は、主婦だけではなく、働く女性も含み、また父親をも含む問題となっている。

 

(3)  自分の基準をつくるかどうかという問題

「生活」を重視する生き方とは、自分自身の経験をもとに自分の考え方の基準をつくり、その基準を生きるという生き方ではないだろうか。

それは、主婦かどうかには関係がない。

むしろ、主婦という立場から基準をつくるべきだが、主婦に問題があるとすれば、そういう責任から一歩引いてしまうところにあるのではないか。
今回、参加者の一人の主婦が、自分は主婦だから夫や子どもを媒介としてしか社会と関わってこなかったと語った。
私自身もそう考えてきて、 そこには個人的な問題だけではなく、社会的な背景もある。
しかし、その一歩引いた捉え方自体を、私たちは克服していかなくてはならないのではないか。
それが今の私の答えだ。

 

夫が社会的生産を行う一方で、主婦として家庭を担っていた母の場合も、私の場合も、また、妻も職業を持つ場合も、単に社会的生産を第一義としてしまい、自分の立場からのものの見方をつくらないなら、家庭での問題を解決できない。
また、解決しようという過程は、自分の基準をつくっていく過程でなければならないのだとも言える。

そのことは、何よりも子育てにおいて問われるのだと思う。

例えば、子どもが学校や部活の基準に合わせなければならないと考えてくたびれ切っているのに、親が学校と全くの一枚岩で、子どもを追い詰めることがある。
また、子どもが本当に困っていることは、親の勉強についての心配などとはたいてい別のところにあり、またより厳しい困り方をしているように思う。
しかし、子ども自身も、親と一体化しているために、自分が本当に困っていることを本当に困っていることとして捉えることさえ難しい。

また、中学受験に失敗したと感じている子どもが、陰に陽に「リベンジ」を求められて、追い詰められることもある。
「偏差値」という基準に染め抜かれた子ども自身が、親の認識以上に傷付いているのに、その気持ちがきちんと受け止められることは少ないように思う。
受験の結果はよくなかったけれども、それは問題ないと言う親も多い。しかし、それでいて、親に「偏差値」以上の基準や価値観がなく、結局は受験の結果が絶対的なことだから、子どもの心は行き場がない。

親の価値観が多少とも更新されたときにはじめて、子どもは委縮から解放されて、自分の問題に取り組んで本来の力を発揮することもできるのではないか。

 

主婦も含めた親のやるべきことは、子どもの成長過程の中で、現実の具体的な問題に取り組むことを通して自分の価値観を更新し続けることではないか。

そうせざるを得ないような状況が、まさに子どもが苦しんでいることの中に現れている。
子どもが今どういう問題を抱えているのか、よく見なければならない。

でも、私の経験では、それは自分自身の問題を見ることを通してしかできない。
具体的な問題に取り組む中で、自身の問題にぶつかってはじめて、他者の抱えている問題にも少しずつ目が開かれていくように思う。

 

また、子育ては本来、子どもを媒介に社会と関わるのではなく、親が直接社会に関わる覚悟を持つべきことなのではないか。

もちろん、子育ての目的は子どもの自立であるから、そこに矛盾のある難しい課題だ。

しかし、まず、子育ての責任は親にある。

また、社会や学校と対等な立場にあるのは、子どもではなく、大人である親である。
例えば、子どもの学校と対等に話し合えるのは親だけである。
特に中学くらいまでは実質的には親が選択した学校であることからも、その学校にどういう問題があり、それをどう解決するのかといったことに関わる覚悟が必要だったのではないかと振り返る。
保護者として、ただ授業料を払うだけで、学校の言いなりなら、親の責任を果たしているとは言えないのではないか。

 

 

◆  参加者の感想より

<五月学習会>
主婦、Aさん

主婦業ほど様々に議論がなされる仕事もそう多くはないであろう。 石垣綾子は、主婦という立場を、「第二の職業」として厳しい目を向け、主婦の心がいかにふやけているか、「朝から晩まで、同じ仕事を永遠に繰り返している主婦は、精神的な成長を喰いとめられる。」ことによって、知的な鋭さを次第に失っていくなどと指摘し、主婦の仕事内容だけではなく、主婦の存在そのものを安易、怠慢だと批判している。この論文が書かれたのは、1955年のことだが、現在でも、生活が向上して、さらに時間的に余裕ができた主婦たちへの批判的な意見が消えることは無い。

私は専業主婦であるので、この文章を読んだ時には、そんなに批判をしなくてもと思いながらも、確実に自身の中に空虚感を抱えていることも否めないと思った。家事や育児は、社会に対しては大切な生産的仕事であるはずなのに、なぜ、社会に働きに出てものを生産することだけが自立であり、ものを消費する立場の主婦は、「男に寄りかかる。」ことになるのであろうか。

平塚らいてうは、「ものを作るのが人生の目的ではなく、消費されない限り生産の意義がない。」としている。しかし、大切なことは、単に、経済的に生産する、消費するということではないと思う。社会で働いて生産し(第一職業)、経済的に自立している主婦も、精神的に自立していなければ、「人間として生きて行く。」ことにはならない。

この家庭論学習会で学びたいと思っていることは、社会の一員である私の、主婦としてのこれからの人生の目的意識をはっきりとさせることである。そうすれば、建設的ではない消費に感じていた後ろめたさは少なくなるのではないか。また、主婦業が安易で怠慢だと言われても、自信を持って過ごすことができるのではないか。

 

<七月学習会>
主婦、Aさん

前回に引き続いて、今回も主婦という特殊な立場を掘り下げて考えた。その中でも、職業を持たない主婦は、武田京子によると、「自由で人間的な生き方をしている」らしい。それは、「働かないですむこと、なまけものであることを主体的に選んで生きている」から、というのが理由である。武田はさらに、「社会的生産労働など、まったくしないですむのがより理想に近いかもしれない。それは義務でしかないのであるから。」としている。さすがに、それは言い過ぎだと思うが、専業主婦が、「自由で人間的な生き方をしている」のであれば、羨まれるような立場であるはずなのだが、なぜ、専業主婦自身が自分たちの仕事や立場に疑問やコンプレックスを抱き、論争など起こるのであろうか。

専業主婦である私の場合、主婦の仕事のほとんどが子育て中心に回っていた。主婦の仕事=子育てだと思い込んでいた、と言っても過言ではない。武田の言う、「なまけものである」か、ないかは別問題として、「自由な生き方をしている」などとは、今までこれっぽっちも思ったことはない。むしろ、子供たちのことを優先して、自分のことは後回しにしてきたからである。そして、子供たちが巣立った今、私の仕事は一応終わったのであるが、働く女性であれば、定年時に支払われる退職金にあたるものが専業主婦にはない。退職金は、自分が社会で積み上げてきたことの証である。私が、今まで積み上げてきたものは何か。何もないのではないか。そこに、矛盾や疑問、やるせなさが溢れ出てくるのであろう。

これは、決して経済的な問題だけではない。子供と一体化し、依存し過ぎた結果、自分がないと感じている私の生き方の問題である。さらに、専業主婦だけではなく、働く主婦たちも子供に依存した生活を送っていれば、働く女性としての退職金は手にしても、主婦として何が残ったのか、と私と同じ疑問を持つのであろう。

主婦にとって退職金に当たるものは何か。主婦の仕事の証と言えるものは何か。それは、これから社会で活躍するであろう、成長した子供たちなのであろうか。

さらに、この先、主婦として、女性としてどう生きるのかという問題にも正解はない。自分自身の人生の過ごし方を探したい。

 

社会人ゼミ生、Bさん

主婦自身が自分を抑圧しているという武田論文の指摘が心に響いた。抑圧から抜け出そうと外に出ても、それで抑圧がなくなる訳ではない。

また、多くの論文が掲載された雑誌、『婦人公論』は、今は女性週刊誌の高級版のようになっているが、当時、主婦も投稿して本格的な論戦があり、また、マルクスを実際に読み、それをもとに意見を述べている人が多いことに驚き、おもしろかった。

『女と自由と愛』学習会報告

松田道雄著『女と自由と愛』(岩波新書)学習会
(第3回 2016年3月13日(日曜))

3月の学習会には、私の勤める国語塾、鶏鳴学園の生徒の保護者、社会人ゼミ生、卒塾した大学生が参加されました。

テキストの前半を読みながら、結婚や恋人、家庭について、若い人と年配者、社会で働く人と主婦というような、異なる立場の思いが語られました。
例えば、若い女性に、仕事の厳しさから逃れたい思いから主婦願望があるのに対して、子どもが巣立つ喪失感に戸惑う主婦の思いです。
また、自分が不登校になるまでは、父親は、稼いで来ればそれで家庭に対する責任を果たしていると考えていたのではないかという、家庭のあり方への振り返りもありました。

さて、テキストですが、松田氏は、女性にとって厳しい現実社会との闘い方を指南しながらも、女性一般の意識の問題を指摘しています。
まず、結婚は自立した市民間の対等な契約であるべきだが、女性にそういう人権意識が弱いのではないかという問題提起。
また、社会で出世することを重視する「上昇志向」のために、家庭での仕事に誇りを持てないのではないかという問題提起です。

以下、詳しい感想です。
参加者の感想も、一部をご紹介します。

 

女性の意識と、家庭の仕事
目次
(1)  問題は、仕事と結婚の両立なのか
(2)  女性の人権意識、価値観の問題
(3)  家庭の仕事の孤独
(4)  変革意思
(1)  問題は、仕事と結婚の両立なのか

女性の生き方を論じる本書を、松田氏は「はたらく女と専業主婦」という章から始める。

今回の学習会でも、主婦の不全感やコンプレックスの他、若い女性の、上司の独身女性に対する、自分は「そうはなりたくない」と表現されるところの結婚願望や、彼女が不当に優遇されているのではないかというやっかみなどが正直に吐露された。
女性が、同じ女性の生き方に自分の人生を重ねてみて、その後どんな働き方をするのか、また未婚か既婚かが、複雑な感情を伴って強く意識されている。

女性にそれだけの対立が存在するのには、背景として、現実社会にそれ相応の問題があるのだと思う。
つまり、特に女性には、家庭の外で働きながら結婚生活を送ることに困難がある。
それゆえ、仕事を選ぶ者と結婚を選ぶ者、双方にコンプレックスも生じやすく、対立が起こりやすい。
少なくとも近年まで、その両方を選ぶことに何の問題の無かった男性には、こうした対立は起こらない。
結婚して働くのも、結婚せずに働くのも、今も女性特有の難しさがあるようだ。

その現実の十分な認識なしには、女性の生き方は語れないだろう。

しかし一方で、松田氏は、仕事か結婚かというこの二者の対立が女性の問題の根本ではないと考えている。

 

(2)  女性の人権意識、価値観の問題

本書は小説仕立てになっている。
教会傘下の幼稚園の園長として、独身のまま先進的な教育に取り組んできた女性と、保守的な教会側、という対立が背景である。
その園長の側に立つ若い女性が、協会側に立つ主婦のことを「なんて料簡が狭いのか」と息巻くのを、筆者がなだめるところから話が始まる。
松田がその女性と手紙のやり取りを重ね、女性の問題の全体を説いていく。

結婚より仕事に気持ちの向かうこの若い女性と、片や、結婚して主婦になったものの、家庭の仕事をすることに誇りを持てない多くの女性との間に、松田は、対立よりも、むしろ共通する問題を重く見ている。

 

松田は、結婚は自立した市民間の平等な契約であるべきだと述べる。
ところが、女性が、人権意識や職業人意識の低さから、対等な男女としての契約なしに結婚し、無条件に家庭に入ることが多いことを問題視する。
結婚前の職業を辞めることに対しても、また「主婦」という家庭経営の職業に就くこと、結婚に対しても、責任感が薄く、また、自分の権利も主張しないという問題だ。

学習会の参加者の一人は、自分が家庭を守る役割を引き受けるという契約の意識を持って結婚したと語った。
彼女の意識は、松田が問題にしているような単なる恋愛礼讃的なふわふわしたものではなかった。
ただし、彼女に夫と対等であるという意識はなかったという。

私には、契約の意識も、対等との意識もなく、また長くそれに気付かなかった。

女性が、「女も男のするように自分の生き方は自分で選んでいいのだという現代の人権について無知だ」と松田は述べる。

社会に対して閉じた面を持つ家庭の中で、必然的に依存し合って生きる家族の一人でありながら、個人としての人権や自立の意識を強く持つことの難しさがあるだろう。

しかし、
結婚する場合も、しない場合も、自分の人権の自覚を持って生き方を選んでいくべきだという主張だろう。

もう一つの問題として、松田は、社会で出世することを重視する「上昇志向」の問題を挙げる。
主婦の不満や卑屈さの原因の一つは、その立場が「上昇志向」の欲求を満たさないことだろうと述べる。
「大多数の市民は昇進もなく、社会的評価もしてもらえないところで生きています」という松田の指摘は、私が自覚していなかった自らの「上昇志向」に不意に光を当てた。

少し話が逸れるが、そもそも主婦という生き方は、妻が働かなくても生活できるような階層だから成り立つという面がある。(最近は、貧困層に専業主婦が増えているが。)
それは、夫が社会的に「評価」されたことの結果であり、しかし、妻自身への評価ではないという歪みも、私の中にあったかもしれない。

ともあれ、「上昇志向」的価値観の貧弱さを、松田は結婚しない若い女性にも、また結婚した女性にも見ていた。

私は家事が好きだったが、家庭内のことは私事に過ぎないというような意識があった。
それは、高度経済成長期に仕事をした父の意識であっただけではなく、母も含めた家族の意識だったことに最近になって気付いた。
外で夫がバリバリ働くことや、子どもがせっせと勉強することが表舞台であるのに対して、日常や家庭は楽屋裏であるだけではなく、半ば仮の世界だった。
家族の日々の生活の衣食住を支え、彩り続けてきたことに喜びと誇りを感じながら、同時に「仮の世界」に生きる空虚さを抱えていた。

 

(3)  家庭の仕事の孤独

主婦としての不安を振り返ってみると、松田の指摘する、が挙げる個人的な意識の問題と併せて、家庭内の仕事や問題を、大きな社会的な視点で捉えて相対化することが難しい状況が問題だったと思う。
目の前の問題が一体どれほどの問題なのか、あるいは問題ではないのか、また問題であるとすれば、どう解決すればよいのか。
それらの問いが言葉にもならないままだった。

自分が社会的に評価されるかどうか以前に、他の職業がそうであるように、同じ仕事に取り組む仲間と共に、その仕事について学び、その能力を高めていくことができればよかったのではないか。
家庭の問題は、それだけ重要で、難しい仕事だ。
人の子の親になるというような新しい仕事に対して、また子どもの成長と共に学び続けながら、一つ一つ自覚的に問題解決していってこそ、プロ意識や誇り、また自分自身の価値観を育てていくことができるのではないか。

 

松田は主婦の生き方の例として、料理教室やボランティアといった活動を挙げているが、的を外していると思う。

誰か他の人のために活動するよりも、まずは自分自身の仕事の能力を高めるような活動が必要だ。
主婦自身が、料理のテクニックなどで悩んではいるのではなく、子どもを社会に送り出すという、社会的な仕事としての子育てについて悩んでいるのである。
子育てだけではなく、家族の関係や病気、老後等々の家庭内の問題は、それを家庭内に留めずに、社会的に学び、解決しなければ、解決の難しい仕事である。

特別な社会的活動が先にあるのではなく、まずは自分の家庭や社会的関わりを直接に変革していく過程の中に、女性が社会に出ていくことの必然性があるのではないか。

 

(4)  変革意思

松田には、自然でも社会でも、それが人間が生きるのに不便なら、「人間の都合のいいように人為をもって変えていくのが人間」だという信念がある。
「人類の半分の女に不都合にできていたら、つくりかえればいい」、「それができるのが民主主義」だという変革精神だ。

だから、女性にとって、仕事と結婚の両立が難しいことについては、松田はその現実をしつこいくらい強調しながら、しかし、闘って変革すべきだということが前提である。
厳しい現状を甘く見ずに、社会が男本位なら闘い、また、家庭の中では男女平等を実現できると説く。
松田が、結婚を勧めるというようなおせっかいをするのは、生活の中で地道に闘うための戦略であり、闘うことが前提になっているのだ。
厳しい状況や、他者の意向が前提になるのではなく、変革が前提である。

問題は、そういう変革の意識が私たちにあるのかということだ。
松田はそれを問題にしている。

 

また、松田は子育てについて、「自分の生き方を大事にする母親」が、「自由の喜びを知った自立した人間を育てられる」のだと、母親の生き方を問う。

一方で、松田は、母親のやさしさが子どものやさしさ、良心を育てるとも述べる。
「あれこれの戒律を教えるのが家庭の道徳教育ではありません。人からやさしくされることがどんなにいいことかを、あかちゃんの時代から教わるのが家庭です」。
社会主義の「家庭不用論」の失敗を目の当たりにし、また、小児科医として長年、子育てや家庭の意味を考えてきた松田らしい言葉だ。

しかし、私たちが考えるべきは、後者のような、母親の「やさしさ」といった自然的傾向の礼讃ではなく、前者の、母親がその人為をもって、いかに一個人としての「生き方」をつくれるのかという問題である。

子どもが自分自身を尊重するような強いやさしさを育むのは、前者によるだろう。

「自由の喜びを知った自立した人間を育てる」とは、現状に適合するような人間に育てようとするのではなく、身近なところから変革して生きていけるような人間を育てることではないか。
母親自身がそのように生きているのかが問われる。

 

管理社会に呑み込まれるのではなく、個人を守り、確立するような家庭経営を松田は主張する。

単に現在の社会に適合し、また適合する人間を育てようとして、会社や学校に振り回されるような家庭ではなく、逆に個人の砦になるような家庭。
例えば、子どもが学校で問題を起こしたら、親が学校と同じ側に立って子どもを責めたり、また単に子どもに同調するのでもなく、学校と十分に話し合って、学校と親の変革に取り組むような姿勢ではないか。

私たちの多くが経験した、戦後の男女の完全分業も、その役割を果たし終えて行き詰った。
そこから出てくる答えは、対等な男女がチームとして家庭を経営し、また、「上昇志向」を変革意思へ切り替えていくことではないだろうか。

 

◆参加者の感想より

生徒の保護者、Aさん

少し前であれば、「主婦の生きがいは何か。」という問いに、「家族の幸せを願い、支え、応援し続けること。」と、何の疑問も抱かずに答えていたと思います。それが良い母、良い妻であり、私自身の幸せでもあると信じていたからです。勿論、今でも著者の言うように、「家庭が精神を安定させる」場所になることは大切だと思っていますが、問題は、私自身の生きがいがそこにしかなかった点にあった、と学習会を通して認識することが出来ました。

主婦の生きがいについて、「私が問題にしているのは、ふつうの女の人が主婦になることと、自分のえらぶ人生を生きることと両立させられるかということです」と著者は書いています。子育てや家事などの仕事をしている主婦としての自分、プラス、一人の個としての自分があるべきだったにも関わらず、いつの間にか、主婦がイコール自分の全てであり、主婦の仕事の中にしか生きがいを見つけられなくなっていました。

子供たちが成長し、手助けを全く必要としなくなった今、この先の人生をどう生きるのか、これからも学習会に参加して答えを探したいと思っています。もしもこのまま、家族に依存した状態で過ごすのであれば、自分がないままに生きることになるからです。以前、主婦として同じような悩みを抱えていた参加者が、例え仕事をして収入を得て経済的に自立をしたとしても、精神的に自立をしない限り何も変わらなかったという意見が胸に響きました。

 

社会人ゼミ生、Bさん

専業主婦の時期に自分がどんどん卑屈になり、再就職したこと、再就職して卑屈な気持ちが軽減した、と知人の体験として聞いたことがあった。自分自身も収入を得たことで気持ちが安定したことを思った。だから、「稼ぐ」ことは自分が胸を張って生きるための確かな要素だと思っていた。しかし、学習会の中で田中さんが、過去にパートに出て自分に現金収入を得たが気持ちの辛さは何も変わらなかった、と話すのを聞いて、自分を支えるために、収入は大きな要素の一つだが、それだけでは自分の空虚感を解決できないのだと思った。そして、現在鶏鳴学園で中学生クラスを持ち、家庭論学習会を主催する田中さんが、今は過去の気持ちの辛さとは全く違う、もっと良い授業をしたい、授業も学習会も辛いけれど、と力強く話すのを聞いて、勇気をもらった。そして自分の中の穴を埋めるのは自分でしなければならないのだ、と改めて思った。

 

生徒の保護者、Cさん

この本が出版された1979年以来、日本は、男女雇用均等法、バブル経済とその崩壊後の不景気、就職超氷河期、格差問題、SNSの普及、アベノミクなどいろいろな時代を経てきました。

結婚後も働き続ける女性が増えたり、女性を取り巻く環境は大きく変わっているようにも見えますが、 一人一人が抱える問題は本質的にはあまり変わっていないと感じました。それが、一人一人の内面の問題なだけに、公の場では語られる機会がありません。

主婦として家の中で働くのか、外で働くのか、いずれにしても誇りを持って生活できるように選び取っていけないと思いました。

 

社会人ゼミ生、Dさん

意見交換の時間こそが、この学習会では重要だと感じた。意見交換でいかに自分の経験をこの場で話すか、言葉にしていくか。学習会を使ってそれぞれの自己理解を深めることこそが重要ではないか。具体的に言えば、自分が果たした子育てはなんだったのか、自分にとって家庭とは何なのか、本来どうあるべきか、に対する答えを自分で出すことだ。

また、50代の参加者が「これから20年生きなくてはいけない」と言っていた言葉が重く心に響いた。課題は盛りだくさんなのだ。大変だ。私自身も生きるうえで必ず答えを出さなくてはならない問題が立ちはだかっていることを今回自覚した。

 

社会人ゼミ生、Eさん

私のように社会に出たばかりの女子の中には、仕事を持つことで背負う責任やプレッシャーを感じ、そこから解放されたくて専業主婦に憧れる人も少なくない。私も、転職先に合格するまでは、現状が辛すぎて専業主婦もいいかもしれないな、と安直に考えていた。しかし、専業主婦も配偶者のお金でランチを食べること、自分が常にお客様であることへの違和感など、経済的、精神的にコンプレックスを抱えているということを知り、楽な道などないのだと心を戒めた。

専業主婦になるにせよ、仕事を持つにせよ、いずれにせよ、「楽になりたい」とただ流されているだけでは、家事と仕事の両立がむずかしい現代の社会においては、自分の人生への不満が大きくなってしまうのだろう。

松田の本には、結婚時の財産契約などの提案があったが、これらの提案から読み取れるように、自覚的に家庭を運営する、自分の道を選ぶ、自立する、ということは、家庭を持つ女性の必須課題であると感じた。

また、本の中で随所に見られる、家庭を持つことによる「安定」という言葉に引っかかりを感じた。私の年代の日常会話においても、「早く安定したい」=「早く結婚したい」であるということは、結婚を安定の手段と考えることが世間認識では一般的なのではないか。結婚すれば安定するという神話があるのではないか。しかし、裁判所で働く私の実感としては、家庭を運営する覚悟を持たない人が家庭を持つことによって、かえって家庭の深刻な紛争といった、安定と真逆なことが生じている。

結婚とは安定ではなく、互いが協力して、個々の人生の質を高めながら、一緒に生きていく(家庭を自覚的に運営していく)ことではないか。今回の学習会を通じて、本や意見交換が鏡となり、自分を深められたこと、それがなによりの収穫だ。

 

卒塾生、大学生、Fさん

今回の家庭論学習会では、専業主婦や働く主婦の区別を問わず、主婦一般が社会で自立するにはというテーマだった。この自立というのは、実は主婦、女だけでなく男の方にも関わっている問題、即ち人全体に関わっている問題だと思う。

私は大学生の男で、2月、3月は春期休業なので専ら家にいた。そこで私は家にいるとよく「自分はこれからどうやって生きていくのだろうか」という不安を持ち、それしか考えられなくなる。不安を紛らわすために美術館や本屋に行っても、帰ってくればまた不安になる。

多くの主婦もまた、日常の中で自らの人生や社会的な意義について悩んでいる。そしてその悩みは、非日常によっては解決されない。

こうして見ると、主婦が悩む「どう生きるか」という問題の根底は、女性だけの問題ではなく、「人の自立とは何か」という普遍的な問題だ思う。

それが主婦独特のように思えるのは、第一に近代以来の男女分業の名残があって「主として男が稼ぐ」という考えが一定数あること、第二に女性が現実的に男女不平等の風習に苦しんでいることの二点からだ。

因みに、第一の分業精神は「4低」という言葉の流行に象徴されるように、少しずつ変わっていると思う。勿論、分業の崩壊に対し「男は女から求められすぎている」という反対の声が多く上がっている現実もある。このような声を挙げるのはもっとものように感じられるが、これは建前としての男女平等に男も惑わされ、本音としての身体的な宿命等に起因する第二の問題、即ち風習としての男尊女卑という現実を見据えていない意見ではないか。

まとめると、主婦の生きがいという問題は人の自立とは何かという人間の普遍的な問題と、女性が家庭の内外で直面する男尊女卑という問題が重なった問題だ。

『社会的ひきこもり』学習会報告

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書1998年)学習会
  (第2回 2015年12月13日(日曜))
私たち大人の「ひきこもり」

今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70~80万にも上るという社会問題について学ぶためだけではない。

まず、この問題が、今の子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。

つまり、親子の一体化が強く、子どもを自立させることが難しいという問題だ。
そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾がある。
その上、子どもの教育期間が長くなり、思春期になっても、生活面で、つまり肉体的には親に依存しながら、精神的な成長を遂げなければならないという矛盾もある。
そうした中で、親としても、子どもに何をどう指導し、同時に、子どもの自主性、主体性をどう尊重すればよいのかという悩みに、日々直面するのではないだろうか。

 

また、子どもの「ひきこもり」の増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、私たち自身を振り返るためのテキストだった。
まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。

斎藤氏は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を失うという問題を指摘している。
特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する(=ひきこもる)父親の問題だ。
ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化につながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。

また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中にひきこもっているという見方もできるという意見が出された。
主婦が成長の機会に乏しいのではないかという問題提起だったと思う。

私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。
多少の仕事や付き合いはあっても、子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。

20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。

私が授業で接する中学生たちも同じだ。
「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。

私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会をつくったのではないか。
その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

 

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの枠の中で生きた昔の人たちも、また、個人がバラバラでもとりあえず生きていける、豊かな時代の私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきたのではないだろうか。

人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここからつくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。
さて、それはどういう生き方なのか、それが私たちのテーマだ。

 

◆参加者の感想より

生徒の保護者、Aさん

「ひきこもり」とは、辛く悲しい経験が続き重なった結果、それらを忘れてしまいたい、また、二度と同じような体験をしたくないと願うあまり、自分が置かれた状況と向き合うことなく思考を停止させ、現実からの逃避を試みた行動だと思っていました。しかし、この本を読んで、それは全くの誤解であり、逆に、ひきこもらざるをえなかった思春期の子供たちは、深い葛藤や強い焦燥感を抱き続けており、「ひきこもり」状態から抜け出したいと強く願っていることを知りました。そして、そこに、母親の歪んだ一方的な奉仕や仕事に逃避する父親の家族への無関心さがさらに「ひきこもり」を長期化させる悪循環の原因となっていることも見えて来ました。

家族の不安定な関係を考えた時、私も正論や常識を振りかざし、「何が正しいのか」ばかりを子供に押し付けて来たことに気付かされます。そして、子供たちが、「どう考えているか、どう感じているか」に耳を傾ける努力を忘れていました。一方的にしている会話であったにもかかわらず、コミュニケーションがとれていると思っていました。さらに、私の共依存的な態度がいっそう子供を苦しめ、追い詰めていたことを考えると、「ひきこもり」は人ごとではありません。

「ひきこもり」とは、単に個人の病理ではなく、身近に起こりうる社会的な問題であり、常に私たち大人が子供たちとしっかり向き合い、共感しようとする姿勢が「ひきこもり」をくい止めることに繋がると思いました。そして、何より社会全体に増え続ける「ひきこもり」に対する正しい知識、深い理解が欠かせないことも忘れてはいけないと思います。

 

生徒の保護者、Bさん

「ひきこもり」や不登校になってしまった方が身近にいたので、珍しいことではないとは感じていましたが、そのことについて考えたり、話をする機会はありませんでした。

仕事をしていたり、外に出ていても、開かれた関係をつくれていなければ「ひきこもり」であるということを知り、私自身も社会的「ひきこもり」かもしれないと感じました。

この学習会で発言をすることが、「ひきこもり」から抜け出せる一歩になるかもしれません。

学習会に参加することによって、ふだん手に取らないような本を読んだり、参加されている方の意見を聴くことができ、とても勉強になります。

少しずつ意見を言えるようにしていきたいと思っております。

 

卒塾生、20代女性、Cさん

SNS等の「面と向かわないコミュニケーション」の流行についても話が及んだが、社会、親、学校は子供たちを丁重に、傷つかないように「守っている」。そのようなぬるま湯の社会では傷つくことの耐性がつかないので、いざ現実社会で傷を負ったときに社会から逃避し、物理的にもひきこもってしまうのだろう。「ひきこもり」は個人の弱さに起因するものだと思っていたが、社会そのものの方向性が強く影響しているのだと学ぶことができた。

 

卒塾生、20代男性、Dさん

私は、父に大学院への入学について相談した。働いているのは父だからだ。すると父は、「大学で終わらせていい学費を院まで延ばすなら、やはりきちんとした動機を作るのが先でしょう」と返した。私は父の正反対の意見を受けて内心驚いたが、その時私には父が初めて父親の役割、つまり子を戒める役割を果たしているように感じられ、それ以来意見を聞くことも増えた。

父は、「自分は仕事にかまけてばかりいて、家庭を理解していないから」という理由をつけて役割から引きこもり、その引きこもりを理由にさらに引きこもる。つまり、引きこもりの悪循環に陥る。

しかし、子どもが父親自らの意見を求めた時、父親は自らの意見を忌憚なく伝えることで悪循環から脱し、家庭という社会に復帰することができる。

父はそうして築いた関係を足掛かりにして、母子の共依存関係に楔を打ち込むことができるようになるのではないか。

 

『アダルト・チルドレンと家族』学習会報告

斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房1996年)学習会
(第1回 2015年11月8日(日曜))

斎藤氏によれば、「アダルト・チルドレン」とは、家庭の中、主に親との関係の中で深く傷付いた人を指すとのこと。
そのトラウマに苦しむ人の様々な事例は、壮絶である。

しかし、予想以上に、私たちの多くは、本書をたんに他人事としては読めない。
自分の親との関係や、子どもとの関係、夫婦関係など、様々な経験が思い起こされるのである。
今回の学習会でも、父親は「仕事人間」で、母親は過干渉、かつ肝心なことには無関心で、いつもどこか不機嫌という家庭像と、母親の顔色を見て生きてきて「自分がない」という思い、しかし自分も親と同じ子育てをしているのではないか、つい子どもを過保護にしてしまうという悩み等々が出された。

それは、本書でこの問題の本質としている「共依存」的生き方の問題を、私たちの多くが抱えているからだろう。
つまり、自分というものを持たず、誰かに必要とされることを生きがいとするような生き方を、親から継承してきた人が少なくない。

そのことは、親子の強力な一体化という、現代の深刻な問題に真っ直ぐにつながる。
つまり、親子の「共依存」関係のために、親の子離れが難しく、子どもの親からの自立が難しくなっている。

しかし、今回の学習会では、子どもを持つ参加者も、子どもとの関係よりも、自分の親との関係を振り返る話が中心となった。
そして、子どもの問題についてどうするのかという話ではなく、私たち自身のことを話し合えたのは正しい方向だったと思う。
子どもを救うとしたら、そのことによってのみである。
斎藤も、まず親自身が、自分の親との関係の問題を直視することが重要で、そこからしか始まらないと述べている。

 

(1)  生きる目標の問題が核心

初回の学習会であったにもかかわらず、何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだ。まさにそこが本丸ではないだろうか。

今回のテキストのアダルト・チルドレンの問題も、「共依存」や子どもへの過干渉の量の問題ではなく、まずは大人がどんな目標を持って生きるのかが問われるのだと思う。

 

①問題のない家庭を目標とする生き方

学習会の中で、できるだけ問題のない家庭を目指したいという意見が出された。

私はその意見に違和感を持ち、それでは子どもが問題を抱えていても外に表せないのではないかと疑問を投げかけた。

ところが、後でゆっくりと考え直してみると、それは無意識のうちにも私を含めた多くの人の望みだ。
誰もが問題は避けたい。
また、目の前に問題があっても、なかなか真正面から見ることができない。
大した問題ではない、否問題なんかないんだと思いたい。

しかし、この意見を出した方自身が話されたように、実際には問題は起こり続け、避けられない。

そうであるのに、親が、問題が起こらないようにという減点方式なら、子どもには、究極的には何も行動しないという選択肢しか残らないのではないか。
何か行動を始めたら、問題が起こる確率が跳ね上がるからだ。
私に目標がなかったときの我が子の思春期の元気のなさには、そういう意味もあったのではないか。

問題に向き合い、取り組んで生きていこうということでないなら、問題を避けて生きようということしか残らない。

 

②家族の幸せを目標とする生き方

別の方からは、家族の幸せを目標としているという意見が出された。

夫についても、外で働いているから何か特別なことがあるのかと考えると、突き詰めれば、彼の幸せも子どもや自分の幸せであると。

そういうことが「共依存」だが、依存し合ってお互いが幸せであり、そのことがお互いに高め合っていくというよい連鎖になるなら、「共依存」は悪いことではない。
また、結婚して20年経った今は、ここまでの心理的な幸せ、葛藤があり、いろいろなことを乗り越えてきて、自分についても、夫についても、そういう確信があるという話だった。

確かに、そもそも、人間は、依存しなければならない状態で生まれてきて、関係し合い、分業し合い、依存し合って生きるものである。
「共依存」がたんに「自立」に対立する、悪いものという訳ではない。
足を引っ張り合うような「共依存」が問題なのであって、切磋琢磨し合うような「共依存」は、むしろ、人間が生きる醍醐味である。

彼女の話を聞きながら、主婦として家事をするだけではなく、自分の家庭をどうつくるのかということをよく考えてこられたのだろうと感じた。
子育てを巡っても夫婦でよく話し合ってこられたのだろう。

ただし、家族の幸せとは何かという問題が残るのではないだろうか。

同じ方が、娘を大学に入れても、それがゴールじゃない、次は、結婚できるのか、そっちの方が大事なんじゃないかという不安を話された。

子どもに、共に生きようという伴侶を得てほしいと願う気持ちは、とてもよくわかる。
また、自分の家庭をつくって生きてほしいという気持ちもわかる。

しかし、家族の幸せ自体を目標にして、それを達成することが可能だろうか。
むしろ、結婚や子育ては新たな問題を生みさえする。
その中で、家族がそれぞれどう生きることが、家族の幸せなのだろうか。
それはどう実現していけるのか。

 

③社会的な観点を持つ生き方

私自身が、家族の無事や幸せを求めて生きてきた。

さて、この後の人生を、何を目標に、どう生きるのか。
また、私たち、大人がどういう生き方をすることが、子どもたちがよりよい人生を送ることにつながるのか。

社会という観点を持つ生き方が必要なのではないかと思う。

しかし、それは具体的には何をどうすることなのだろうか。
学習会の中で考えていきたいと思う。

 

(2)  親による無意識の刷り込み

『アダルト・チルドレンと家族』の第4章、「「やさしい暴力」」の節、p139に以下の記述がある。

「世間や職場の期待とはまず統制と秩序であり、次いで効率性です。親たちはしばしば、これら世間の基準にそって生きることを子どもたちに強制するのです。子どもたちはこうした状況のなかで、親の期待を必死で読み取り、ときには推測し、それに沿って生きることを自らに強いるという自縛に陥ります。」

 

私はこの中の「強制する」という言葉に違和感を持った。
親の立場としても、子どもの立場としても重要な箇所だ。

違和感の理由は、親が「世間の基準」を子どもに押し付けていることを自覚しているかのような表現だからだ。

実際の「やさしい暴力」は、「世間の基準」以外の基準を持たない親が、それを子どもに押し付けているという自覚もなく押し付けることだと思う。
無意識にも、その基準に従う以外に親も子も生きる道がないという強迫観念の中で、子どもと共に生きることだ。

確かに、それは正に子どもにその中で生きることを強いる「強制」だと言える。
親にその全責任があり、子どもには、少なくとも思春期までは、それ以外の人生を選ぶ力がまだないからだ。
しかし、「強制する」という言葉では、むしろ、親を、子どもへの「やさしい暴力」を自覚するところから遠ざけると感じる。
自分は子どもに「強制」などしていないという認識に留まらせるだろう。

また、子どもの立場としても、親に「強制された」と被害的に考え続けたとしたら、その問題を解決できない。
それは主に中学生クラスの授業の中で考えてきたことだ。

 中学生たちは、親の価値観を刷り込まれたまま行き詰まる。

しかし、それがどんな価値観であっても、刷り込まれたこと自体が問題なのではなく、それが人間になる前提だと考えなければ、一歩も前に進めない。
生まれて以来毎日、「これ、美味しいね」、「おもしろいね」、「きれいね」、「それはダメ」と親に話しかけられたから、人間に育ったのだ。
刷り込まれなければ人間にはなれない。

そうやって親に与えられた人生を、いかに意識的、主体的に、自分の人生として捉え直すのかというテーマを、私も含めて誰もが背負っている。

だから、親が子どもに世間基準の生き方を「強制する」、ではなく、「無意識に刷り込む」という言葉を、私は使いたい。

 

◆参加者の感想より

生徒の保護者、Aさん

学習会のキーワードである「共依存」という言葉を知ったのは、ほんの数ヶ月前のことです。それまでは、きちんとしている良い子に近づけることが理想の子育てだと思いこみ、迷惑がる娘たちを尻目にせっせと世話を焼いて型にはめようとしていました。しかし、その出すぎた世話が子供たちの自立能力を削ぎ、離れられないように支配していた、などとは思ってもみないことでした。

それからは、子離れをして自立しなくてはいけないと考え直し、日々模索している状態の中、今回の学習会で出会った本が『アダルト・ チルドレンとその家族』でした。これほど心が震えた本はありませんでした。なぜなら、私自身が共依存者の母親に育てられた、「アダルト・チルドレン」だったからです。母親の強い保護の下に息苦しい生活を送っていた過去を封印して、娘たちに同じことを繰り返していたのです。手間をかけて育ててもらった感謝の気持ちとは裏腹に、母親の顔色ばかり気にして閉じ込めてきた様々な思いが溢れ出て来ました。それと同時に、自身の核であり今まで胸につかえていた感情が何であったのかを学習会で整理、理解できたことによりとれた気がしました。改めて、今までの子育てを自戒の念を込めて振り返り、子供たちが自分の感情や考えを大切に過ごすことの大切さを実感しました。

学習会に参加して、今が私自身の分岐点であると自覚し、新しい一歩を踏み出せたことにとても感謝しています。今後も知ること、考えることを楽しみながら学習会に参加したいと思います。

 

生徒の保護者、Bさん

「毒親」という話が出てきましたが、近年テレビでアナウンサーなどが公共の場で語っているのを聞いて、親に対し、そのような発言をするのはいかがなものか、と常々思っておりました。

しかし、親の過度な愛情、あるいは共依存が子供を苦しめる結果となることが身近に感じられました。

私自身、子供への接し方を顧みる機会となりました。

一方、人間は多かれ少なかれ共依存するものであると思うので、何事も程度の問題なのだということ、一人の人間として個を確立したうえで、補い合う関係を築きたいと思いました。

 

生徒の保護者、Cさん

私の過度の期待によって子供を押しつぶしているのではないかと漫然と思っていた私にとって、今回の学習会はまたとない機会であり、そして、自分が変わらない限り今のままだという焦りもあり参加させて頂いた。

これまでの家族のあり方を考えると、特に女性は共依存になり易く、参加者の意見を聞いて納得することしきりだった。色々なかたちの共依存関係があり、私なりに考えてみると、人間関係において、必要な依存と共依存の線引きがとてもあいまいで、年齢、人生におけるイベントの数々、また個人の性格、環境により、さらに複雑で、正解がないからこそ、もがいているのだと思った。今、子と共依存に陥らないためには、自尊心を促すように接することが肝要であり、では実際どうしたらいいのか? それには、自分の自尊心がどのような過程で形成されたか思い出していく作業に何か手がかりが見つかるかもしれないと思った。

 

卒塾生、40代女性、Dさん

田中さんから、学習会を始める動機の一つとして、家庭における「仕事」について共に学び合う場がない、という話があった。職場では職場の仲間たちと学び合い、教育される機会がある。一方、家庭の「仕事」は孤独な作業で話し合う場がない。

長く専業主婦だった母を思い出し、主婦の「仕事」を考えて、最初に浮かんだのは「家事」で、主に家族の生活を整える作業、食事作り、洗濯、掃除を思った。この「仕事」をやり続けた、自分の母の姿を思った。母を、専業主婦としての面だけで捉え、「仕事」も狭い意味で捉えがちだ。

けれど、「子別れの指針」を持つこと(テキスト145p)も「仕事」に含まれるのだ。

学習会立ち上げに先立って

2015年6月28日

6月21日(日)に、鶏鳴学園にて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会を行いました。もともと大学生・社会人ゼミ主催の読書会ですが、今回のテーマが「家庭論」でしたので、鶏鳴学園の生徒や保護者の方々にも関心を持ってもらえるだろうと思って、ご案内しました。
当日、生徒2名と、保護者の方4名が参加されました。
その方々の感想を紹介します。

 


高3女子のお母さん、Aさん
働きながら、家庭をしっかりと守っている女性が増えていますので、家の中のことしか出来ない自分に対して、複雑な思いと、誰よりも子供達や主人に愛情を持って行動しているのではないかという主婦としての誇りが入り交じって居りました。
主婦の自立や生きがいを考えた時に、あまり子供と一体化し過ぎず、しかし、子供を幸せに導くことは、バランス感覚が必要なことであると思います。
自分のことより家庭を優先し過ぎないよう、自分自身の自由や老後を考える良いチャンスとなりました。

 

高3女子のお母さん、Bさん
本日は貴重な機会をありがとうございました。
日々、子育てに関しては自問自答しながら真剣に取り組んできたつもりですが、それは自分の楽しみでもあり、確実に母子一体化してきたと自覚しております。
自分自身が、自立して自分らしく、できれば社会貢献できる道というのは、漠然と以前から考えてきたことですが、改めて真剣に考えなければいけないと思いました。
この20年ほど、専業主婦をしてきて、今はまた外に出て社会貢献をしたいという思いも強いのですが、本当に意味のあることを選び取っていきたいと思います。

 

中1女子のお母さん、Cさん
この本を読み、改めてこれから自分がどうしていったらいいのかを考えるきっかけとなった。
自由であるから迷っているし、正解がないので、今選んでいることも正解かもしれないし、間違っているかもしれない。これからもずっと、どう生きていくのかを考え続けることになると思う。
ふだん、なかなか他の世代の人の意見を聞く機会がないので、読書会を開いていただき、うれしく思います。
今後もこのような機会があったら、また参加したいと思いました。

 

中1男子のお母さん、Dさん
文明がどんどん発達して、便利になって来た現代において、昔のような三世代同居に逆戻りすることは、そう簡単ではない、むしろ不可能だと思います。その中で、介護の問題や、独居老人の問題などをどう解決するのかは、非常に難しい問題で、なかなか答えが見つかりません。
ただ、これから長い人生を生きていく上で、一人一人が意識を持って生きていくこと、考えていくことで、何らかの答えが出てくるのではないでしょうか。

 

高3女子、Eさん
女性の自立について考えていて、お金を稼ぐことが必ずしも自立ではない、指示されたままでは女性の立場は低いままだ、という新しい視点が持てた。
p71に、民主主義になるほどかえって女のよわさがでてくる、とあるが、何故民主主義だと女のよわさがでてくるのだろう。ここをもっと本を読んで、考えていきたい。

 

中1男子、F君
この本自体、難しくて半分ぐらいしかわからなかった。
この本では、江戸時代から終戦までの変化をくわしく書いていたので、自分が大人になってからもう一度読んでみたいと思う。
あと、初めて知ったこともあり、とても参考になった。

 


今回の読書会には多くの方に参加していただき、家庭というテーマが、どなたにも共通する、また人間にとって本質的なものであることを再認識しました。
私は、鶏鳴学園に関わるようになって、私自身がどのように生きるのかという問題について真正面から話し合い、考えるようになりました。今回の読書会では、より様々な立場の方とその機会を持つことができたことをうれしく思っています。
特に、お母様方の、ご自身の人生についての思いや迷いに共感いたしました。主婦としてのコンプレックスとプライド、自立への思い、そして、本当に意味のある社会貢献をしたいという思いなどです。今後も読書会に参加したいという声も伺いました。
当日はこれまでにない形の読書会に緊張の連続でしたが、あらためて振り返って、10代から60代までが集った壮大で、異色の勉強会でした。
こうした勉強会を、今後も用意していきたいと思います。是非ご一緒に、学び合い、語り合って参りましょう。

鶏鳴学園 講師  田中由美子